41 重なる双月
ゼネ・レア王都が、深く冷たい白銀の雪に覆い尽くされた冬の夜。
空を見上げれば、禍々しい光を放つ紅い月と冷ややかに輝く蒼い月が、ついにその輪郭を完全に重ね合わせようとしていた。
――十数年に一度、世界中の魔力が異常に揺らぐパープルムーンの夜である。
王都全体が不気味なほどの静寂と緊張に包まれる中、アリストン公爵邸の主寝室で、その時は唐突に訪れた。
「…………っ!」
暖炉の前で静かに編み物をしていたメルナが、突然お腹を押さえてうずくまった。
ただの痛みではない。
内臓がねじ切られるような物理的な激痛と共に、彼女の全身の魔力がお腹の中心に向かって凄まじい勢いで引っ張られるような――強烈な魔力の震えを感じたのだ。
「メルナ!? 陣痛か、ついに来たんだな」
少し離れたデスクで書類に目を通していたハーヴィが椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、瞬時にメルナの傍らへと駆け寄った。
「ハーヴィ、様……っ。お腹の子が……魔力を、欲しがって、暴れて……っ!」
「大丈夫だ。深呼吸をして。すぐに地下へ移動する」
ハーヴィはメルナの身体を横抱きにすると、迷うことなく屋敷の地下深く、大樹のコアが鎮座する祭壇へと向かって走り出した。
――なぜ、設備の整った安全な地上の寝室ではなく、地下のコアで産む決断をしたのか。
理由はただ一つ。
ルナ・エクリプスの赤ん坊が産み落とされた瞬間、本能のままに母親の魔力を喰らい尽くそうとする過酷な初乳を防ぐためだ。
赤ん坊がこの世に生を受け、最初の産声を上げるその一瞬。
ハーヴィは大樹のコアから溢れ出る膨大で純粋な魔力を引き抜き、即座に赤ん坊へと直接流し込む計画を立てていた。
母親であるメルナの魔力から、捕食者である赤ん坊の意識を大樹の無限の魔力へと完全に逸らす。
それができなければ、メルナは間違いなく命を落とす。
そして、その規格外の魔力供給のバイパス手術を成功させるには、ゼネ・レアで最も魔力純度が高く、大樹の心臓部であるコアの直前で出産を行うしか方法がなかったのである。
コアへと続く地下の冷たい石造りの通路を、ハーヴィはメルナに衝撃を与えないよう慎重な足取りで進んでいく。
やがて、関係者しか入ることの許されない祭壇の重厚な扉の前に辿り着いた。
そこには、知らせを受けて駆けつけた執事のオリバーと、侍女長のジェイミーが待機していた。
「旦那様、奥様……!」
普段は気丈で涙など見せないジェイミーが、顔を真っ青にして、祈るように両手を組んで震えていた。
彼女たちもまた、ハーヴィからルナ・エクリプスの真実と、この出産がどれほど危険な賭けであるかを聞かされている。
本当なら、今すぐメルナの手を握り、汗を拭って励ましてあげたい。
けれど、コアの聖域には、魂に刻まれた契約と身分を読み取る強固な結界が張られている。
貴族の血統を持つ者か、正式に貴族として籍を置く者でなければ決して通り抜けることはできず、平民であるジェイミーやオリバーが足を踏み入れれば結界に弾き飛ばされて命を落としてしまうため、どうしても同行することは叶わなかったのだ。
「ジェイミーさん……オリバーさん……っ」
「奥様、どうか頑張ってくださいませ。アリストンの家名にかけて、何があろうと私とオリバーが、この扉を死守いたします」
ジェイミーが堪えきれずに涙をこぼしながら、メルナの冷え切った頬をそっと撫でる。
オリバーもまた、深いお辞儀をして主従の強い絆を示した。
「旦那様。若君と奥様を、どうかよろしくお願いいたします」
