34 ささやかな納涼会
ゼネ・レア王国に、一年で最も日差しが強い盛夏が訪れていた。
抜けるような青空から降り注ぐ陽光は、庭園の木々の緑をこれ以上ないほど鮮やかに際立たせている。
むせ返るような夏の熱気が窓の外を支配しているが、アリストン公爵家の重厚な本館の中は、要所に配置された氷の魔導具のおかげでひんやりと快適な温度に保たれていた。
「メルナ。少し冷えすぎてはいないか? 肩にショールを掛けよう」
サンルームの寝椅子で寛いでいたメルナの元へ、執務の合間を縫って様子を見にきたハーヴィが眉を下げて尋ねる。
安定期に入ったとはいえ、彼にとって妊娠中の妻は世界で最も丁重に扱うべき壊れ物のような存在だった。
少しでも室温が下がれば冷えを心配し、外の気温が上がれば夏バテを案じる。
「ふふっ、ありがとうございます。でも、本当にちょうどいい温度ですよ。ハーヴィ様のおかげで、とても快適です」
メルナは手渡された薄手のショールを受け取りながら、眩しそうに窓の外へ視線を向けた。
よく手入れされた庭園には、大きな枝葉を広げた古木がいくつも並んでおり、その下には見るからに涼しげで濃い緑の影が落ちている。
風が吹き抜けるたびに葉が揺れ、視覚的にも夏の生命力を感じさせた。
「あの、ハーヴィ様。ずっとお部屋の中にいるのも、なんだか退屈してしまって。外は暑いですけれど、あのお庭の大きな木陰なら、風が通って涼しいと思うんです。皆様と一緒に、外で冷たいスイカを食べませんか?」
メルナが控えめに提案すると、ハーヴィはわずかに難色を示した。
万が一にも外の熱気で彼女が体調を崩してしまわないかという懸念があったからだ。
しかし、窓の外を眺めるメルナの朱色の瞳があまりにも楽しげで、夏という季節を心から味わいたがっているのが伝わってくる。
「……君のその笑顔には、抗えないな」
ハーヴィは深い溜め息と共に降参の意を示し、すぐさま執事のオリバーを呼び寄せて庭園でのささやかな納涼会の準備を命じた。
数十分後。
庭園の最も大きな古木の木陰には上質な布が敷かれ、ふかふかのクッションがいくつも用意されていた。
葉擦れの音が心地よく響き、自然の風の涼しさが肌を撫でていく。
そこへ、ジェイミーとランスロットが、井戸水で極限まで冷やされた巨大なスイカを運んできた。
深い緑色の縞模様が入ったその果実は、南の豊かな領地から献上されたばかりの最高級品である。
「さあ、切り分けよう。ナイフを貸してくれ」
敷物の上に座ったハーヴィが、真剣そのものの顔つきで果物ナイフを手に取った。
以前、青リンゴの皮剥きで不器用さを露呈した彼だが、切り分けるだけの作業ならば計算でどうにかなると踏んだらしい。
「この美しい球体を最も無駄なく、かつ全員が完全に同じ体積の果肉を味わえるようにするには……刃を入れる角度と、中心点への到達速度を完璧に調整して」
「旦那様、そのような厳密な計算は不要でございます! 私が剣で一刀両断いたしましょうか」
「駄目だランスロット、君の剣気では果肉の細胞が潰れて甘みが逃げてしまう。ここは僕の論理的解釈で……」
「もう、お二人とも。普通に切り分けてくだされば、それで十分に美味しいですから」
メルナが堪えきれずに笑い声を上げると、控えていたジェイミーとオリバーも口元を押さえて肩を揺らした。
結局、ハーヴィの複雑な計算は途中で放棄され、少し不格好ながらも愛情たっぷりに切り分けられた赤い果肉が、皆の皿へと配られた。
「いただきます」
メルナが瑞々しい果肉を一口かじると、清涼感のある豊かな甘みが口いっぱいに広がった。
小気味良い歯ごたえと共に、夏の熱気を忘れさせてくれるような冷たい果汁が喉を潤していく。
