35 公爵閣下の秘密の遠乗り
ゼネ・レア王国を包み込んでいた焼け付くような盛夏の熱気は、少しずつその勢いを潜め始めていた。
朝夕に吹き抜ける風には涼やかな秋の気配がはっきりと混じり、夜になれば庭園の茂みから季節の移ろいを告げる虫たちの穏やかな鳴き声が聞こえてくる。
空は高く澄み渡り、季節は確実に夏から秋への境界を越えようとしていた。
秋の初め。
それは、メルナがこの世に生を受けた大切な記念日――誕生日の季節である。
「……オリバー、例の品は無事に王都へ届きそうか?」
「はい、旦那様。手配はすべて滞りなく進んでおります。職人たちも、公爵閣下からのご依頼とあらばと、寝る間も惜しんで作業を進めているようです」
朝の執務室の扉の前を通りかかったメルナは、中から聞こえてくる夫と執事のくぐもった声に思わず足を止めた。
最近のハーヴィは、早朝からどこかへ出かけていたり、こうしてオリバーやジェイミーたちと声を潜めて楽しそうに密談を交わしていたりすることが多い。
少し前までのメルナであれば、自分が何か迷惑をかけてしまったのではないかと不安に思っていたかもしれない。
しかし今の彼女は、彼が自分にどれほどの深く優しい愛情を注いでくれているかを痛いほどに理解していた。
(もしかして、私のお誕生日の準備をしてくれているのかな?)
ハーヴィが自分のためにこっそりと計画を練ってくれている。
その事実だけで、メルナの胸の奥はあたたかい幸福感で満たされた。
せっかく彼が内緒で動いてくれているのだから、ここは気づかないふりをして彼が用意してくれる驚きを心待ちにしていよう。
メルナは口元を綻ばせながら、静かな足取りでその場を離れた。
◇
メルナが微笑ましい想像をしながら屋敷で過ごしている間、ハーヴィは一人、王都の閑静な区画にある療養施設を訪れていた。
案内された日当たりの良い面会室で、メルナの父であるカミロが深い感謝の念を込めて深く頭を下げた。
「公爵様。本日はわざわざ私のような者のところへ、いかがなされたのですか? もしや、メルナの身に何か……」
「どうか頭を上げてください、カミロ殿。メルナも、お腹の子も非常に健康で穏やかに過ごしています。今日私が参ったのは、もうすぐ誕生日を迎えるメルナに、心から安らげるものを贈りたいと考えたからです」
ハーヴィは柔らかな笑みを浮かべ、カミロに向かい合って座った。
「彼女が森で暮らしていた頃、特別に喜んでいたものや、好きだった食べ物はありませんでしたか? 彼女の歩んできた大切な時間を、私も共有したいのです」
義理の息子からの誠実で真っ直ぐな問いかけに、カミロは茶色の瞳を細め、遠い記憶を探るように視線を宙に泳がせた。
「……森での生活は、貧しく過酷なものでした。あの子には、綺麗なドレスの一つも買ってやれなかった。ですが、あの子がこの時期、何よりも楽しみにしていたものがあります。それは、森の奥深く、秋の初めのわずかな期間にしか実らない黄金の山葡萄です」
カミロの語るその果実は、王都の市場に出回るような華やかなものではない。
しかし、蜂蜜のように濃厚な甘みと、宝石のように透き通った黄金色を持つ、森の隠れた恵みだという。
「私が山仕事の帰りにそれを見つけて持ち帰ると、あの子はまるで宝物でも手にしたように瞳を輝かせ、それはもう大切そうに食べておりました。もう私の足ではあそこまで採りに行くことは叶いませんが……あの時のメルナの笑顔は、一生忘れられません」
娘を愛する父親の顔で語るカミロの言葉を、ハーヴィは一つも聞き漏らすまいと真剣な表情で頷きながら聞いていた。
「ありがとうございます、カミロ殿。必ず、その黄金の山葡萄をメルナに届けます」
「公爵様……あの子を、本当に大切にしてくださって、感謝の言葉もありません」
カミロは再び頭を下げた。
しかし、その顔を上げた瞬間――彼がメルナから妊娠の報告を受けた時に見せた、あの暗く絶望的な焦燥の影がふたたび茶色の瞳の奥に色濃く滲み出した。
「カミロ殿……?」
ハーヴィがその異変に気づき、心配そうに声をかける。
カミロは震える手を膝の上で強く握りしめ、何かをひどく恐れるように、掠れた声で問いかけた。
「公爵様……今年の冬、予定通りにあの子の赤ん坊が生まれる時。もし、何が起ころうとも……あの子たちを、守り抜いてくださいますか?」
それは、ただの出産への不安とは思えない、あまりにも切実で重い響きを持っていた。
