38 呪いと渇き
ゼネ・レア王国に木枯らしが吹き始め、人々が厚手のコートを身にまとうようになった晩秋のある日。
メルナは生まれてくる子供のための買い物を終え、護衛のランスロットと共に王都の路地裏にあるカフェ・ブランシュへと再度立ち寄っていた。
貸し切り状態にしてもらった静かな店内で、あたたかい林檎と蜂蜜のハーブティーを飲みながら、メルナは買い物かごに入った小さな産着を愛おしそうに眺めていた。
これに袖を通す小さな命が、今年の冬にやってくる。
その幸せな未来を想像するだけで、寒さなど忘れてしまうほどに胸があたたかくなった。
カラン、と。
店の入り口のベルが、少し乱暴な音を立てて鳴った。
貸し切りのはずの店内に誰かが入ってきたことに、入り口付近で待機していたランスロットが即座に険しい表情になり、腰の剣の柄に手をかける。
「おや。こんなところで奇遇だね、メルナ」
聞き覚えのある、明るく人懐っこい声。
そこに立っていたのは、王立魔導院の最高階位の証である深紫の外套を身に纏った青年――レグルス・ロッシェルだった。
流れるような白金色の髪と翠色の瞳は相変わらず人を惹きつける美しさを持っていたが、今の彼からは以前のような余裕は感じられなかった。
顔色には明らかな疲労が浮かび、肩で微かに息をしている。
まるで、何かから逃れるようにしてこの店に転がり込んできたかのようだった。
「ロッシェル卿。本日は貸し切りだ、ただちに退出を願おう」
ランスロットが一切の容赦のない冷たい声で警告し、レグルスとメルナの間に立ち塞がる。
しかしレグルスはランスロットの剣幕など意に介さず、肩越しにメルナの方を見つめ、毒を孕んだ声で囁きかけた。
「君が何者なのか。そして、君のお腹の果実がどうなるか……知りたくないかい?」
その言葉は、メルナの心臓を鷲掴みにした。
夏に妊娠を報告した時の、お父さんのあの絶望的な顔。
そして、自分の内に渦巻いていた異常な魔力。
それらがすべて一つの線で繋がっているような、得体の知れない恐怖がメルナの背筋を駆け上がった。
「……ランスロットさん。お願いです、少しだけ彼とお話をさせてください。お店の外で待っていてはもらえないでしょうか」
「何を仰るのですか、奥様! この男は危険です。旦那様からも、決して近づけるなと厳命されております!」
猛反対するランスロットに対し、メルナは震える両手を自身のお腹の前で強く握りしめ、真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「わかっています。でも、私はどうしても彼の話を聞かなくてはならないんです……何かあれば、すぐに大きな声を出して呼びますから。どうか、お願いします」
女主人の悲痛なまでの決意を宿した朱色の瞳に、ランスロットは苦渋に満ちた表情で唇を噛み締めた。
「……わかりました。しかし、扉のすぐ外に控えております。一瞬でも妙な素振りを見せれば、即座に斬り捨てますのでそのおつもりで」
ランスロットはレグルスを鋭く睨みつけると、店主も奥へ下がらせ、自身は店の扉の外へと出た。
静まり返った店内に、メルナとレグルスの二人きりの空間が残される。
レグルスはふらつくような足取りでメルナの向かいの席に腰を下ろすと、深い息を吐き出して口元を歪めた。
「優しい番犬で良かった。おめでとう、メルナ。いよいよ出産も間近だね」
レグルスは懐から一冊の古びた本を取り出し、テーブルの上を滑らせてメルナの前に置いた。
ハーヴィに教わった文字を必死に思い出す。
擦り切れた革張りの表紙には、かすれた金文字でルナ・エクリプスと記されていた。
「これは……?」
「魔導院の最深部に隠されていた禁書さ。俺たちのような、理から外れた存在についての記録だよ」
レグルスは翠色の瞳を細め、静かな声で語り始めた。
「パープルムーンと呼ばれる、強烈な魔力異常を引き起こす特異な月夜がある。十数年に一度しか訪れないその夜に生まれた赤ん坊は、周囲の魔力の干渉を受け、極めて低い確率で人の理を外れた化け物へと変貌する。それが、ルナ・エクリプスだ。そして……ルナ・エクリプスである母親がパープルムーンに出産すると、ほぼ確実に同じ化け物が生まれる」
パープルムーン。
その言葉に、メルナは息を呑んだ。
「十数年に一度のパープルムーンが、まさに今年の冬……君の出産予定日に訪れるんだよ、メルナ」
レグルスの告げた残酷な事実に、メルナは頭の中が真っ白になった。
自分のお腹にいる愛しい我が子が、化け物になってしまう。
その運命が、最初から定められていたというのか。
「この世界の生命は、魔力と深くリンクしている。けれど俺たちルナ・エクリプスは、普通の人間のように自力で魔力を生成することができない。ただ圧倒的な器を持っているだけで、中身は常に減り続けるという呪いを抱えているんだ。だから、外から魔力を奪い、常に高魔力で満たしておかないと……俺たちは死んでしまう」
