43 光の誕生
ゼネ・レア王国に、春を待つ柔らかな光が降り注ぎ始めた冬の終わり。
あの日、王都を飲み込もうとしていた禍々しい紫の月光は去り、アリストン公爵邸はかつてないほどの穏やかで、幸福な静寂に包まれていた。
主寝室の大きな窓から差し込む朝陽は、積もった雪に反射して、室内を宝石箱のようにキラキラと輝かせている。
ベッドの傍らに腰掛けたハーヴィは、首元にふんわりとした少し不格好だが愛情の詰まった毛糸のマフラーを巻いていた。
以前、メルナが彼のことを想って懸命に編んだ贈り物だ。
冬の寒さに弱い彼は、今やこのマフラーを外へ出る時も、こうして家で寛ぐ時も、肌身離さず大切に身に着けていた。
「……ふふっ。ハーヴィ様、そのマフラー、本当にお気に入りですね」
ベッドの上で上半身を起こしたメルナが、愛おしそうに彼を見つめる。
出産から数日が経ち、彼女の顔色には健康的な赤みが戻っていた。
その腕の中には深い眠りについた、小さいけれど、確かな重みを持った宝物が抱かれている。
「当然だろう。君の温もりがここに詰まっているんだからね……おっと、あまり大声で笑うと、彼が起きてしまう」
ハーヴィはそう言うと、メルナの腕の中にいる赤ん坊の、漆黒の産毛が生えた頭を細い指先でそっとなでた。
彼が指を離すと、赤ん坊はむにゃむにゃと口を動かし、ゆっくりとその瞼を持ち上げた。
そこには母であるメルナから受け継いだ、澄み切った朱色の瞳が宿っている。
「おはよう、ルキウス……今日もいい子だね」
ハーヴィが囁く。
――ルキウス。
光を意味するその名は、ハーヴィが百個以上もの候補を書き連ねたリストの中から、最後にたった一つだけ選び抜いた名前だった。
「ハーヴィ様。そういえば……たくさん候補があったのに、どうしてこの名前に決めたんですか?」
メルナの問いに、ハーヴィは少し照れくさそうに目を細めた。
「最初はね、アリストンの歴史に相応しい、もっと長く、威厳のある名前をいくつも考えていたんだ。けれど、あの日。紫の闇を切り裂いて、君の命を繋ぎ、この子が産声を上げた瞬間、僕の頭からすべてのリストが消え去った。この子は、僕たちを絶望の淵から救い出してくれた光そのものだと思ったんだ」
最愛の夫からの、魂のこもった命名の理由。
メルナは胸がいっぱいになり、ルキウスを抱きしめる腕に優しく力を込めた。
そこへ、控えめなノックの音が響き、扉の向こうから待ちきれないといった様子の三人の気配が伝わってきた。
「失礼いたします。旦那様、奥様……若君のご様子はいかがでしょうか」
オリバーの声を合図に、扉が開く。
入ってきたのは、執事のオリバー、侍女長のジェイミー、そして護衛騎士のランスロットだった。
彼らにとって、この数日間は人生で最も長く、そして最も祈りに満ちた時間だった。
「まぁ……! なんて、なんて可愛らしいのでしょう……」
ジェイミーが真っ先に駆け寄り、口元を両手で押さえて絶句した。
命懸けのお産を隣で見守ることは叶わなかったが、主人の必死の形相と、扉の向こうから聞こえた産声、そして今の平和な光景を目の当たりにして、彼女の瞳からはポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「オリバーさん、ジェイミーさん。ルキウスを……この子を、見てあげてください」
メルナが微笑むと、オリバーは「はっ、畏まりました……」と震える声で応えた。
彼はいつものように冷静に、完璧な礼法で若君に挨拶をしようとしたが、その表情はすでに崩れかけていた。
彼は何度も、何度も、真っ白なハンカチを取り出しては、溢れ出る涙で霞む目元を強く拭い直した。
「アリストン家、次代の光……奥様、本当によくぞ、よくぞご無事で……公爵家を長年お守りしてきましたが、これほどまでに喜ばしい日はございません」
そして。
二人の後ろで、これまで石像のように固まっていたランスロットが、ついに耐えきれなくなったように――。
「あああ……っ!! 良かった、本当に……本当に良かったです……っ!!」
ドサリ、と最強の騎士と謳われる彼が、床に膝から崩れ落ちた。
彼は顔を両手で覆い、鼻を赤くして、子供のようにわんわんと声を上げて泣きじゃくった。
主君たちの勝利と、新しい命の誕生に、彼の魂は歓喜に打ち震えていた。
「ランスロットさん、泣きすぎですよ。ルキウスが驚いてしまいます」
「ひっ、く……も、申し訳ありません……っ、ですが……っ!」
