5 名もなき奇跡
ゼネ・レア王国の秋は、深く、そして鮮やかに色づく。
乾いた冷たい風が街路樹を揺らし、赤や黄色に染まった落ち葉が石畳の上をからからと音を立てて舞い上がっていく。
分厚い外套に身を包んだ王都の民たちが吐く息を白くしながら行き交う中、アリストン公爵家の紋章を掲げた馬車がメインストリートを静かに進んでいた。
「わあ……っ」
馬車の窓枠に両手をちょこんと乗せ、メルナは朱色の瞳をきらきらと輝かせていた。
久しぶりに見る人の営みの活気もさることながら、彼女の目を何よりも惹きつけてやまないものがあった。
王都の中心にそびえ立つ、巨大な大樹である。
夏の間は青々としていたであろうその途方もなく巨大な天蓋は、今は見渡す限りの燃えるような紅葉に染まり上がっていた。
風が吹くたびに手のひらよりも大きな真紅や黄金の葉が、まるで祝福の雪のように王都全体へと舞い散っている。
「綺麗……大樹って、秋にはこんなふうに色づくんですね」
窓の外の景色に見惚れ、小鳥のように感嘆の声を漏らすメルナ。
向かいの席に座るハーヴィは、その愛らしい姿から目を離せないまま優しく微笑んで頷いた。
「ああ。大樹の紅葉は、ゼネ・レアの秋の象徴だからね。でも、僕には君の朱色の瞳のほうが、ずっと綺麗に見えるけれど」
「え……! あ、あの、ハーヴィ様っ、からかわないでください……っ」
突然の甘い言葉にメルナは顔を真っ赤にしてきゅっと肩をすくめ、ふるふると首を横に振った。
小動物のように慌てふためくその姿がなんとも愛らしく、護衛として御者台の近くに控えていたランスロットでさえ青色の瞳を和ませて小さく吹き出していた。
やがて馬車は、大樹の根元から遠く離れた王都の北部――小高い丘の上にそびえる王城へと到着した。
大樹から離れているため、空気はより一層澄んで冷たく感じられる。
王城の敷地内にある貴族院。
そこが、大樹のシステムにメルナの魂を登録し、正式な妻として迎えるための手続きを行う場所だった。
高い天井にシャンデリアが輝く貴族院の長い回廊を、ハーヴィのエスコートのもと歩いていく。
しかし、そのきらびやかな空間はメルナにとって決して居心地の良いものではなかった。
「……見た? あれがアリストン家の」
「代々短命の呪いを受けた空っぽ公爵が、辺境の森から化け物を連れてきたそうよ」
「近付かないで。何が壊されるかわからないわ」
すれ違う貴族たちが扇子の裏でヒソヒソと、しかしわざと聞こえるような声で陰口を叩いている。
冷ややかな視線と、嘲笑。
その光景は、メルナの脳裏に「化け物、近付くな!」と槍を向けられた過去の記憶を容赦なくフラッシュバックさせた。
(怖い……やっぱり私、こんなところにいていい存在じゃ……っ)
極度の緊張と恐怖で、メルナの呼吸が不自然に浅くなる。
ぎゅっと握りしめたドレスの裾が震え、彼女の内に眠る膨大な魔力が制御を失い始めた。
回廊の窓ガラスが不吉な音を立て、足元の上質な絨毯の毛先が行き場のない魔力の熱でチリチリと焦げそうになる。
「メルナ」
限界を迎える寸前、低く落ち着いた声とともに彼女の震える両手が、ハーヴィの大きな手のひらにすっぽりと包み込まれた。
「あっ……」
繋がれた手から過剰に膨れ上がっていた魔力の熱が、彼という空っぽの器を通ってすーっと大気へと抜けていく。
あの不思議な現象が、再び起きたのだ。
呼吸が一気に楽になり、今にも泣き出しそうだった朱色の瞳が彼を見上げる。
ハーヴィはメルナを庇うように自分の背中側へそっと引き寄せると、灰色の瞳を鋭く細め周囲で嘲笑を浮かべていた貴族たちを冷ややかに一瞥した。
「彼女は我がアリストン家の正当な妻であり、この国を救うための尊き存在だ。これ以上、僕の妻を愚弄する者は――公爵家への明確な敵対とみなす」
普段は温厚な彼が放った、氷のように冷たく威圧感のある声。
その一喝に周囲の貴族たちは顔を青ざめさせ、そそくさと目を逸らして逃げるように立ち去っていった。
「大丈夫かい?」
「はい……っ、ありがとうございます、ハーヴィ様……」
自分を守るために怒ってくれた彼の優しさに、メルナは安堵の涙を滲ませながらその大きな手をきゅっと握り返した。
◇
手続きは滞りなく完了し、メルナの魂は大樹のシステムにアリストン公爵夫人として無事に登録された。
これで、大樹の結界を通り抜けることができる。
安堵の息を吐きながら王城の前の広場に出た――その直後だった。
『――緊急事態! 魔力供給塔が臨界点に達しました! 直ちに避難を!』
けたたましい警報が、秋の空を切り裂いた。
王城の広場の中心に設置されている、北部エリア一帯の魔力を管理する巨大な魔力供給塔。
その内部に組み込まれた水晶が、不吉な黒い光を放ちながら激しく点滅している。
長年、大樹の正しい調律が行われていなかったツケで溜まりすぎた魔力が、ついに塔の許容量を超え暴走を始めたのだ。
「きゃあああっ!」
「逃げろ! 爆発するぞ!」
先ほど回廊でメルナを馬鹿にしていた貴族たちも、広場を歩いていた民衆たちも、パニックになって逃げ惑う。
ランスロットをはじめとする王城の騎士たちも、あまりのエネルギーの奔流に立ち向かうことができず、ただ後ずさることしかできない。
(このままじゃ、爆発して……たくさんの人が傷ついてしまう!)
