28 不器用な青リンゴ
得体の知れない倦怠感と吐き気に襲われた翌日。
メルナの体調は、一晩ぐっすりと眠ったことで嘘のように回復していた。
重かった身体も随分と楽になり、あの奇妙な頭の霧も晴れている。
ただ、胃の奥にほんの少しだけスッキリしない感覚が残っているだけだった。
「……ハーヴィ様。私、もう大丈夫ですから。王城のお仕事に行ってください」
「駄目だ。君の顔色が完全に元に戻るまで、僕は絶対にここを動かない」
アリストン公爵家本館、あたたかな春の陽光がたっぷりと差し込むサンルームにて。
風通しの良い寝椅子に横たわるメルナは、困ったように――けれど、どこか嬉しそうに苦笑いを浮かべた。
メルナのすぐ隣には、本来なら王城にあるはずの執務デスクが無理やり運び込まれている。
ハーヴィは分厚い書類の束に目を通しながらも、その視線は数分おきに必ずメルナへと向けられていた。
「寒くないかい? 毛布をもう一枚持ってこさせようか」
「大丈夫です。ぽかぽかして気持ちいいくらいです」
「喉は渇いていないかい? 温かいお湯を飲んだ方がいい」
「さっきいただいたばかりですよ。もう、ハーヴィ様ったら心配性すぎます」
メルナがくすくすと笑うと、ハーヴィは難しい顔をして書類にサインを書き込みながら、大きな溜め息を吐いた。
「当然だろう。昨日、突然君が倒れそうになった時……僕の心臓がどれほど冷たく縮み上がったか、君にはわからないんだ」
ペンを置き、ハーヴィは寝椅子の傍らへ膝をついた。
彼の大きな手が、メルナの頬をそっと包み込む。
その灰色の瞳には、隠しきれないほどの深い愛情と、彼女を失うことへの微かな恐怖が入り混じっていた。
「君が元気で笑っていてくれないと、僕の日常はすべて色褪せてしまう……だから、今日くらいは僕の過保護に付き合ってくれ」
甘く、切実な声で囁かれ、メルナの胸の奥がきゅっと締め付けられた。
自分をここまで大切に想ってくれる人がいる。
その事実だけで、昨日感じていた得体の知れない不安や違和感など、春の陽だまりの中で溶けて消えてしまうように思えた。
「はい……ありがとうございます、ハーヴィ様」
メルナが彼の手に自身の小さな手を重ねて微笑んだ――その時だった。
きゅるるる……。
静かなサンルームに、ひどく可愛らしい音が響き渡った。
それは、メルナのお腹の虫が鳴いた音だった。
昨日から気分の悪さのせいで、まともな食事を摂っていなかったのだから当然といえば当然である。
「あっ……えっと、これは……」
顔を真っ赤にしてお腹を押さえるメルナを見て、ハーヴィは一瞬きょとんとした後、ホッとしたように目元を緩めて低く笑い声を上げた。
「お腹が空いたんだね。良かった、少し食欲が戻ってきたようだ」
「お、お恥ずかしいです……」
「何も恥ずかしいことなんてないさ。さあ、何が食べたい? 君が望むものなら、王都中のどんな贅沢なものでも今すぐ用意させよう。最高級の牛肉のステーキか? それとも、甘いケーキがいいかい?」
ハーヴィが立ち上がり、嬉々として提案する。
しかし、メルナはその言葉を聞いて、少しだけ眉を下げた。
普段なら大喜びで頷くはずのメニューだが、お肉の脂っこさやケーキの強い甘みを想像しただけで、胃の奥が再びムカムカと波打つような気がしたのだ。
「あの……お肉や甘いものは、今はちょっと喉を通りそうになくて……」
「そうか。では、消化に良い温かいスープにするかい?」
「えっと……なんだか、もっとさっぱりしたものが食べたい気分で……少し酸味のある、青リンゴなんて、ありますか?」
メルナが控えめにリクエストすると、ハーヴィはすぐにジェイミーを呼び寄せ、瑞々しい青リンゴを用意するよう命じた。
数分後、銀のトレイに乗せられた立派な青リンゴと、小さな果物ナイフが運ばれてきた。
ジェイミーが「私が剥きましょうか」と申し出るのを、ハーヴィは手で制した。
「いや、僕がやろう」
そう言って、ハーヴィは果物ナイフを手に取った。
その瞬間から、彼の顔つきがまるで強大な敵と対峙するかのような、極めて真剣なものへと変わった。
魔法の構成式を瞬時に解体し、無効化する魔導師殺しの異名を持つ公爵閣下。
その明晰な頭脳と手先の器用さは国中が認めるものだが――いかんせん、彼には果物の皮を剥くという日常生活の経験が圧倒的に不足していた。
ハーヴィは青リンゴを片手に持ち、ナイフの刃を慎重に当てる。
「……ふむ。刃の角度と、皮の厚みの抵抗値を計算して……」
「あの、ハーヴィ様? そんなに眉間に皺を寄せなくても……」
メルナが思わず声をかけるほど、彼の表情は険しい。
スッ、スッ……と、少しぎこちない手つきで皮が剥かれていく。
途中、皮が途切れてしまって彼が悔しそうに舌打ちを漏らすたびに、メルナとジェイミーは顔を見合わせて必死に笑いを堪えていた。
いつもは完璧な公爵様が、愛する妻のために不器用に青リンゴと格闘している。
その姿がたまらなく愛おしかったのだ。
やがて、少しだけ形は歪ながらも、丁寧に一口サイズに切り分けられた青リンゴが小皿に並べられた。
「……待たせたね。さあ、口を開けて」
ハーヴィが銀のフォークで一片を刺し、メルナの口元へと運ぶ。