ランスロットのあまりの号泣っぷりに、室内にはいつしか温かな笑い声が広がった。
ルキウスはそんな大人たちの騒ぎなどどこ吹く風で、父であるハーヴィの指を小さな手でぎゅっと握りしめていた。
◇
その後、三人は馬車を走らせ、郊外の療養施設へと向かった。
ルキウスの誕生を、誰よりも報告したかった人物がいる。
療養施設の部屋で窓の外の雪景色を眺めていたカミロは、扉が開いた瞬間に、そこに立つメルナの姿を見て持っていた杖を床に落とした。
彼は、メルナが生きていることを、そしてその腕に何かを抱いていることを悟り、震える足で立ち上がった。
「お父さん……ただいま」
メルナが歩み寄り、カミロの前にそっと膝をつく。
カミロの茶色の瞳は、かつてないほどの激動に揺れていた。
彼は恐る恐る、けれど抗いがたい引力に導かれるように、メルナの腕の中の赤ん坊へと手を伸ばした。
「メルナ……お前、生きて……無事なのか。本当に……」
「はい。ハーヴィ様が、守ってくださったんです……お父さん、この子は、ルキウス。私たちの、光です。お父さんの、孫ですよ」
メルナが包みから出したルキウスを、そっとカミロの腕へと預けた。
カミロは、かつて最愛の妻を奪ったあの忌まわしいルナ・エクリプスの魔力を覚悟していた。
しかし、腕の中に抱き上げたその小さな命からは、人を喰らうような冷たい飢えなどは微塵も感じられなかった。
そこにあるのは、純粋で、温かくて――愛されるために生まれてきた人間の赤ん坊の鼓動だけだった。
「ああ……あああ……っ!」
カミロは、ルキウスの漆黒の髪を、朱色の瞳を、焼き付けるように見つめた。
そして、十数年もの間、自分の心と人生を縛り付けていた亡き妻への罪悪感と、メルナへの言いようのない恐怖。
それらすべてが、ルキウスの小さなあたたかさによって、音を立てて解けていくのを彼は感じた。
「……良かった。本当に、生まれてきてくれて……ありがとう……」
カミロは、今は亡き妻の名を小さく呼びながら、ルキウスを胸に抱きしめて号泣した。
それは呪いの終焉であり、一人の父親として、そして祖父としての、魂の救済だった。
ハーヴィはそんなカミロの肩にそっと手を置き、確かな敬意を込めて呼びかけた。
「お義父上。彼が、この先飢えることは二度とありません。僕が、約束します」
◇
屋敷への帰り道。
馬車の中で、ハーヴィは窓の外の雪解けの風景を見つめながら、一冊の図面を広げた。
そこには、大樹のコアから地上へと伸びる、複雑な魔力ラインの設計図が描かれていた。
「ハーヴィ様、これは……?」
メルナが不思議そうに覗き込むと、ハーヴィはマフラーに埋もれた口元を綻ばせ、少しだけ誇らしげに語り始めた。
「調律を行った際、大樹からは必ず莫大な余剰魔力が排出される。それをこれまでは無効化して捨てていたけれど、もったいないだろう? だから、その魔力を安全に地上へ吸い上げ、貯蔵できる供給所を庭園の地下に作ろうと思っているんだ」
ハーヴィの指先が、設計図の一点を指す。
「ルキウスはルナ・エクリプスだ。成長すれば、また魔力が枯渇し、飢えに苦しむ日が来るかもしれない……けれど、この供給所があれば、彼は誰の命を奪うことも、無意識に夜を彷徨うこともなく、ただ蛇口をひねるようにして、僕たちの管理下で魔力を満たすことができる。ルナ・エクリプスを化け物から、特別な体質の人間へと変えるための、僕の生涯をかけた研究の第一歩だよ」
メルナはハーヴィのその言葉に、再び涙が溢れそうになった。
彼は魔力がないことを嘆くのではなく、その空っぽの体質と生まれ持った知性を使って、ルキウスやメルナが――そしていつか生まれるかもしれない同じ運命を持つ者たちが、光の中で笑って生きられる世界を、本気で作ろうとしている。
「……ハーヴィ様。私、やっぱりあなたにお会いできて、本当によかったです」
「僕の方こそ。君と出会わなければ、僕は公爵邸でただ調律を繰り返すだけの機械として一生を終えていた」
ハーヴィは設計図を閉じ、メルナの肩を抱き寄せた。
二人の間には、すやすやと眠るルキウス。
馬車は春の気配を孕んだ風を切り、愛する人たちが待つ家へと向かって走っていく。
アリストン公爵家。
魔力を持たない天才公爵と、呪いを乗り越えた赤き瞳の夫人。
そして、闇から生まれた光の息子。
三人の物語は、今ここから、永遠に続く幸福な日常という名の光の中へと、鮮やかに――そして、力強く踏み出していくのだった。




