42 運命の書き換え
紫色の怪光が冷たい石の祭壇と、そこで死闘を繰り広げる二人を容赦なく照らし出していた。
大樹のコアに満ちる濃密な魔力すらも震え上がるほどの、極限の時間がどれだけ続いたか――。
「ああっ……! あぁぁぁぁっ!!」
メルナの悲痛な絶叫が、地下の広大な空間に反響する。
骨が砕け、肉が裂けるような激痛の果て。
彼女の全身から最後の一滴までの力が振り絞られたその直後、生温かく重い感覚と共に一つの小さな命がこの世へと滑り落ちた。
――産まれた。
しかし、コアの空間には、あるはずの産声が響かなかった。
不気味なほどの、完全な静寂。
荒い息を繰り返すメルナが、霞む視界の中で絶望に目を見開いた。
――ぞわり、と背筋が凍るような、得体の知れない悪寒が全身を駆け抜けた。
生まれたばかりの小さな赤ん坊から、目には見えない恐ろしい触手のようなものが伸びてくる感覚。
それは物理的な身体ではなく、メルナの魂の奥底――魔力の源泉そのものを鷲掴みにしようとする、純粋で底なしの飢えだった。
(……食べられる……っ)
パープルムーンの夜に生まれたルナ・エクリプスの本能。
圧倒的な器を持ちながら、自ら魔力を生成できないその呪われた命が、生き延びるために最も近くにある極上の魔力源――すなわち母親の命を、文字通り喰らい尽くそうと牙を剥いたのだ。
急激に体温が奪われ、目の前が真っ暗になる。
心臓の鼓動が不自然に遅くなり、生命力がごっそりと引き抜かれていく死の感覚に、メルナの意識が急速に薄れていく。
しかし、その絶望の牙がメルナの命に届くよりも早く――ハーヴィが、動いた。
「させるか……っ!」
彼はメルナの身体から跳ね起きるようにして身を翻すと、一切の躊躇いなく、剥き出しになった大樹の巨大な結晶のコアに自らの右手を力一杯に叩きつけた。
そして空いた左腕で、生まれたばかりの赤ん坊の小さな身体をしっかりと抱え込む。
魔力を持たない空っぽの器である自分自身を、大樹と赤ん坊を繋ぐ直接の橋にしたのだ。
「この大樹の魔力を、僕の身体を通してすべてくれてやる! お前の母親には、指一本触れさせない……っ! 好きなだけ飲み込め!!」
ハーヴィが怒号を響かせた瞬間。
ゼネ・レア全土の魔力を支える大樹の、途方もなく膨大で純度の高い魔力が、ハーヴィの右腕から左腕へと彼の肉体を突き破るような勢いで一気に逆流し始めた。
「がっ……! ぐ、ぁぁっ……!」
本来、魔力を持たない人間にこれほどの高位魔力を通せば、肉体は内側から焼き尽くされ精神は崩壊する。
血管が異常に隆起し、漆黒の長い髪が魔力の余波で激しく舞い上がる。
全身の骨が軋み、血液が沸騰するような想像を絶する激痛がハーヴィを襲った。
喉の奥から血の味が込み上げ、彼が強く噛み締めた唇から赤黒い血がツーッと顎を伝って滴り落ちる。
それでも、彼は絶対に大樹から手を離さなかった。
どれほど痛もうが、どれほど肉体が悲鳴を上げようが関係ない。
彼がここで魔力の供給を断ち切れば、赤ん坊の飢えは再びメルナへと向かい、今度こそ彼女を殺してしまう。
「僕を見くびるな……! 僕が……アリストン公爵だ……っ!!」
灰色の瞳に、決して折れることのない凄まじい執念の炎が宿る。
彼は血を吐くような苦痛の中で、大樹の魔力流を完全に自身の支配下に置き、赤ん坊の小さな身体へと怒涛の勢いで注ぎ込み続けた。
メルナから魔力を奪おうとしていた赤ん坊の飢えが、ハーヴィを通して流れ込んでくる大樹の無限の力へと完全に逸れた。
メルナの身体から死の悪寒が消え去り、再び肺に空気が流れ込んでくる。
(ハーヴィ様……!)
