44 アリストン家の幸福な日常
――あの日から、五年の歳月が流れた。
春爛漫のゼネ・レアの王都。
見上げる空はどこまでも高く澄み渡り、街の中心にそびえ立つ大樹は純白の薄い花びらを枝いっぱいに咲かせ誇っていた。
柔らかな春の風が吹き抜けるたび、白い花びらが雪のように舞い散り王都中を美しく――そして、暖かく彩っている。
「お父様! お母様! 見て、お花がいっぱい降ってくるよ!」
白い花びらが舞う庭園を、弾むような足取りで駆けていく小さな影があった。
今年で五歳になった少年――ルキウスだ。
父であるハーヴィから受け継いだ艶やかな漆黒の髪を風に揺らし、母であるメルナと同じ、澄み切った朱色の瞳をキラキラと輝かせている。
「ふふっ、本当ね。ルキウス、転ばないように気をつけてね」
「こらルキウス、あまり遠くへ行くな……まったく、誰に似たのか元気なことだ」
庭園の白いテーブルセットで紅茶を傾けていたメルナが微笑み、その隣で分厚い魔導書を読んでいたハーヴィがやれやれと肩をすくめる。
平和な、どこにでもある幸せな家族の風景。
しかし、この平穏は決して偶然にもたらされたものではない。
ハーヴィ・アリストンという一人の天才が、その生涯を懸けて世界を書き換えた結果だった。
ルキウスが生まれたあの日からわずか半年後。
ハーヴィは持ち前の天才的な頭脳をフル稼働させ、大樹の余剰魔力を安全に抽出し、王都の地下に貯蔵する――魔力供給所を完成させた。
それだけではない。
彼はなんと、アリストン公爵家が代々命を削って行ってきた大樹の調律の儀式そのものを、完全にオートでこなせる画期的な魔導回路を編み出してしまったのだ。
これにより、ハーヴィ自身が祭壇で魔力を受け止める必要はなくなり、大樹は常に安定して魔力を放出し、余剰分はすべてポートへと蓄積されるようになった。
結果として、王都を震撼させていた連続不審死事件は一切起こらなくなった。
王都にはメルナやルキウスの他にも、己の正体を隠して怯えながら生きていたルナ・エクリプスが複数発見されたが、彼らも今ではポートから定期的に魔力を供給されることで飢えに苦しむことなく人間と完全に共存し、平和な日常を謳歌しているのだ。
◇
その日の午後、ハーヴィとメルナ、そしてルキウスの三人は、王都を一望できる美しい丘へと足を運んでいた。
春の陽光が降り注ぐなだらかな斜面には、白く真新しい墓標が静かに立っている。
数年前、天寿を全うしてこの世を去った、メルナの父――カミロの墓である。
「おじいちゃん、お花どうぞ。今日はいっぱいお散歩したよ」
ルキウスが小さな両手で白い花束を抱え、墓前へとそっと供える。
メルナはその後ろ姿を見守りながら、胸の前で静かに手を合わせた。
カミロの最期は、とても穏やかで幸せなものだった。
ルキウスが生まれ、化け物ではなく一人の愛される孫として育っていく姿を見るうちに、彼の心を長年縛り付けていた妻への罪悪感と、ルナ・エクリプスへの恐怖は完全に溶けて消え去った。
晩年の彼は、見舞いに来るルキウスを膝に乗せ、メルナが淹れたお茶を飲みながら本当に幸せそうな笑顔を浮かべていた。
そしてある春の夜、眠るようにして静かに息を引き取ったのだ。
「お義父上……どうか安心して見守っていてください。メルナも、ルキウスも、僕が必ず一生幸せにしますから」
ハーヴィが墓標に向かって深く頭を下げる。
メルナはそんな夫の腕にそっと自身の腕を絡め、カミロが眠る丘に広がる、花びらの舞う美しい王都の景色をいつまでも眺めていた。
◇
墓参りの帰り道、大通りを歩いていた三人の背後から、不意に明るく騒がしい声が響き渡った。
「おーい! 先輩っ!」
ドンッ、と勢いよくハーヴィの背中に抱きついてきたのは、流れるような白金色の髪を結んだルナ・エクリプスの青年――レグルス・ロッシェルだった。
かつて、公爵夫人に対する襲撃および危害未遂の容疑として捕縛された彼だが、ハーヴィの尽力とポートの完成により「魔力飢餓による心神喪失状態であった」と情状酌量され、現在は魔導院の特別研究員として釈放されすっかり健康的な顔色を取り戻していた。
「……ロッシェル卿。君は相変わらず騒がしいな。公衆の面前で公爵に飛びつく奴があるか」