レグルスの声が、次第に熱を帯びていく。
彼はテーブルの上に身を乗り出し、どこか哀れむような、そして嘲るような視線をメルナに向けた。
「なあ、メルナ。君も、自分の母親のこと……喰ったのだろう?」
心臓が、冷たい氷の刃で貫かれたように止まった。
「えっ……?」
メルナは父から、母親の死因について聞かされていた。
お前を産んだ時、お前の持つあまりにも強大な魔力との差に母体が耐えきれず、命を落としてしまったのだと。
それは仕方のないことであり、メルナのせいではないと、父は何度も優しく言い聞かせてくれていた。
――しかし、レグルスは薄い唇を歪めて、その優しい嘘を残酷に打ち砕いた。
「ルナ・エクリプスは、生まれた直後に本能のまま、一番近くにある極上の魔力源を喰らい尽くす。それが俺たちにとっての初乳なんだよ。俺も、俺を産んだ母親を食い殺して生き延びた。君も同じだろう?」
嘘だ。
そんなはずがない。
私は、お母さんを殺してなんて。
激しく首を横に振ろうとするが、身体が微塵も動かない。
夏の日に父が見せた絶望の表情が、今になってすべての答え合わせのように脳裏に浮かび上がる。
父は知っていたのだ。
メルナが母を喰い殺したことも、そして今年の冬に生まれてくる赤ん坊が、今度はメルナを喰い殺す運命にあることも。
自分が無意識のうちに母を殺していたという事実と、これから訪れる未来への恐怖で、メルナの顔からは完全に血の気が引いていた。
「はあ、はあ……ああ、最近忙しくて、あんまり食べれていなくてね。俺はもうカラカラなんだ」
レグルスが立ち上がり、ふらつく足取りでメルナの隣へと移動してくる。
彼の翠色の瞳には、日食のような黒い円がはっきりと浮かび上がり、その顔には飢えた捕食者の狂気が滲み出していた。
「今すぐ吸わないと、俺は高魔力を維持できない。死んでしまう……メルナ、君のその美味しそうな魔力、俺にわけてくれよ」
「いや……こないで……っ」
メルナは椅子から立ち上がって逃げようとしたが、極度の恐怖と動揺で足に力が入りらず、床に倒れ込んでしまった。
レグルスはそんな彼女の上に覆い被さるようにして、長い指先で彼女の首筋に触れた。
「大丈夫、何も殺そうとは思っていないんだよ。少しだけ傷をつけて、そこから血を吸わせてくれ。君は今魔力を持て余しているだろう? 俺たち二人で喰い合えば、とても合理的だと思わないか?」
彼の冷たい指が首元を滑り、その奥にある熱い血の脈動を探り当てる。
本能的な死の恐怖が限界に達し、メルナは悲鳴を上げた。
「ランスロットさんっ!!」
――轟音。
メルナの悲鳴とほぼ同時に、カフェの厚い木製の扉が凄まじい衝撃で蹴り破られた。
飛び込んできたのは、銀色の剣を抜き放ったランスロットだった。
彼は状況を一瞬で把握すると、獣のような速度で床に踏み込み、レグルスへと迫る。
「貴様ぁっ!!」
普段のレグルスであれば、その卓越した魔法の才能で即座に応戦し、ランスロットを退けていただろう。
しかし、今の彼は極度の魔力枯渇により、まともに防壁魔法を展開する力すら残されていなかった。
ランスロットの放った強烈な蹴りがレグルスの脇腹に直撃し、彼はくぐもった呻き声を上げて床へと吹き飛ばされた。
追撃をかけるランスロットは、倒れ込んだレグルスの背中に容赦なく膝を突き立て、その両腕を背後で強固に拘束した。
「動くな。公爵夫人メルナ様に対する襲撃および危害未遂の容疑で、騎士団へ連行する」
床に押さえつけられながらも、レグルスは抵抗する力さえなく、ただ虚ろな目で宙を見つめながら「ああ……腹が減った……」と掠れた声で呟いていた。
「奥様、ご無事ですか! 申し訳ありません、私の制止が足りなかったばかりに……!」
ランスロットがレグルスを拘束したまま、血相を変えてメルナへと声をかける。
しかしメルナは、その声に答えることができなかった。
床にへたり込んだまま、彼女は震える両腕で自分の大きくなったお腹を庇うように強く抱きしめていた。
朱色の瞳から、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちる。
(お母さんを殺したのは、私……?)
自分の命が、母の犠牲の上に成り立っていたという残酷な真実。
そして――。
(私も、この子に食べられてしまうの……?)
愛する夫との間に授かった、何よりも大切で愛おしい命。
それを産み落とすことが、自分自身の死を意味するというのか。
冬の冷たい風が、壊れた扉から店内へと吹き込んでくる。
あたたかな幸せに包まれていたはずのメルナの世界は、レグルスがもたらした呪われた真実によって、深い闇の底へと突き落とされていた。




