31 レグルスとの再開
雨季の合間に訪れた、貴重な晴れ間。
ゼネ・レア王都の石畳はまだ所々が濡れており、雲間から差し込む初夏の陽光を反射して、街全体がきらきらと輝いていた。
王都の中心部にある高級商店街は、雨上がりを待ちわびていた貴族や裕福な商人たちでいつも以上の賑わいを見せている。
その大通りを、公爵夫人という身分を隠すために落ち着いた色合いのドレスに身を包んだメルナが歩いていた。
顔の下半分を薄いヴェールで覆い目立たないように装っているものの、彼女の持つ上品な空気と端正な佇まいはすれ違う人々の視線を無意識のうちに惹きつけている。
そして、彼女の斜め後ろには私服姿のランスロットがピタリと付き従っていた。
彼は周囲の群衆に紛れるような素振りを見せつつも、その鋭い視線は常に周囲の建物の屋根から行き交う人々の手元にまで気を配り、いかなる脅威からも主人の妻を守り抜くという強固な意志を漂わせている。
「奥様。足元が滑りやすくなっておりますので、お気をつけください」
「ええ、ありがとう。ランスロットさんも、重い荷物を持っていただいてごめんなさいね」
メルナは振り返り、柔らかな笑みを向けた。
ランスロットの腕には、先ほど職人の店で受け取ったばかりの品物が抱えられている。
ハーヴィの誕生日に贈るための、特注の万年筆と、上質な革で仕立てられた手袋だ。
どちらも、アリストン家の当主として、そして一人の絶え間ない努力家としての彼を支えるための特別な品である。
職人と直接言葉を交わし、革の質感やインクの出具合まで細かく指定して完成したそれらの贈り物に、メルナは心からの満足感を覚えていた。
「とんでもないことです。旦那様がこれらの贈り物をご覧になった時の、驚きと喜びのお顔が今から目に浮かぶようです」
ランスロットもまた、どこか誇らしげに頷いた。
二人は馬車を待たせている広場へと向かうため、人通りの多い大通りの角を曲がろうとした。
――その時だった。
「奥様、お下がりください」
ランスロットの声が、それまでの穏やかなものから、一切の感情を排した氷のように冷たく鋭いものへと一変した。
彼は瞬時にメルナの前に立ち塞がり、腰に帯びた長剣の柄に手をかける。
王都のど真ん中でありながら、今すぐにも刃を抜き放ちかねないほどの極度の緊張状態だった。
メルナが彼の広い背中越しに前方を窺うと、人混みを縫うようにして一人の青年がこちらへと歩いてくるのが見えた。
初夏の陽光を反射して輝く、流麗な白金色の髪。
周囲の喧騒から完全に切り離されたような、優雅で隙のない足取り。
王立魔導院の最高階位の証である深紫の外套を身に纏い、青年――レグルス・ロッシェルは、ランスロットから向けられる明確な殺気などまるで春風か何かのように受け流し、メルナたちの数歩手前で足を止めた。
「やあ、奇遇だね。そんなに警戒しないでよ、今日はただの散歩だから」
レグルスは屈託のない爽やかな微笑みを浮かべてみせた。
言葉の響きだけを聞けば、旧知の友人に街角で出くわしただけのように思える。
だが、ランスロットの剣の柄を握る手は微塵も緩まない。
「ロッシェル卿。本日はどのようなご用件で。当家の奥様に、みだりに近づくことはご遠慮いただきたい」
威嚇しつつも、相手が伯爵令息であることを踏まえた冷静な対応。
しかし、ランスロットの青い瞳は、ただの身分ある魔法使いに対する警戒の枠を完全に超えていた。
歴戦の騎士であるランスロットの視線は、レグルスが着ている深紫の外套の袖口に、微細な赤い飛沫が付着しているのを正確に捉えていたのだ。
それは、魔導院の奥深くで行われる薬草や鉱石の実験でつくような汚れではない。
生々しく、そしてまだ乾ききっていない、真新しい血の痕跡だった。
最近、王立魔導院の周辺で相次いでいる、高魔力保持者の不審死事件。
遺体はすべて、頸動脈を深く抉られて血を抜かれていたという。
その忌まわしい事件の記憶と、目の前に立つ青年の袖口の汚れが、ランスロットの脳内で最悪の形で結びつく。
