40 空っぽの抱擁
夜明け前の蒼い光が主寝室の重厚なカーテンの隙間から細く差し込み、床にうずくまるメルナの姿を冷ややかに照らし出していた。
広いベッドから逃げ出すようにして部屋の隅へと後ずさった彼女は、自身の身体をきつく抱え込むようにして、ガタガタと震え続けている。
朱色の瞳はとめどなく溢れる涙で激しく潤み、視界は恐怖と自己嫌悪でめちゃくちゃに歪んでいた。
「メルナ。お願いだ、こっちへおいで」
ハーヴィの声はどこまでも優しく、穏やかだった。
彼はベッドから降り、素足のまま、一歩、また一歩とメルナとの距離を詰めていく。
だが、その一歩が近づくごとに、メルナは悲鳴のような掠れた息を漏らして首を激しく横に振った。
「こないで……! 見ないでください、ハーヴィ様……!」
「何を言っているんだ。君がどんな悪夢を見たとしても、僕がここにいる。大丈夫だから、顔を上げて僕を見てくれ」
「大丈夫じゃないんですっ!!」
メルナは叫んだ。
その声は、喉が引き裂けそうなほどに痛ましく、部屋の静寂を打ち破って響いた。
「私は……お母さんを殺して生まれてきた、ルナ・エクリプスという化け物なんです……!」
自分の口から紡がれたその言葉の重みに、メルナ自身の心が真っ二つに割れるような痛みを覚えた。
それでも、言わなければならなかった。
彼を騙し続けることなど、もうできなかった。
「あたたかいミルクの代わりに、お母さんの命と魔力を啜って……お父さんから、たった一人の愛する人を奪って、私は生き延びたんです……」
「メルナ……」
「それだけじゃない……私、思い出したんです。夜の街で、自分が何をしていたか。魔導院の人たちの首を切り裂いて、温かい血を飲んで……そうやって、この溢れるような魔力を維持していたんです。私は、この王都で起きている凄惨な連続不審死事件の、真犯人なんです……!」
メルナは自分の爪を手のひらに食い込ませ、血が滲むほどに強く握りしめた。
自分が無意識に犯してきた罪の重さ。
奪ってきた命の数。
「こんな……血の匂いが染み付いた汚い化け物が、あなたの隣に座って、優しい言葉をかけてもらうなんて……そんなの、絶対に間違っています。私は、愛される資格なんて、最初から欠片もなかった……!」
沈黙が流れる。
メルナは、ハーヴィが軽蔑の眼差しを向けるのを待っていた。
彼がどれほど優しい人でも、妻が連続殺人鬼の化け物だと知れば拒絶して当然だ。
そうなれば、自分はこの屋敷を去り、どこか彼の手の届かない場所で死ぬことができる。
お腹の中にいる、自分を喰い殺す運命にあるこの呪われた命と共に消え去るのが、自分にできる唯一の贖罪だと思っていた。
しかし、聞こえてきたのは、冷たい拒絶の足音ではなかった。
カサリ、と絨毯を踏む柔らかな音がして、気づいた時にはメルナの冷え切った身体は、あたたかく逞しい腕の中にすっぽりと閉じ込められていた。
「……っ、離してください! 触らないで、私が……いつか私が、飢えに耐えられなくなって、あなたを傷つけてしまうかもしれない……っ!」
「傷つけられてなどやるものか」
ハーヴィは、暴れるメルナの身体を壊さないように――けれど、決して逃がさないという確かな力で抱きしめ続けた。
「ルナ・エクリプスの宿命も、君がこれまで無意識のうちに背負わされてきた業も……すべて、僕が共に背負うと誓ったはずだ」
「でも……私は人を殺したんです! これからも、渇きに負けて、あなたを……っ!」
「君は僕を喰うことはできない。君は、僕を壊すことはできないんだよ、メルナ」
その断固たる言葉に、メルナは息を呑んで動きを止めた。
ハーヴィは彼女の震える肩に顔を埋め、諭すように静かに語り続ける。
「メルナ。僕は、魔力を持たない空っぽの器だ。世間では無能と蔑まれるこの体質を、僕はかつてアリストンの血の呪いだとさえ思っていた……だが、今は違う。僕は、君を守るためにこの身体で生まれてきたのだと、今ならはっきりとわかる」
ハーヴィはメルナの身体を少しだけ引き離し、その涙で濡れた顔を両手で優しく包み込んだ。
至近距離で見つめ合う彼の灰色の瞳には、恐怖も嫌悪も微塵も存在せず、ただ深く、濁りのない愛情だけが静かに燃えていた。
「僕は空っぽだ。だから、君がどれほど飢えて理性を失い、僕に牙を立てたとしても、君は僕から魔力を一滴も奪えない。僕の命を吸い尽くして、僕を壊すことは絶対にできない」
それは、魔力がない彼だからこその、絶対的な真理だった。