「甘くて、冷たくて……すごく美味しいです!」
満面の笑みを浮かべるメルナを見て、ハーヴィの灰色の瞳も満足げに細められた。
普段は公爵家の厳格な規律の下で働くオリバーやジェイミー、そしてランスロットも、今日ばかりは主人の寛大な計らいにより、同じ敷物の上で夏の味覚を共有している。
身分や立場の壁を越え、ただ美味しいものを一緒に食べて涼む。
王都の中心にある公爵邸の庭園に、まるで本物の家族のような、和やかであたたかい時間が流れていった。
◇
楽しい夏の午後はあっという間に過ぎ去り、やがて太陽が西の空へと傾き始めた頃。
庭園は夕暮れ特有の燃えるようなオレンジ色の光に包まれ、昼間の熱気は静かな涼風へと変わっていた。
使用人たちが皿や片付けのために本館へ戻り、木陰の敷物の上にはハーヴィとメルナの二人きりの穏やかな時間が残されていた。
「本当に、良い一日でした。ハーヴィ様、わがままを聞いてくださってありがとうございました」
「君が喜んでくれたなら、これ以上の喜びはないよ。お腹は張っていないかい?」
ハーヴィはメルナの隣に腰を下ろすと、少し膨らみ始めた彼女のお腹へと愛おしむようにそっと大きな右手を当てた。
服越しに伝わってくる、妻のあたたかい体温。
その奥底に、自分と彼女の血を引く新しい命が確かに息づいているという事実が、彼の胸の奥を静かな感動で満たしていく。
「大丈夫です。この子も、スイカが美味しかったみたいで、ご機嫌ですよ」
メルナが微笑みながら、ハーヴィの右手に自らの手を重ねた――その瞬間。
ハーヴィの掌の下で、メルナのお腹の内側から何かがはっきりとした意志を持って、弾くように当たってきたのだ。
内側から押し返すような、小さくて力強い感覚。
「……え」
メルナが驚きに目を見開き、自身の腹部を見下ろした。
ハーヴィは呼吸を忘れ、当てた手から神経のすべてを集中させるようにして、その場で完全に硬直した。
数秒の静寂の後、再び。
今度は先ほどよりも少しだけ強く、手のひらを内側から蹴り上げるような確かな反発があった。
「あ……ハーヴィ様、今……」
「ああ……動いた。今、僕の手に触れた」
ハーヴィの声は、聞いたことがないほど震えていた。
灰色の瞳が限界まで見開かれ、やがてその奥に、隠しきれない熱い涙がじんわりと滲み出していく。
「すごい……この子は、もう生きているんだ。僕の手に反応して、自分がここにいると主張している」
ハーヴィは感極まったように声を詰まらせると、メルナの身体を、その中にいる小さな命ごと壊さないようにひどく優しく抱きしめた。
彼の広い肩が微かに震え、あたたかな吐息がメルナの首筋に触れる。
「ハーヴィ様……」
「ありがとう、メルナ……ありがとう。僕を父親にしてくれて」
いつもは冷静に状況を俯瞰するハーヴィが、ただ一人の父親として、言葉にならない感動に打ち震えている。
メルナもまた、あふれ出す涙を止めることができず、彼の背中に腕を回してその温もりを強く抱きしめ返した。
「この子が生まれたら、三人で一緒にスイカを食べましょうね」
「もちろんだ……いや、スイカだけじゃない。世界中のどんな美しい景色も、美味しいものも、すべてこの子と君に捧げよう。僕の命に代えても、この幸せな未来を守り抜くよ」
夕陽が、抱き合う二人の影を庭園の芝生に長く伸ばしている。
その光景は、侵しがたい神聖な愛に満ちていた。
カミロが恐れていた不穏な冬の予言など、今の彼らの世界には微塵も存在しない。
ただ、二人の間を繋ぐ小さな命の鼓動だけが、これから訪れる未来への希望を約束するように力強いリズムを刻み続けていた。