証拠はない。
しかし、騎士としての本能が、この白金色の男を人間ではなく極めて危険な捕食者であると断定して警鐘を鳴らし続けていた。
「怖いなあ。相変わらず優秀な番犬だ」
レグルスは軽く肩をすくめると、ランスロットを透明人間のように無視して、その背後にいるメルナへと翠色の瞳を向けた。
「春の結婚式で見かけた時よりも、君の魔力の波長がずっと穏やかだね。あんなに溢れ出しそうだったのに、今はとても静かだ……ん?」
レグルスは言葉を切り、メルナの腹部あたりに視線を落とした。
その瞬間――彼の中で何かの答えが繋がったのか、すべてを理解したような深い笑みがその唇に浮かぶ。
「なるほど。君の中に、とても愛らしくて、途方もなく美しい果実が芽吹いているんだね。おめでとう、メルナ」
祝いの言葉であった。
だが、それを紡ぐレグルスの声には、人間の新しい命の誕生を喜ぶ温もりは一切含まれていない。
まるで、丹精込めて育てられた極上の果実が、いつ自分のもとへと転がり落ちてくるのかを静かに待ち望んでいるような、ひどく冷酷で甘美な響きがあった。
メルナは無意識のうちに一歩後ずさった。
その時、雲間から差し込んだ強い光が、レグルスの顔を照らし出した。
(あ……)
メルナは思わず息を呑んだ。
レグルスの鮮やかな翠色の瞳。
その瞳孔に、真っ黒な円がくっきりと浮かび上がっていたのだ。
それは以前、ハーヴィに読んでもらった本に書かれていた皆既日食の光景に似ていた。
光を完全に遮断し、すべてを黒く塗りつぶす、あの静寂の円。
自分と同じような過剰な魔力を持つ彼が、なぜあのような異質な瞳をしているのか。
メルナの心に、言いようのない不気味さが広がる。
「おっと」
レグルスは自らの袖口に視線を落とし、微かな赤い汚れに気づいたようにわざとらしく目を丸くした。
「研究の途中で、少し汚れてしまっていたみたいだ。君のような美しい女性の前に出るには、少し身だしなみが悪かったね。失礼するよ」
レグルスは優雅に一礼をした。
「母子ともに、健やかにね。またいつか、話の続きをしよう」
彼はそれだけを言い残し、立ち止まってこちらを見ていた人々の間をすり抜けるようにして、自然な足取りで立ち去っていった。
恐怖を煽るような言葉も、直接的な脅しも一切ない。
だからこそ、彼のそのあまりにも日常に溶け込んだ異常性が、メルナたちの肌に冷たい粟立ちを残していた。
レグルスの姿が完全に群衆の中に消え去った後も、ランスロットはしばらくの間剣の柄から手を離そうとはしなかった。
周囲の安全を完全に確認してから、彼はようやく短く息を吐き、険しい表情でメルナへと振り返った。
「奥様。どうか、あの男には決して近づかないでください。ただの魔法使いではありません。あれは……濃密な血の匂いを纏っていました。人の理から外れた、危険な存在です」
ランスロットの言葉は、怯えからくるものではない。
護衛対象を守るべき騎士としての、冷静な警告だった。
「……はい。わかっています、ランスロットさん。守ってくれて、ありがとう」
メルナは静かに頷き、自分のお腹を両手でそっと抱きしめた。
あの冬の日に、レグルスは言った。
君の魔力は飢えている、と。
そして今日、彼はこちらを獲物を見据えるような瞳で見つめ、お腹の命を果実と呼んだ。
底知れない不安が胸に渦巻く。
自分と、自分の内にあるものが、何か途方もない運命の渦に巻き込まれようとしている予感があった。
だが、メルナの心はもう、森で怯えていた頃の孤独な少女のそれではなかった。
(大丈夫。私が……この子と、ハーヴィ様を守るから)
愛する夫から与えられた温もりと、新しく芽吹いた命。
それを脅かすものが何であれ、絶対に奪わせはしない。
メルナは母としての強い決意を胸に抱き、ランスロットと共に、ハーヴィの待つ安全で温かな屋敷へと帰路についた。
初夏の風が雨上がりの街の匂いを乗せて、二人の間を静かに吹き抜けていった。