ハーヴィは一瞬だけ目を細めたが、カミロの抱える得体の知れない恐怖をすべて受け止めるように、力強く――そしてどこまでも優しい声で断言した。
「もちろんです。彼女とお腹の子は、私の命そのものです。この身がどうなろうと、必ず私が守り抜きます。どうかご安心ください」
その淀みない誓いの言葉に、カミロは安堵したように息を吐き、微かに頷いた。
だが、ハーヴィの心には、カミロが何をそこまで恐れているのかという小さな疑問が、秋の落ち葉のように静かに降り積もっていた。
◇
数日後。
王都から少し離れた、自然豊かな深い森の中。
アリストン公爵家の当主であるハーヴィは、護衛のランスロット一人だけを伴い、道なき道を歩いていた。
上質な乗馬服はすでに泥や木の枝で汚れ、額には汗が浮かんでいる。
騎士団に命じれば数時間で見つけ出せるものかもしれない。
しかしハーヴィは、メルナの思い出の味を誰の手も借りずに自ら探し出すことに意味があると考えていた。
「旦那様、お足元にご注意ください。この先は斜面が急になっております」
「ああ、わかっている。カミロ殿の話していた日照条件と土壌の湿気、そしてこの森の地形を論理的に分析すれば、群生地はあの斜面の裏側のはずだ」
魔力を持たないハーヴィだが、その明晰な頭脳と知識は広大な森の中でも確かな道標となっていた。
やがて、険しい斜面を登り切った二人の目の前に、木漏れ日を受けて黄金色に輝く果実の群生が姿を現した。
「ありましたね、旦那様!」
「ああ。本当に美しい果実だ」
ハーヴィは傷をつけないよう、持参した柔らかな布を敷いた籠の中に、熟した黄金の山葡萄を一つひとつ、極めて丁寧に摘み取っていった。
自身の服が泥で汚れ、手に草木の擦り傷ができても、彼の顔に浮かんでいるのは疲労ではなく心からの喜びだけだった。
そのあまりにも献身的で愛情深い主君の背中を、ランスロットは静かな感動と共にいつまでも見守っていた。
◇
森からの帰途、ハーヴィは王都で最も歴史と格式のある宝飾店へと立ち寄った。
事前に執事のオリバーを通じて取り寄せさせていた数々の最高級の宝石の中から、彼がメルナの誕生日の贈り物として選んだのは、大粒のスターサファイアをあしらった美しい首飾りだった。
「素晴らしいお見立てでございます、公爵閣下。これほどまでに澄み渡り、奥深い青を持つサファイアは、我が店でも数年に一度しかお目にかかれません」
店主が恭しく頭を下げる。
ベルベットの箱に収められたその宝石は、秋の高く澄んだ空をそのまま切り取ったかのように、静かで優しい青色の光を放っていた。
これまで何も持たず、自身の力を恐れて生きてきた彼女。
これからは、僕と生まれてくるこの子が、彼女を包み込む安らぎの空でありたい。
どんな嵐が来ようとも、このサファイアのように変わらない平穏で、彼女のすべてを守り抜くのだと。
ハーヴィはその首飾りに、言葉にはしきれないほどの深く静かな誓いを込めていた。
◇
夕暮れ時。
王都の空が、少しずつ秋めいた茜色に染まり始める頃。
屋敷へと帰還したハーヴィを、玄関ホールでメルナが笑顔で出迎えた。
「おかえりなさい、ハーヴィ様」
「ただいま、メルナ。待たせてしまってすまない」
ハーヴィの服の裾には微かな泥はねがあり、肩口には小さな枯れ葉が一つ、ちょこんと乗っていた。
メルナは不思議そうに目を瞬かせながらも、背伸びをしてその枯れ葉を優しく取ってあげる。
「お仕事、お疲れ様です。どこか遠くへ行かれていたのですか?」
「ああ……少し、野暮用があってね」
ハーヴィはごまかすように微笑むと、愛おしさに耐えきれなくなったようにメルナの身体をそっと抱き寄せた。
そして、少し大きくなった彼女のお腹にそっと耳を押し当てる。
「ハーヴィ様?」
「……うん。今日も元気だ」
お腹の中から返ってくる小さな胎動に、ハーヴィの灰色の瞳が優しく細められる。
彼はそのまま、メルナには聞こえないほどの小さな声でお腹の命に向かって甘く囁いた。
(もうすぐだよ。お母さんに、世界で一番の驚きと喜びをあげようね)
窓の外では、茜色の空に二つの月が淡く浮かび上がり、その距離をまたわずかに縮めていた。
カミロが恐れる冬の足音が、確実な時の流れと共に近づいている。
しかし、このあたたかい屋敷の中を満たしているのは、愛する人を喜ばせたいという純粋な想いと、もうすぐ訪れる誕生日への幸せな期待だけだった。