普通の人間であれば、ルナ・エクリプスの渇きに触れられれば一瞬で魔力を枯渇させられ命を落とすだろう。
しかしハーヴィには、最初から奪われるべき魔力など存在しない特異な体質だ。
「僕だけが、君を人殺しの化け物にすることなく、ただ一人の愛する女性として何度でも抱きしめ続けられるんだ。僕の無能は、君の心を人間のまま繋ぎ止めておくための、唯一の鎖なんだよ」
「ハーヴィ様……」
「……お義父上は、知っていたんだな」
不意に、ハーヴィがぽつりと呟いた。
秋の初め、メルナの誕生日の贈り物について相談しに療養施設へ行った日のことだ。
カミロは去り際、ひどく怯えた様子で「今年の冬、何が起ころうともあの子たちを守り抜いてくださいますか」と懇願してきた。
あの時はただの出産への不安だと思っていたが――今ならすべてが繋がる。
あの日から、カミロの異常な怯えが気にかかっていたハーヴィは、密かに王立魔導院の古い記録を洗わせていた。
さらに数日前、カフェでランスロットがレグルスを捕縛した際、彼がメルナに突きつけていたルナ・エクリプスの禁書を押収し、ハーヴィ自身も徹夜でその内容を読み解いていたのだ。
メルナの規格外の魔力と、王都での連続不審死。
そして禁書に記された呪われた生態。
彼はメルナから告白されるよりも前に、彼女が背負わされた残酷な真実へと独力で辿り着き、すべてを受け入れる覚悟を決めていたのである。
十数年に一度のパープルムーンが訪れる、今年の冬。
そして、ルナ・エクリプスであるメルナが、同じルナ・エクリプスを産み落とすという絶望的な運命。
「お義父上は、この冬に訪れる悲劇を知りながら、僕に君を託してくれた。魔力を持たない僕なら、君に喰い殺されることなく、そして君を化け物として排斥することなく、最後まで隣に立ち続けられると……そう信じて、僕を君の夫に選んでくれたんだ」
父の不器用で――けれど、あまりにも深い愛情と覚悟。
その真意に気づかされたメルナの目から、堰を切ったように新しい涙が溢れ出した。
今まで彼女を縛り付けていた真っ黒な絶望の鎖が、ハーヴィのあたたかな言葉によって一つひとつ音を立てて砕け散っていくようだった。
「お母さんを殺してしまった罪も、夜の街での出来事も、すべては君が生きるために課せられた過酷な呪いだ。君自身の意志ではない……君は、誰も殺したくて殺したわけじゃない。ずっと、一人で怯えて泣いていたんだろう?」
「……っ……」
メルナはハーヴィの胸に顔を押し当て、幼い子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「……はい……っ、嫌だった……怖かった……私、あんなこと、したくなかった……っ!」
何年も、何年も、心の奥底に封じ込めていた悲痛な叫び。
自分が何者であるかもわからず、ただ理由のない孤独と罪悪感に震えていた少女の心が、ようやく日の当たる場所へと解放された瞬間だった。
ハーヴィは、彼女の背中を優しく撫で続けた。
二人の間にあるお腹の中では、これから冬に生まれ落ち、母親であるメルナのすべてを喰らい尽くそうとする呪われた命が静かに眠っている。
「……ハーヴィ様。この子が生まれたら、私は死んでしまうかもしれません。私がお母さんにそうしたように、この子も私を……」
「させない。絶対に、そんなことはさせない」
ハーヴィの腕に、強い力がこもる。
「君も、この子も、どちらも死なせるものか。僕のすべてを懸けて、天才と呼ばれるこの頭脳のすべてを総動員して、その呪われた運命を書き換えてみせる……僕を信じてくれ、メルナ」
窓の外では、夜明けの光が王都を完全に包み込んでいた。
しかし、その空高くに薄っすらと残る紅い月と蒼い月は、もはや一つの完全な輪になろうとしている。
――十数年に一度の巨大な魔力異常、パープルムーン。
すべての因果が交差し、呪いの真価が問われる冬の出産予定日まで、残された時間はあとわずかだった。
メルナはハーヴィの腕の中で、彼の力強く規則正しい心臓の音を聞きながら、震える手で彼の背中に腕を回し返した。
たとえ自分が業を背負った化け物であっても。
たとえ死の運命がすぐそこまで迫っていたとしても。
この空っぽで、けれど世界中の誰よりもあたたかい腕の中にいられるなら、もう何も恐れることはない。
絶望の真っ暗な底でようやく見つけた、たった一つの赦しの光に、メルナはただ縋るようにして泣き続けた。
彼女の魂を蝕んでいた飢餓感は、彼の愛という名の確かな熱によって静かに満たされようとしていた。