メルナは少し恥ずかしそうにしながらも、ぱくりとそれを口に含んだ。
「んっ……!」
シャキッとした心地よい歯ごたえと共に、爽やかな酸味とすっきりとした甘みが口いっぱいに広がる。
その瑞々しさが、ムカムカとしていた胃の不快感を綺麗に洗い流してくれた。
「……美味しいです! すごく、さっぱりして美味しい!」
「そうか。それは良かった」
メルナがぱぁっと顔を輝かせたのを見て、ハーヴィは心底安堵したように息を吐き、彼女の淡い青色の髪を優しく撫でた。
「もっと食べるかい?」
「はい、いただきます。ハーヴィ様が剥いてくれたから、特別に美味しいです」
「ふふっ……君にそう言ってもらえるなら、これから毎日でもリンゴの皮剥きの特訓をしよう」
二人の間に流れる、甘く穏やかな空気。
ハーヴィがフォークで果物を運び、メルナが美味しそうにそれを受け取る。
そんなほのぼのとした光景を、部屋の隅に控えていたジェイミーは、ひどく真剣な眼差しで見つめていた。
◇
「――旦那様。王城の騎士団長より、急ぎの決済が必要な書類が届いております」
サンルームの扉が開き、執事のオリバーが申し訳なさそうに入室してきた。
「今手が離せないと言っただろう」
「申し訳ございません。しかし、早急にご指示を仰ぎたいとのことで、使者が玄関で待機しております」
「……やれやれ。メルナ、少しだけ外してくるよ。すぐに戻るから、休んでいなさい」
「はい、いってらっしゃいませ。お仕事、頑張ってくださいね」
ハーヴィが名残惜しそうにサンルームを出ていき、部屋にはメルナとジェイミーの二人だけが残された。
「奥様、温かいハーブティーをお持ちしました。胃に優しいカモミールでございます」
ジェイミーがティーカップをサイドテーブルに置きながら、メルナの顔色をそっと窺う。
「ありがとう、ジェイミーさん……不思議ね、昨日はあんなに気持ち悪かったのに、あの酸っぱい青リンゴを食べたら、すごくスッキリしたわ」
「ええ。とても美味しそうに召し上がっておいででしたね」
ジェイミーの言葉は、いつもより少しだけ慎重で――どこか探るような響きを帯びていた。
長年、多くの貴族の女性たちに仕え、人生の機微を見てきたベテランの侍女長。
彼女の頭の中で、ここ数日のメルナの些細な変化が、点と点となって繋がり始めていたのだ。
昨日の朝、大好きなハチミツの甘い匂いを嗅いだ瞬間に襲われた強烈な吐き気。
十時間以上眠っても抜けないという、異常なほどの強い眠気と倦怠感。
そして今、お肉や甘いものを避け、酸味のある果物をひどく美味しく感じているという味覚の変化。
さらに、近くで見つめているからこそわかる、メルナの肌の柔らかな艶や、いつもより少しだけ高くなっているように感じる体温。
(これは、まさか……)
ジェイミーはハーブティーのポットを置いたまま、はっとして両手で口元を覆った。
その瞳が、驚きと、信じられないほどの歓喜に見開かれている。
「ジェイミーさん……? どうしたの、どこか具合でも悪いの?」
メルナが不思議そうに小首を傾げると、ジェイミーは深呼吸を一つして、メルナの寝椅子の傍らに静かに膝をついた。
「……メルナ様。少し、個人的なことをお伺いしてもよろしいでしょうか」
「えっ? ええ、構わないけれど……」
「その……奥様の月のものは、今月はもういらっしゃいましたでしょうか?」
思いがけない問いかけに、メルナは瞬きを繰り返した。
月のもの。
女性特有の、月に一度の体調の変化。
結婚式の準備や新婚旅行、そして何よりハーヴィとの甘く目まぐるしい日々に気を取られ、メルナは自分の身体のリズムについてすっかり意識から抜け落ちていた。
「えっと……そういえば、ずっときていなくて。最後にきたのは、確か式の準備が本格的になる前だから……随分と遅れているみたい」
メルナが指折り数えながら答えた、その瞬間。
ジェイミーの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「ジェイミーさん!? どうして泣いているの!?」
「ああ……大樹様、神様……っ。メルナ様、すぐにお屋敷の主治医を呼びましょう。すぐに診察の準備を整えさせます!」
ジェイミーはハンカチで涙を拭いながらも、その顔にはこれ以上ないほどの満面の笑みが浮かんでいた。
彼女はメルナの小さな手を両手で包み込み、祈るように囁いた。
「お医者様の診断を仰ぐまでは断言できませんが……もしかすると……もしかすると、奥様のお腹の中に、新しく尊い命が宿られているのかもしれません」
――新しい、命。
その言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
メルナは大きく目を見開き、自らのまだ平らなお腹へと、震える手をそっと当てた。
「私が……お母さんに、なる……?」
まだ何の確証もない。
けれど、自分の中に芽生えたかもしれない小さな奇跡の予感に、メルナの朱色の瞳からもじんわりと温かい涙が滲み出していた。
春の柔らかな日差しに包まれたサンルームで、二人の人生を大きく変える希望の種が力強く息吹き始めていた。




