29 新しい命
ジェイミーの進言から数時間後のこと。
アリストン公爵家の広大な前庭に、一台の落ち着いた色合いの馬車が静かに到着した。
出迎えた執事のオリバーに案内され重厚な本館の扉をくぐったのは、代々アリストン家や王族の健康を管理してきた真っ白な髭を蓄えた公爵家お抱えの老医師である。
主寝室は、いつになく張り詰めた空気に包まれていた。
天蓋付きのベッドに身を横たえるメルナは、自身の身体に起きているかもしれない奇跡の予感に、両手を胸の前で固く握り合わせていた。
そして、部屋の窓際に立つハーヴィはといえば、腕を組み、彫像のように微動だにしないように見えて、その実、数秒おきに視線を壁の時計とメルナの間で往復させ、彼らしからぬ落ち着きのなさを隠しきれずにいた。
「旦那様、お医者様をお連れいたしました」
オリバーの落ち着いた声と共に扉が開かれ、老医師が室内に足を踏み入れた。
ハーヴィはすぐさまベッドの傍らへ移動し、メルナを庇うように立つ。
「急な呼び立てですまない。妻の体調が優れないのだ。南の離宮からの長旅の疲れかと思っていたが、どうも様子が違う」
「承知いたしました。奥様、失礼いたします」
老医師は穏やかな手つきでメルナの腕に触れ、脈を測り始めた。
さらに、微弱な探知の魔法を指先に灯し、メルナの腹部や全身の魔力の巡りを極めて慎重に確認していく。
部屋の中には、時計の秒針が進む音だけがやけに大きく響いていた。
ジェイミーは部屋の隅で両手を組んで静かに祈り、ハーヴィは息を詰めて老医師の表情の僅かな変化を追っている。
やがて、老医師は目を細め、指先の魔法の光を消した。
そして、ゆっくりとハーヴィたちに向き直り、深く、深く頭を下げたのだ。
「おめでとうございます、旦那様、奥様」
それは、確かな喜びに満ちた声だった。
「奥様のお腹には、間違いなく新しい命が宿っております。まだ初期ではございますが、母子ともに魔力の状態は極めて安定しておりますな」
その言葉が発せられた瞬間、室内の時間が止まったかのように感じられた。
ハーヴィは目を見開き、信じられないものを見るように老医師とメルナを交互に見つめた。
彼の明晰な頭脳をもってしても、この圧倒的な幸福の事実を処理するのに数秒の時間を要したのだ。
やがて、ハーヴィは崩れ落ちるようにベッドの傍らへ跪き、メルナの小さな手を壊れ物を扱うような手つきで包み込んだ。
「メルナ……本当なのか。僕たちの、子供が」
「はい……ハーヴィ様。私、頑張ります。この子を、大切に育てたいです」
メルナの朱色の瞳から、温かい涙がこぼれ落ちる。
ハーヴィはその手を自らの額に押し当て、震える声で何度も感謝の言葉を繰り返した。
扉の傍で控えていたジェイミーは堪えきれずに顔を覆い、オリバーは目元を拭い、廊下で警護に当たっていたランスロットまでもが、かつてない公爵家の慶事に兜の下で涙を流していた。
◇
しかし、屋敷が祝福の空気に包まれる一方で、非情にも運命の刻限は迫っていた。
執務室の奥に安置された、王都の魔力網を示す星辰盤。
その巨大な魔力計の針が、危険水域を指し示している。
大陸を支える大樹の魔力を安定させるための、三回目の調律の時期だった。
アリストン家には、長らくこの儀式を執り行える高魔力者が存在しなかった。
ハーヴィの父や兄たちが命を落とした後、メルナがこの屋敷へ来るまでの空白期間。
その間に蓄積された大樹の魔力圧は、すでに限界に達している。
もし今回の調律を怠れば、王都を巡る複雑な魔力網は耐えきれずに破綻し、多くの市民が犠牲になる未曾有の崩壊を招いてしまう。
「メルナ、やはり今回は僕一人で行う方法を考えよう。君とお腹の子に大樹の魔力を流すなど、危険すぎる」
執務室で、ハーヴィは苦渋に満ちた表情で星辰盤を睨んでいた。
だが、メルナは迷うことなく首を横に振った。
「いいえ、ハーヴィ様。私たちが調律をしなければ、この子が生まれてくる王都の平和が守れません。それに、不思議なんです。この子が宿ってから、私の中の魔力が今までよりもずっと落ち着いているような気がして……」
メルナの強い意志に押され、二人は地下の大樹のコアへと足を踏み入れた。
地下深く、巨大な根が脈動する祭壇。
ハーヴィはメルナの隣に座り、彼女の指を絡めるようにして手を握り合わせた。
「始めるよ。少しでも異変を感じたら、すぐに言うんだ」
接続が開始された瞬間、これまでとは全く異なる感覚が二人を襲った。
メルナの身体を通り、大樹の膨大で荒れ狂う魔力が流れ込んでくる。
本来ならば、その強烈な魔力圧にメルナは苦痛を覚え、濾過を担うハーヴィは自身の器に凄まじい負荷がかかるはずだった。
しかし、大樹から流れ込んできた濃密な魔力がメルナの身体を通り抜ける寸前。
彼女の腹部――新しい命が宿る場所へと、魔力が吸い込まれるようにして流れの向きを変えたのだ。
ハーヴィは驚愕に息を呑んだ。
彼のもとへ流れてくる魔力は、驚くほど純化され、穏やかなものになっていた。
お腹の中の赤ん坊が、大樹の荒々しいエネルギーを自らの糧として吸収してしまっているのだ。
その恩恵は劇的なものだった。
これまでの調律において、膨大な魔力を濾過する役割を担っていたハーヴィは、儀式のたびに激しい吐き気と目眩――いわゆる魔力酔いに苦しめられてきた。
しかし今回は、その魔力酔いが全く起こらなかったのだ。
赤ん坊が余剰な魔力を食べてくれたおかげで、ハーヴィの身体への負担は皆無に等しかった。
儀式は過去最高にスムーズに、何の苦痛も伴わずに完了へと向かっていった。
大樹の根は穏やかな輝きを取り戻し、王都の魔力網が清浄なものへと置き換わっていく。
だがその静寂の中で――ハーヴィは見てしまった。
儀式の余韻で発光するメルナの横顔。
その朱色の瞳に、不吉な黒い円がくっきりと浮かび上がっているのを。
「終わりましたね、ハーヴィ様」
接続を解除したメルナは、憑き物が落ちたような顔で微笑んだ。
しかし、その瞳にはかつてないほどの激しい疲労の色が宿っていた。
「メルナ、大丈夫か?」
「はい。でもなんだか、すごく喉が渇いて……お腹が空いてしまいました……」
メルナはそのまま糸が切れたようにハーヴィの腕の中へと崩れ落ち、深い眠りへと落ちていった。
ハーヴィは彼女を抱きかかえ、静まり返った地下祭壇を見回した。
(この子は――ただのアリストンの血を引き継ぐ子ではないのかもしれない)
主寝室にメルナを寝かせ、ハーヴィは窓辺に立ち、夜の帳が下りた王都の街並みを静かに見下ろした。
お腹の中に宿った命は、この国を救う光か、それとも破滅への導火線か。
ハーヴィは、自らの内に芽生えた拭いきれない予感を、愛おしさという名の鎖で固く縛り付けた。
彼はアリストンの当主として、そして一人の夫として、この家族を守り抜くことだけを静かに誓ったのだった。




