30 ハーヴィの素顔
本格的な初夏を迎えた王都は、どんよりとした厚い雲が空を覆い、途切れることのない柔らかな雨が降り続く季節を迎えていた。
アリストン公爵家の広大な庭園に咲く花々は、恵みの雨の雫を弾いてより一層瑞々しく濡れそぼり、生命の息吹を放っている。
しかし、分厚い石造りの屋敷の中は外の湿気を微塵も感じさせず、屋根を打つ規則正しい雨音だけがどこか遠い子守唄のように響き渡っていた。
「メルナ。やはり今日は、仕事を休んで君のそばにいようか。雨の日は体が冷えやすいし、君の体調が心配だ」
朝。
玄関ホールで外出の支度を整えたハーヴィが、心配そうにメルナの顔を覗き込んだ。
お腹の中に新しい命が宿っていることが判明してからというもの、彼の過保護ぶりにはさらに磨きがかかっていた。
少しでもメルナが目を細めれば眠いのかと案じ、顔色が白ければ冷えたのかと即座にもこもこの上着を羽織らせて温めようとする。
その心配性は、時にランスロットやオリバーが苦笑いを浮かべるほどだった。
「もう、ハーヴィ様。私は大丈夫ですから。お医者様も、今はとても安定しているとおっしゃっていたでしょう。王城で皆様が待っていらっしゃいますよ」
メルナは苦笑しながら、彼の仕立ての良い衣服の襟元を指先で丁寧に整えてあげた。
ハーヴィは名残惜しそうに彼女の手を握り、その細い指先に甘い口づけを落とす。
そして、後ろ髪を引かれるような表情のまま、護衛の騎士が待つ雨除けの施された馬車へと乗り込んでいった。
馬車の轍の音が雨の中に完全に消えていくのを見届けてから、メルナは小さく息を吐き、両手で軽く自身の頬を叩いた。
ここからが、彼女の秘密の活動時間の始まりである。
季節は初夏。
もうすぐ、盛夏に控えたハーヴィの誕生日がやってくる。
メルナは夫婦になって初めて迎える彼の記念日を、最高に喜んでもらえるものにしたいと考えていた。
けれど、いざプレゼントや計画を練ろうとしても、何でも持っている彼が、一体何を贈れば心から喜んでくれるのかがわからなかった。
「……もっと、ハーヴィ様が本当に欲しがっているものを探らなくちゃ」
メルナはまず、屋敷の裏手にある雨除けの長い回廊へと向かった。
そこでは護衛騎士のランスロットが、静かな雨の景色に向かって武具の手入れを行っていた。
「ランスロットさん、お疲れ様です。あの、少し相談に乗ってもらえませんか?」
「奥様! いかがされましたか。私にできることなら何なりと」
ランスロットが姿勢を正すと、メルナは少し声を潜めて切り出した。
「ハーヴィ様の誕生日に、何か身につけるものやお仕事で使うものを贈りたいと思っているんです。ランスロットさんから見て、ハーヴィ様が欲しがっている道具や、こだわりを持っているものはありますか?」
ランスロットは腕を組み、真剣に考え込んだ。
「そうですね……旦那様は魔力を持たない身でありながら、騎士の訓練においても誰よりも過酷な鍛錬を積まれます。魔法騎士たちが魔力で剣を強化する中、旦那様は純粋な肉体の力と予測能力だけで戦われます。そのため、実は誰よりも手のひらの消耗が激しく、剣の柄を握るための革の手袋を、頻繁に新調されているのを見かけます」
ランスロットは懐かしそうに、かつてハーヴィが手に豆を作り、それが潰れて血が滲んでも決して休もうとしなかった姿を語った。
「旦那様は、魔力がないという事実を埋めるために、誰よりも泥臭い努力を積み重ねてこられました。そんな旦那様の努力の証を支えるような、上質で丈夫な手袋があれば、きっとお喜びになるかと思います」
「手袋……ハーヴィ様の強さを支えるためのものですね。ありがとうございます、ランスロットさん!」
次にメルナが向かったのは、執事のオリバーがいる書斎だった。
オリバーは山のような報告書を驚くべき速度で整理していた。
「オリバーさん、お忙しいところごめんなさい。ハーヴィ様へのプレゼントについて、知恵を貸してほしいんです」