メルナは咄嗟に駆け出していた。
昔の自分ならただ怯えて蹲るか、自分の魔力でさらに事態を悪化させることしかできなかった。
けれど、今は違う。
自分には、ハーヴィ様がついている。
「メルナ!?」
「私なら、あの暴走を押さえ込めるかもしれません!」
止める間もなく、メルナは暴走する塔の真正面に立ち塞がった。
彼女は両手を前に突き出し、朱色の瞳に強い光を宿す。
身体の奥底から引き出した圧倒的な魔力を塔から溢れ出ようとする暴走エネルギーに真っ向からぶつけ、見えない壁を作って押さえ込んだのだ。
耳をつんざくような魔力の衝突音が響く。
「くっ……!」
メルナの魔力は桁外れだった。
確かに、塔の爆発を外側から力で封じ込めることには成功している。
しかし――内部で行き場を失った膨大なエネルギーは、逃げ道を求めてメルナの身体へ逆流し始めていた。
このままでは相殺しきれず、メルナごと吹き飛んでしまう。
「メルナッ!」
危険を顧みず、ハーヴィがメルナの背後へと駆け寄った。
どうすればいいのか、彼にも明確な理屈などわかっていなかった。
ただ、無我夢中で彼女を助けたい一心でメルナの華奢な肩を後ろから強く抱きしめ、彼女の手に自らの手を重ねた。
「ハーヴィ様……!」
「君ひとりに背負わせるものか……っ!」
――その瞬間だった。
塔の暴走魔力と、メルナの強大な魔力。
その二つの行き場のない巨大な熱が、重なり合った手を通じて一気にハーヴィの身体へと流れ込んできた。
(……!)
痛みはない。
ただ、ハーヴィという空っぽの器を途方もないエネルギーが凄まじい勢いで通過していく。
次の瞬間、ハーヴィの背中から無害な光の粒へと変換された莫大な魔力が、間欠泉のように勢いよく秋の空へと噴き上がった。
「え……」
暴走していた塔の赤黒い光が、嘘のようにすうっと消えていく。
すべてが収束したあと、王都の空には真っ赤な大樹の落ち葉に混じって雪のように美しい淡い光の粒がキラキラと舞い降ってきた。
静まり返った広場。
腰を抜かしていた貴族たちや民衆は空を見上げ、やがてその奇跡を起こした公爵夫妻に向かって、一人、また一人と畏敬の念を込めて膝をつき始めた。
化け物だと蔑んでいた少女が、圧倒的な力で自分たちを救ってくれたのだ。
「私……できました……誰も、傷つけずに……」
緊張の糸が切れ、へなへなとその場に座り込みそうになったメルナをハーヴィが優しく抱き留める。
朱色の瞳から、ぽろぽろと安堵の涙がこぼれ落ちた。
「ああ。本当にすごいよ、メルナ」
ハーヴィは、まだ起きた現象のすべてを理解できているわけではなかった。
だが、ただ一つだけ確かなことがある。
「君は僕の……いや、この国の誇りだよ」
ハーヴィはひだまりのように優しく微笑むと、涙を流す愛しい妻の淡い青色の髪に感謝の気持ちを込めてそっと口づけを落とす。
――しかし、その直後だった。
「……っ」
ハーヴィの身体が、ふらりと大きく傾く。
急激すぎる大容量の魔力の通過に、彼の身体が悲鳴を上げ視界がぐにゃりと歪んだのだ。
「ハーヴィ様!」
膝の力が抜け、崩れ落ちそうになったハーヴィの長身を今度はメルナが慌てて必死に支え留めた。
「どうしよう、お顔が真っ青です……っ! 私が無茶な力を流しちゃったから……っ!」
メルナは朱色の瞳を潤ませ、パニックになってあわあわと首を振っている。
その可愛らしくも必死な姿に、猛烈な魔力酔いによる頭痛と目眩に襲われている最中だというのにハーヴィの口元には自然と笑みが浮かんでしまった。
「……大丈夫だ、メルナ。君のせいじゃない。少し、気張って魔力を流しすぎたみたいだ」
ハーヴィは荒い息を吐きながら、支えてくれている彼女の華奢な肩にこつんと自分の額を預けた。
彼の青みを含んだ灰色の瞳が、すぐ下で自分を見上げている朱色の瞳と至近距離で交わる。
「ごめん。少しだけ……こうして、寄りかかっていてもいいかい?」
「は、はいっ、もちろんです! 私なんかでよければ、いくらでも寄りかかってください……!」
真っ赤になって頷くメルナの温もりと、森の朝露のような香りがひどい魔力酔いの不快感をすーっと和らげていく。
周囲の広場では、貴族や騎士たちがまだ畏れ多くて顔を上げられずにいるというのに。
秋の冷たい風が吹く中で、王都を救った公爵夫妻だけは他者の入り込む隙など微塵もない、ひどく甘くてあたたかな二人の世界に浸っていた。




