39 封印された記憶
深い、深い闇の中。
メルナはいつか見たことのある、ひどく不快で息苦しい夢の中にいた。
身体の中心に、ぽっかりと底なしの穴が空いている。
胃袋が空っぽなのではない。
もっと深い場所、魂そのものが干からびてひび割れていくような、耐え難い飢餓感だった。
喉が渇き、視界がチカチカと明滅する。
何かを入れなければ。
この穴を何かで満たさなければ、自分が自分であれなくなってしまう。
無意識のうちに、メルナは深夜のアリストン公爵邸のキッチンに座り込んでいた。
冷暗所から手当たり次第に食べ物を引っ張り出し、口の中へ詰め込んでいく。
冷たいパン、塩漬けの肉、ジェイミーが焼いてくれた甘い焼き菓子。
咀嚼し、飲み込み、胃袋を物理的に膨らませていく。
けれど、駄目だ。
どれだけ食べても、味がしない。
砂を噛んでいるようで、身体の奥底で叫び声を上げているあの恐ろしい渇きは、一滴たりとも潤うことはなかった。
(違う。私が欲しいのは、こんなものじゃない)
もっと熱くて、濃密で。
甘い匂いがして、私の干からびた器を満たしてくれる力そのもの。
夢の中のメルナはふらりと立ち上がった。
目は虚ろに濁り、己の意志とは無関係に足が勝手に動き出す。
静まり返った屋敷を抜け出し、冷たい夜風の吹く王都の街を、彼女はまるで幽鬼のように彷徨い歩いた。
向かった先は、王都の中心部にそびえ立つ王立魔導院だった。
厳重な警備の魔法陣も、堅牢な鉄の扉も、今の彼女にとっては存在しないも同然だった。
彼女の内に潜む異常な魔力が無意識のうちに展開され、すべての障害を音もなく無効化していく。
暗い魔導院の廊下。
そこには、夜遅くまで研究に没頭していたであろう、一人の職員が歩いていた。
常人を遥かに凌ぐ、高い魔力を持った人間。
その背中から漂う、むせ返るほどに甘く濃密な魔力の匂いに、メルナの喉がゴクリと鳴った。
足音一つ立てず、背後へと忍び寄る。
そして、愛しい人を後ろから抱きしめるような、ひどく親密で――残酷な動作。
メルナの細く白い右の手には、いつの間にか厨房から持ち出したであろう冷たく光る銀色の刃が握られていた。
迷いは、一切なかった。
背後から抱え込んだ職員の首筋に、刃を押し当て、一思いに引き裂く。
声にならない悲鳴。
どくどくと溢れ出す、生温かい鮮血。
メルナは崩れ落ちようとするその身体を抱き留めながら、傷口に直接口を押し当てた。
鉄錆の匂いと共に、信じられないほど甘く、高純度な魔力が喉の奥へと流れ込んでくる。
(ああ……)
その瞬間、全身の細胞が歓喜に打ち震えた。
干からびて死にかけていた魂の穴に、極上の魔力が注ぎ込まれていく。
生命の熱を奪い、相手のすべてを飲み干していくたびに狂おしいほどの空腹感が満たされ、代わりに圧倒的な万能感と安心感がメルナの身体を支配していった。
――そこで、夢の中のメルナの視界が、ふっと客観的なものへと切り替わった。
血まみれの口元を拭い、満ち足りた吐息を漏らす自分の姿。
空には、不気味に重なり合おうとしている紅い月と蒼い月が浮かんでいる。
(全部……思い出した……)
これは、夢ではない。
アリストン公爵家へ嫁いできてから、彼女が無意識のうちに犯していた、紛れもない現実の記憶だった。
どうして、自分はルナ・エクリプスという魔力が減り続ける呪いを抱えながら、これほどまでに途方もない高魔力を常に維持し、時には暴走させるほど溢れさせていたのか。
答えは、あまりにも残酷で、単純だった。
彼女は定期的に、こうして夜の街で無意識に食事をしていたのだ。