霞む視界の中で、メルナは見た。
自分の命を守るために、自身が盾となり、大樹の魔力に焼かれながらも決して倒れようとしない――世界で一番誇り高く美しい夫の背中を。
数分か、あるいは数時間にも感じられた、永遠のような魔力の奔流。
やがて、赤ん坊の底なしの器が大樹の力によって完全に満たされた。
飢餓の暴走が収まり、赤ん坊が魔力に飢えた捕食者としての本能を落ち着かせた、その瞬間――。
「オギャアアァァァッ! オギャアッ、オギャアアァァッ!」
コアの静寂を打ち破り、力強く、どこまでも透き通った、命の産声が響き渡った。
それは、呪いに殺されることなく、そして母親を殺すこともなく、彼が一人の人間としてこの世界に無事に迎え入れられた証の叫びだった。
その声を聞いた瞬間、祭壇の天井の隙間から差し込んでいた禍々しい紫の光が、ふっとその色を失った。
重なり合っていた双月が静かに離れ始め、元の青白く清らかな月光が祝福するようにコアへと降り注ぐ。
「はぁっ……! はぁ……っ、はぁ……」
ハーヴィが大樹の結晶から手を離し、その場にガクンと膝をついた。
彼の右腕は火傷のように赤く腫れ上がり、全身は汗と魔力の残滓で酷く疲労していた。
だが、彼は決して倒れ込むことなく、震える手でジェイミーから預かっていた清潔な布を手に取り、泣きわめく赤ん坊を大切に、大切に包み込んだ。
そしてふらつく足取りで立ち上がり、ベッドで息も絶え絶えになっているメルナの傍らへと歩み寄る。
「メルナ……」
掠れ、震えるハーヴィの声。
彼がメルナの胸元に、温かく小さな命をそっと下ろした。
メルナは震える両腕で、その小さな身体を抱きしめる。
自分のお腹の中で育ち、今、確かな重みと熱を持って腕の中にいる我が子。
母親の温もりに包まれ、赤ん坊がふにゃりと泣き止んだ。
そして、ゆっくりとその重い瞼を開く。
「あ……」
メルナの目から、涙が溢れ出した。
赤ん坊の頭には、ハーヴィと同じ、艶やかな漆黒の柔らかな髪が生えていた。
そして、こちらを見つめるその小さな瞳は――メルナと同じ、美しく澄み切った朱色だった。
呪いの象徴などではない。
二人が愛し合い、すべてを乗り越えて繋いだ――愛の結晶がそこにあった。
「メルナ……見ろ。僕たちの、息子だ」
ハーヴィが、ベッドの端に崩れ落ちるように座り込み、メルナと赤ん坊を抱え込むようにして顔を埋めた。
彼の大きな手が、メルナの肩を強く握りしめている。
その手は、かつてないほどに小刻みに震えていた。
常に完璧で、冷静沈着だった公爵閣下。
彼がどれほどの恐怖とプレッシャーと戦い、どれほど深く彼女の喪失を恐れていたのかが、その痛いほどの震えから伝わってくる。
「ハーヴィ様……私……生きて、ます。この子も、無事に……」
「ああ……! ああ……っ、メルナ……!!」
ハーヴィの口から、ついに堪えきれない嗚咽が漏れた。
彼はメルナの肩に額を押し当て、声を上げて泣き始めた。
その涙を見た瞬間、メルナの心の中で張り詰めていたすべての糸が切れた。
死への恐怖、化け物である自分への絶望、母を奪った罪悪感。
それらすべてが、ハーヴィの涙と、胸に抱く息子のあたたかな体温によって完全に洗い流されていく。
「うわあああぁんっ……! ハーヴィ様……っ、ありがとう、ございます……私を、助けてくれて……っ! この子を、守ってくれて……っ!!」
メルナは息子を抱きしめたまま、ハーヴィの背中に腕を回し、子供のように声を上げて号泣した。
ハーヴィもまた、火傷で痛む腕など気にする様子もなく、愛する妻と我が子をその身が千切れるほどに強く抱きしめ返し、涙を流し続けた。
――ルナ・エクリプスの過酷な運命を、二人は見事に書き換えたのだ。
大樹のコアに響き渡るのは、悲劇の叫びではなく、生と愛への歓喜に満ちた純粋な涙の音だけだった。
祭壇を照らす月光は静かに薄れ、やがて夜明けの柔らかな朝陽が世界で一番幸せな三人だけの揺り籠を、あたたかく、優しく包み込み始めていた。




