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魔力を持ちすぎた化け物少女は、空っぽの無能公爵に嫁ぐ 〜触れても壊れないただ一人の旦那様に、なぜか底抜けに溺愛されています〜  作者: 白月つむぎ


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32 世界で一番あたたかい晩餐

 夏の夜気は、肌にまとわりつくように重く、湿っていた。


 王立魔導院の裏手に広がる人気のない暗がり。

 街の喧騒から完全に切り離されたその石畳の路地裏で、一人の男が恐怖に顔を歪め、後ずさっていた。


 男は魔導院に所属する上級研究員であり、常人を遥かに凌ぐ高い魔力を持っていた。

 しかし今の彼は、自身の魔法を行使することすら忘れ、ただ迫り来る死の気配に歯の根を鳴らして震えることしかできない。


 暗闇の中から、足音もなくそれは近づいてくる。


 ひどく甘美で、むせ返るような濃密な匂い。

 狩猟者が獲物を追い詰める、静かで残酷な時間だった。


 男が悲鳴を上げようと大きく息を吸い込んだ瞬間、暗がりに冷たい銀色の刃のきらめきが走った。

 抵抗する間も与えられない、完璧な一撃。

 刃は正確に男の頸動脈を切り裂き、熱い鮮血が夏の夜気の中へと噴き出した。


 化け物は崩れ落ちる男の身体を抱き留めると、その傷口に直接口を押し当てた。

 喉を鳴らし、噴き出す血と、そこに溶け込んだ極上の魔力を貪るように吸い尽くしていく。


 男の身体から急速に生命の熱が失われ、やがて完全に動かなくなった後も、化け物は甘い蜜をすするような陶酔感の中で、満ち足りた吐息を漏らした。


 ふと、化け物が夜空を見上げる。

 雲の切れ間から覗く夏の夜空には、血のように染まった紅い月と、冷たい光を放つ蒼い月が並んで浮かんでいた。


 二つの月は、まるで互いに引き寄せ合うように少しずつその距離を縮め、やがて完全に重なり合おうとしている。


 それは、王都に静かに忍び寄る、逃れられない運命の交差を暗示しているかのようだった。


 ◇


 凄惨な夜が明け、ゼネ・レア王国にまばゆい夏の朝陽が降り注ぐ。


 アリストン公爵家の屋敷は、昨夜の路地裏の惨劇など微塵も感じさせない、穏やかで平和な光に満ち溢れていた。


 今日は、ハーヴィ・アリストンの誕生日である。

 彼は午前中だけどうしても外せない王城での公務をこなし、午後からは完全に休暇をとって屋敷でメルナと過ごす約束になっていた。


「いってらっしゃいませ、ハーヴィ様。午後、お待ちしていますね」


「ああ。なるべく早く帰るよ。君も、あまり無理をして動き回らないように」


 玄関ホールでハーヴィはメルナの髪を優しく撫で、その額に慈しむような口づけを落としてから出仕していった。

 彼の眼差しはいつだって、メルナとお腹の中の小さな命を気遣う、深い優しさと愛情に満ちている。


 彼を見送った後、メルナはすぐさま気合いを入れて袖をまくり上げ、厨房へと向かった。

 清潔な白いエプロンを身につけ、ジェイミーの温かいサポートを受けながら、メルナは愛する夫のための特別なディナー作りに取り掛かる。


「奥様、火加減は私が調整いたしますから、卵の準備をお願いできますか」


「はい、ジェイミーさん。焦がさないように、ふんわりと包まなくちゃ」


 高級なフルコースではなく、ハーヴィが幼い頃に安らぎを感じたという、素朴で温かい家庭の味。

 新鮮な野菜を丁寧に煮込んだスープを作り、彩り豊かなサラダを盛り付ける。

 そしてメインとなるのは、あたたかなオムライスだ。


 メルナはバターを溶かしたフライパンに溶き卵を流し込み、絶妙な半熟の状態でチキンライスを包み込む。

 ジェイミーのアドバイスのおかげで、黄金色に輝く見事な形のオムライスが完成した。


 そして、ここからがメルナの腕の見せ所である。

 彼女は真っ赤なトマトケチャップの入った容器を手に取ると、真剣な表情でオムライスの上の黄色いキャンバスに向き合った。


「えっと、まずは文字を書いて……それから」


 少し手が震えそうになるのを抑えながら、メルナは丁寧にケチャップを絞り出していく。

 完成したオムライスを見て、ジェイミーが目元をハンカチで押さえながら「まあ……なんて愛らしいのでしょう。旦那様、きっと涙を流してお喜びになりますわ」と微笑んだ。


 午後。

 予定よりも少し早く、ハーヴィが足早に屋敷へと帰還した。


 メルナは彼を出迎え、誕生日の祝いの言葉と共にダイニングルームへと案内する。