辺境の森にいた頃も、王都へ来てからも。
自身の魔力が枯渇しかけ、飢えの限界が来るたびに、本能が身体を乗っ取り、高魔力を持つ命を喰らい尽くしては、器を満たし続けていた。
彼女の精神は、あまりにも悍ましい自分の正体から心を守るため、その血塗られた記憶を強固な防衛本能で完全に封印し――なかったことにしていた。
自分は少し魔力が多いだけの、普通の人間だと思い込むために。
愛する人たちと共に、あたたかな光の射す場所で生きていくために。
だが、カフェでレグルスから突きつけられた言葉が、その記憶の蓋を無残にも抉じ開けてしまった。
『君も、母親のこと喰ったのだろう?』
その言葉は、最も重く閉ざされていた最初の扉さえも打ち砕いた。
生まれたばかりの、まだ目も見えない小さな赤ん坊だった自分。
規格外の魔力を持っていた、ルナ・エクリプスである母親に本能で取り付き、その命と魔力のすべてを一滴残らず吸い尽くしたあの時の光景。
母のあたたかい体温が徐々に冷たくなり、代わりに自分の身体が魔力で満たされていく、あの呪われた初乳の記憶が、鮮烈に脳裏に蘇ったのだ。
「――っ!!」
メルナは、悲鳴にも似た喘ぎ声と共にベッドから跳ね起きた。
荒い呼吸が寝室の静寂を切り裂く。
全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく早鐘を打っていた。
「メルナ!? どうした、大丈夫か」
隣で眠っていたハーヴィが即座に目を覚まし、血相を変えて身を起こした。
彼の手が、心配そうにメルナの震える肩へと伸びてくる。
いつもなら、その大きくあたたかい手にすがりつき、安心を求めていただろう。
「ひっ……!」
しかしメルナは、弾かれたように彼の手から逃れ、ベッドの端へと後ずさった。
そのあからさまな拒絶に、ハーヴィの灰色の瞳が驚きと痛みに見開かれる。
「メルナ……?」
「こ、こないで……っ」
メルナは自分の両手を目の前にかざし、ガタガタと震えながらそれを見つめた。
白い月明かりに照らされたその手に、血はついていない。
しかし彼女の目には、母の命を奪い、魔導院の職員たちの首を切り裂き、赤黒い鮮血にべっとりと染まった悍ましい化け物の手がはっきりと見えていた。
鼻の奥には、いくら拭っても落ちない鉄錆の匂いがこびりついて離れない。
(私は……お母さんを、殺した。この街の人たちも、私が喰い殺したんだ……)
自分が無実の人間ではないという、決定的な絶望。
聖女のように大切に扱われ、公爵夫人として微笑んでいた裏側で――自分は血の海を歩き、他者の命を啜って生き延びてきた紛れもない化け物だったのだ。
目の前で、ハーヴィがひどく傷ついたような、けれどそれ以上に彼女を案じるような優しい顔でこちらを見ている。
(こんな……こんな汚い私が、ハーヴィ様の隣にいていいはずがない……っ)
誰よりも優しくて、気高く、自分のすべてを愛してくれた彼。
彼の差し出す清らかな愛情を、血と業にまみれた化け物の自分が受け取る資格など、初めから欠片も存在しなかったのだ。
そして、自分のお腹の中には、かつての自分と同じように生まれ落ちた瞬間に母親である自分を喰らい尽くす運命にある、ルナ・エクリプスの命が宿っている。
取り返しのつかない罪悪感と、押し寄せる恐怖。
自分が信じていた美しい世界が音を立てて崩壊していく中、メルナはただ自らの顔を両手で覆い、獣のような震える泣き声を上げるしかなかった。
冬の始まりの凍てつくような夜の冷気が、絶望に染まった寝室を静かに包み込んでいた。