「ああ。必ず、三人でここへ戻ってくる……頼んだぞ」
ハーヴィは短く力強く頷くと、重厚な扉を開け、メルナを抱えたまま深淵のコアへと足を踏み入れた。
背後で、ガシャンと重い音を立てて扉が閉ざされる。
ここから先はもう誰の助けも呼べない、二人きりの戦場だった。
コアの内部は大樹の結晶が放つ淡い光に満たされ、むせ返るほどに濃密な魔力が漂っていた。
本来、神聖な調律の儀式のみに使われる冷たい石の祭壇の上には、数日前からハーヴィ自身の手によって上質な天蓋付きの柔らかいベッドや、清潔な毛布、大量のタオル、そしてお湯を保温するための魔導具など、お産に必要なすべての設備が完璧に運び込まれ、即席でありながらも万全の産室が整えられていた。
ハーヴィはメルナをベッドの上にそっと寝かせ、素早く彼女のドレスを緩め、毛布を掛けた。
「ああっ……! いっ、痛い……っ!」
本格的な陣痛が始まり、メルナはシーツを強く握りしめて身体をよじった。
腹部を内側から引き裂かれるような激痛。
それに加えて、赤ん坊が「早く魔力をよこせ」とでも言うように、メルナの生命力そのものを削り取ろうと暴れ回る感覚が彼女の理性を吹き飛ばしそうになる。
「怖い……っ、怖いよぉっ! 私、死にたくない……っ!」
激痛と、本能的な死の恐怖。
その恐怖が引き金となり、メルナの内に眠る膨大な魔力が防衛本能で暴走を始め、コアの空間全体がビリビリとひび割れるような音を立てて震え出した。
普通の人間なら、この場にいるだけで魔力に押し潰されて死んでしまうほどの圧倒的な圧。
しかし、ハーヴィは微塵も怯むことなく、メルナの身体の上に覆い被さるようにして彼女を力強く抱きしめた。
「怖がらなくていい! 僕がここにいる!」
魔力を持たない空っぽの彼がメルナと触れ合った瞬間、暴走しかけていた致死量の魔力が嘘のように霧散し、中和されていく。
ハーヴィはメルナの汗で濡れた前髪をかき分け、その両手を自分の両手で強く、強く握りしめた。
「生まれた瞬間、僕が大樹の魔力を直接この子に流し込む。君の魔力は、一滴たりとも奪わせない! この子に、絶対に罪など背負わせない!」
その力強い宣言に、メルナは喘ぎながらも必死に頷き、ハーヴィの手を握り返した。
自分が愛した、世界で一番優しくて賢い、空っぽの旦那様。
彼がそう言ってくれるなら、どんな運命だって書き換えられるはずだ。
「ああああっ……!!」
その時。
コアの天井を覆う大樹の根の隙間から差し込んでいた月光の色が、完全に変わった。
紅と蒼が完全に重なり合い、世界を狂わせるパープルムーンが完成したのだ。
紫色の怪光がコアの祭壇を妖しく照らし出した瞬間、これまでとは比較にならない最大の陣痛がメルナを襲った。
「痛い……っ、いやだ、ハーヴィ様……っ、お腹が、裂けそう……っ、怖いよぉ……っ!」
絶え間なく続く激痛にメルナは泣き叫び、首を大きく振ってシーツに爪を立てた。
公爵としてどんな危機にも涼しい顔で対処してきたハーヴィの顔から、もはや一切の余裕が消え去っていた。
「僕を見ろ、メルナ! 目を逸らすな!」
額に大量の汗を浮かべ、髪を振り乱しながらハーヴィは必死の形相で叫んだ。
彼はメルナの手の骨が軋むほどに強く握り返し、喉を枯らさんばかりの悲痛な声で励まし続けた。
「大丈夫だ、絶対に君を死なせはしない! 息を吸って……そう、僕の手を強く握るんだ、頑張れ……っ!!」
紫の光が満ちる深淵の揺り籠の中で、生と死が極限まで交錯する。
汗と涙にまみれ、なりふり構わず生にしがみつく二人の命懸けの戦いが、今まさに最大の山場を迎えようとしていた。