 広々としたテーブルの上に並べられていたのは、豪奢な肉料理でも珍しい海鮮でもなく、湯気を立てる素朴なスープと、一人分の大きなオムライスだった。


「これは……」


 ハーヴィは目を見開き、テーブルの前に立ち尽くした。

 彼の視線は、黄金色のオムライスの上に赤いケチャップで描かれたものに釘付けになっていた。


 そこには、少し不格好ながらも一生懸命に描かれた「おめでとう」の文字と、特徴的な流れるような前髪を描き込んだ、ハーヴィ自身の可愛らしい似顔絵が描かれていたのだ。


 公爵家の洗練された食卓には、あまりにも不釣り合いで、だからこそ世界中のどんな宝石よりも無邪気で愛らしい、メルナからの贈り物。

 ハーヴィは口元を片手で覆い、まるで奇跡の光景を目の当たりにしたかのように完全に動きを止めてしまった。


「あ、あの……ハーヴィ様? 似顔絵、少し変だったでしょうか。料理人の方が作るような立派なお料理じゃなくて、ごめんなさい。でも、ジェイミーさんに、ハーヴィ様が昔オムライスを好きだったって聞いて……」


 メルナが恥ずかしそうに指を絡めながら上目遣いで尋ねると、ハーヴィはひどく熱を帯びた溜め息を吐き出した。


「謝ることなんて何もない。ただ、あまりにも可愛すぎて。これを崩して食べるなんて、僕には到底できそうにないよ。このまま保存して、書斎の壁に飾っておきたいくらいだ」


 本気で悩むように眉を下げるハーヴィの姿に、メルナは堪えきれずにくすくすと笑い声を漏らした。


「冷めてしまいますから、食べてください。また何度でも作りますから」


 メルナに促され、ハーヴィはようやく席につきスプーンを手にした。


 似顔絵のない端の部分からそっと掬い上げ、口に運ぶ。

 卵の優しい甘みと、トマトの心地よい酸味が絶妙に絡み合い、心から安らぐような温かい美味しさが口いっぱいに広がった。

 少年時代、孤独の中で味わったあの記憶の味に、メルナの深い愛情という最高の隠し味が加わっている。

 ハーヴィはこれ以上ないほど幸福そうな表情で、オムライスを綺麗に完食した。


 ◇


 あたたかい晩餐を終え、二人は寝室にある寛ぎのソファへと移動した。


 窓の外では、夏の夜風が庭園の木々を静かに揺らしている。


「ハーヴィ様。私から、もう一つプレゼントがあります」


 メルナは背後に隠し持っていた美しい包みを取り出し、ハーヴィの膝の上へと乗せた。

 彼が慎重に包みを開けると、中から現れたのは職人の手によって丹念に仕立てられたしなやかな革の手袋と、深い艶を放つ特注の万年筆だった。


「メルナ、これは……」


「ランスロットさんとオリバーさんに、少しだけお話を聞いたんです」


 メルナはハーヴィの隣に座り、彼の大きくて形の良い手を両手でそっと包み込んだ。

 剣を振るい続けることでできた硬い豆の痕が残る、努力の証明のような手のひら。


「魔法の代わりに、誰よりも努力して剣を振るい続けるその手を、少しでも守りたくて。そして、誰よりもたくさんのことを考えてこられたハーヴィ様に、ずっと使い続けてもらえるペンを贈りたくて……選びました。お誕生日、本当におめでとうございます」


 メルナが微笑みかけると、ハーヴィの灰色の瞳が微かに揺らいだ。


 彼女はただ物を贈ったのではない。

 魔力を持たないがゆえに彼が歩んできた、血の滲むような孤独な研鑽と努力の歴史。

 そのすべてを知り、理解し、丸ごと抱きしめようとしてくれているのだ。


 ハーヴィは何も言わず、メルナの手を引いて自身の胸の中へと深く抱き寄せた。

 お腹の命に障らないよう力加減はひどく優しいけれど、絶対に離さないという確かな独占欲が込められている。


「……ありがとう、メルナ。君のその優しさが、僕の過去のどんな傷もすべて癒してくれる」


 ハーヴィの少し掠れた声が、メルナの耳元に落ちる。

 そのまま彼女の顎をそっと持ち上げ、呼吸を確かめ合うような、甘く深い口づけが何度も交わされた。


「君が僕の妻になってくれたこと。そして今、僕たちの新しい命を宿してくれていること。君という存在そのものが、僕の生涯で最高の贈り物だよ」


 ハーヴィの甘い囁きに、メルナは幸福で胸をいっぱいにしながら、彼の首元に腕を回してその温もりに身を委ねた。


 暗い路地裏での惨劇も、空で交わりつつある不吉な双月の存在も、今は遠い世界のことのように思える。

 二人の夜は過去の寂しさをすべて塗り替えるほどの、とろけるような甘さと愛情に包まれて、静かに更けていくのだった。

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