「おや、奥様。素敵な計画ですね。旦那様への贈り物、ですか」
オリバーはペンを置き、柔和な笑みを浮かべた。
「旦那様は知性の人ですが、その裏側にあるのは凄まじい研鑽です。十代の頃からこの書斎や図書室にこもりきりで、寝る間も惜しんで魔導理論を研究しておられました。当時、あのお方は指先を常にインクで真っ黒に染め、本を抱えたまま冷たい床で眠り込んでおられたものです。今でも、旦那様は重要な書類を書く際には、決まった職人が作る特注のインクと、握り心地の変わらない古い万年筆を愛用されています」
オリバーは棚の一つを指し示した。
「もし、旦那様が長年愛用されているその職人の新作や、あのお方の思考を妨げないような極上の執筆道具があれば……それは、旦那様の知性の孤独を理解し、寄り添うという意味で、最高の贈り物になるでしょう」
「ハーヴィ様の歩んできた道を尊重するような、特別な文具……とても素敵です、オリバーさん!」
最後にメルナが訪れたのは、甘い香りが漂う厨房だった。
ジェイミーが、夕食の準備を前に一息ついているところだった。
「ジェイミーさん。誕生日のお料理について、相談させてください。ハーヴィ様が一番ほっとできる、本当の大好物をメインにしたいんです」
ジェイミーはどこか懐かしむように、そしてとても愛おしそうに目を細めた。
「旦那様のお好み、ですか……実は、旦那様には幼い頃からずっとお好きな、特別なお料理がございましてね。それは、あたたかいオムライスなのです」
「オムライス……公爵家のお食事としては、少し意外な気がします」
「ええ。アリストン家の先代様は、ひどく厳格な方でした。食事の席は常に礼儀作法を重んじる場であり、冷めきった高級食材が並ぶ苦痛な時間でしかなかった。魔力のない自分を責め、重圧に晒されていた少年時代の旦那様が、唯一、私のいる厨房へこっそり忍び込んで、誰の目も気にせず頬張っていたのが私が作ったオムライスだったのです」
ジェイミーは慈しむような声で続けた。
「あのお方は、どんな高級料理よりも、誰かの真心がこもった温もりを欲しておいででした。旦那様にとってオムライスは孤独な子供時代を救ってくれた、一番あたたかい記憶の味なのですわ」
三人の話を聞き終え、主寝室に戻ったメルナは窓を打つ雨を眺めながら静かに目蓋を伏せた。
プレゼントは、ハーヴィの努力の証である手を守る手袋。
そして、彼の知性に寄り添う特別な文具。
そして夜には、ジェイミーに教わりながら、彼が一番ほっとできる最高のオムライスを自分の手で作りたい。
「ハーヴィ様が歩んできた、寂しくて、誇り高い道のり……それを全部、私が『お疲れ様』って包んであげたい」
メルナは自身のまだ平らなお腹をそっと撫でた。
完璧に見える公爵閣下の、誰も知らない不器用な情熱と温もり。
それを知るたびに、メルナの心には新しい愛おしさが募っていく。
その日の夜。
冷たい雨の中、公務を終えて帰宅したハーヴィは、出迎えたメルナを抱き寄せた瞬間に――ふと不思議そうな顔をした。
「メルナ。なんだか、今日はいつもより僕を見つめる瞳が熱いような気がするが。僕がいない間に、何か良いことでもあったのかい?」
「ふふっ、そうですか? 雨がずっと降っているから、寂しくならないように、ハーヴィ様をたくさん見ておこうと思っただけですよ」
メルナが満面の笑みで答えると、ハーヴィは少し驚いたように目を見開き、やがて心の底から愛おしそうに目を細めた。
外の雨の冷たさなど微塵も感じさせない、柔らかな表情だった。
「そうか……なら、もっと見ていてもいい。一晩中でも、一生でも。君の視線を感じるだけで、僕の心は驚くほど穏やかになれるんだ」
ハーヴィは満足げに彼女の額にそっと口づけを落とした。
誕生日に向けて、メルナの想いはより一層深く、確かなものへと育っていく。
彼が今日まで戦ってきた孤独を、この夏、彼女の愛が最高の温もりで塗り替えてあげるのだ。