「いいじゃないですか、俺たち命を分かち合った仲ですし! いやー、ほんと先輩には感謝してますよ。ここだけの話、最初は先輩のお父上や兄上の莫大な魔力を少しだけわけていただこうとアリストン家に近づいたんですけどね。魔力のない先輩に執着し続けた俺の慧眼は、間違いなかったってことだね!」
「まったく、悪びれもしない……」
呆れてため息をつくハーヴィをよそに、レグルスはメルナとルキウスの前にしゃがみ込んだ。
「メルナ夫人も、相変わらず麗しいですね。ルキウス君も、ずいぶん大きくなったな。ほら、お兄さんが魔法でお花を出してあげよう」
レグルスが指を鳴らすと、光の粒子がポンッと弾け、一輪の綺麗な飴細工の花が現れた。
かつて狂気に満ちた瞳でメルナの魔力を求めていた彼だが、今はポートによって完全に満たされており、その翠色の瞳には純粋な優しさだけが宿っている。
「わぁっ! ありがとう、レグルスお兄ちゃん!」
「どういたしまして。将来は俺みたいな天才魔法使いになるんだぞ」
無邪気に笑うルキウスの頭を撫でるレグルスを見て、メルナもふわりと微笑んだ。
ルナ・エクリプスが、誰かを傷つけることなく、こうして温かい交流を持てる日が来るなんて。
数年前には想像もできなかった奇跡が、今ここにあるのだ。
◇
アリストン公爵邸に帰還すると、いつものように賑やかであたたかい忠臣たちが出迎えてくれた。
「若君! おかえりなさいませ! 今日も一段と、天使のように可愛らしいですね!」
ジェイミーが満面の笑みでルキウスを抱き上げ、手作りしたイチゴの焼き菓子を振る舞う。
ルキウスが「美味しい!」と頬張る姿を見て、彼女は感極まったように何度も頷いている。
中庭へ出ると、非番のランスロットが木剣を持って待っていた。
彼はルキウスに子供用の小さな木剣を持たせ、熱心に素振りの型を教えている。
「良いですぞ、若君! その調子です。踏み込みが実に素晴らしい!」
「えへへ、ランスロット、いつも教えてくれてありがとう!」
「……っ! わ、若君……っ!! あああ、もったいないお言葉……っ!」
ルキウスの純真無垢な笑顔と感謝の言葉を浴びた最強の騎士は、感動のあまりまたしても膝から崩れ落ち、ボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「まったく、ランスロット殿は涙もろすぎますよ。若君が困っておいでです」
呆れたようにため息をつく執事のオリバーだったが、彼もまた、胸元から真っ白なハンカチを取り出し、優しく和らいだ目元を何度も拭っていた。
彼らもまた、この五年間、誰よりも若君の成長とアリストン家の平和を願い、慈しんできた家族なのだ。
◇
その日の夜。
遊び疲れてすやすやと寝息を立てるルキウスを挟み、ハーヴィとメルナはベッドの中で静かに寄り添っていた。
窓の外を見上げれば、そこには紅い月と蒼い月が、少しだけ距離を置いて静かに並んで浮かんでいる。
数年後には、またあの紫の怪光を放つパープルムーンが訪れるだろう。
しかし、今の二人に――そして、このゼネ・レア王国に暮らす人々に、もうあの夜を恐れる理由はどこにもなかった。
ハーヴィが確立したポートと調律のシステムがある限り、呪いの飢えが誰かを狂わせることは二度とないのだから。
「もう、誰も君たちを化け物なんて呼ばない……パープルムーンが何度来ようと、この平和な世界ごと、僕が永遠に守り抜くよ」
ハーヴィがメルナの肩を抱き寄せ、その髪に優しく口づけを落とす。
メルナは彼の、魔力を持たない空っぽで――けれど、何よりもあたたかいその胸に顔を埋め、心からの幸福に満ちた笑顔を浮かべた。
「はい……私、生まれてきて良かったです。ハーヴィ様に出会えて、ルキウスに出会えて……とても、とても幸せです」
愛する夫の力強い鼓動と、愛する息子の穏やかな寝息。
メルナの朱色の瞳には、もう過去の恐怖も悲しみも映っていない。
そこにあるのは、どこまでも澄み切った、未来への希望の光だけだった。
窓の外では、白い花びらが夜風に乗って舞い上がり、紅と蒼の二つの月光が、それを祝福するように優しく照らし出している。
深い森の奥から始まり、数奇な運命に翻弄された二人の物語は――今ここから、永遠に続く眩い光の中へと輝かしく結ばれるのだった。
Fin
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