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魔力を持ちすぎた化け物少女は、空っぽの無能公爵に嫁ぐ 〜触れても壊れないただ一人の旦那様に、なぜか底抜けに溺愛されています〜  作者: 白月つむぎ


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27 突然の体調不良

 南の離宮での新婚旅行から王都へ帰還して、数日が過ぎた頃。


 アリストン公爵家本館の主寝室には、うららかな春の陽光がたっぷりと差し込んでいた。

 ふかふかの天蓋付きベッドの中で、メルナはひどい倦怠感と共に重い目蓋を開けた。


 昨夜はいつも通り、ハーヴィのあたたかい腕の中で眠りについたはずだった。

 睡眠時間はたっぷりと取れている。

 それなのに、体はまるで冷たい水底に沈められた鉛のように重く、指先を動かすことすら億劫に感じられた。


 さらに奇妙なのは、頭の中に立ち込める深い霧のような感覚だった。

 ぐっすりと眠ったはずなのに、なぜか夜の闇の中をあてもなく歩き回り、酷く疲弊したような得体の知れない空虚感が胸の奥にこびりついている。

 思い出そうと意識を向けても、思考はぬかるみに足を取られたように空回りするだけで、何も掴むことはできない。


「……おはよう、メルナ。まだ眠いかい?」


 頭上から降ってきた優しく落ち着いた声に、メルナはゆっくりと視線を動かした。

 すでに身支度を整え、隙のない洗練された佇まいのハーヴィがベッドの縁に腰を下ろしてこちらを見下ろしていた。


「おはようございます、ハーヴィ様……ごめんなさい、私、なんだか体がうまく動かなくて」


「謝ることはないよ。長旅の疲れが、今になって出たのかもしれない。顔色が少し悪いけれど、熱はなさそうだ」


 ハーヴィの大きな手がメルナの額に触れ、その心地よい体温が少しだけ不快感を和らげてくれる。


 メルナは彼に支えられるようにしてゆっくりと上体を起こし、身支度を手伝ってくれるジェイミーの元へと向かった。


 ◇


 朝のダイニングルームには、いつものように食欲をそそる香りが漂っていた。


 テーブルには、色鮮やかなサラダと、メルナが大好きな、ハチミツをたっぷりと垂らした焼きたてのトースト。

 そして、あたたかいミルクが用意されている。


「さあ、奥様。春の果実も添えておりますから、たくさん召し上がってくださいませ」


 ジェイミーが微笑みながら椅子を引いてくれる。

 メルナは「ありがとうございます」と微笑み返し、席についてハチミツのトーストへと手を伸ばした。


 しかし、その甘く濃厚な香りが鼻先を掠めた瞬間だった。


「……っ」


 突然、胃の底からせり上がってくるような強烈な吐き気に襲われ、メルナは咄嗟に口元を両手で覆った。


 今まで大好きだったはずの甘い匂いが、今はひどく脂っこく、耐え難い異臭のように感じられる。

 視界がぐらりと揺れ、背筋に冷たい汗が伝うのがわかった。


「メルナ!?」


 異変に気づいたハーヴィがすぐさま椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、メルナの背中をさすった。


「どうした、どこか痛むのかい?」


「奥様! お顔が真っ青でございます、すぐにお水をお持ちします!」


 ジェイミーが慌てて厨房へと駆け出す。

 メルナは荒い息を吐きながら、首を横に振った。


「ご、ごめんなさい……っ。なんだか急に、気持ちが悪くなってしまって……春先で、少し胃が疲れているだけかもしれません」


 気丈に振る舞おうとするものの、テーブルの上の食事を見るだけで再び吐き気が込み上げてくる。

 ハーヴィはメルナの背中を優しく撫で続けながら、その灰色の瞳に深い憂いの色を浮かべた。


「無理をしなくていい。食事は下げさせよう。君の体調が優れないのなら、今日の王城での会議は欠席する。僕が一日中、君のそばについているから」


「そんな、駄目です! ハーヴィ様の大切なお仕事を、私のわがままで休ませるわけには……」


「君の健康以上に大切な仕事など、この世に存在しないよ」


 有無を言わさぬどこまでも甘く過保護な言葉に、メルナはそれ以上反論することができず、ただ申し訳なさに俯くことしかできなかった。


 ◇


 結局、ハーヴィは王城への出仕を取りやめ、屋敷の執務室で急ぎの書類仕事だけを片付けることになった。


 メルナは少し落ち着きを取り戻し、ソファに座ってあたたかい白湯を飲みながら、彼の仕事が終わるのを静かに待っていた。

 そこへ、控えめなノックの音と共に、護衛騎士のランスロットが執務室へと入ってきた。


「旦那様。王城へ急ぎの報告書を届けてまいりました。それと、耳に入れておくべき奇妙な噂がございましたので、ご報告を」


「なんだ」


 ハーヴィがペンを動かす手を止めずに応じる。

 ランスロットはソファで休んでいるメルナの存在を気にかけ、少しだけ声を潜めた。


「昨夜、王立魔導院の裏手の森で、またしても不審死の犠牲者が出たようです。遺体は頸動脈を深く抉られており……世間では、冬眠明けの魔獣ズォルガが王都に迷い込んだのではないかと騒がれております」


「またか……魔導院の周辺で、これで三件目だな」


 ハーヴィの書類をめくる手がピタリと止まる。


「ええ。しかも犠牲者はすべて、魔導院に所属する魔力の高い研究員ばかり。王都の厳重な結界をすり抜けて魔獣が侵入したとは考えにくく、騎士団も対応に苦慮しているようです」


 二人の会話が、静かな執務室に響く。

 それを耳にした瞬間、メルナの身体を奇妙な感覚が駆け巡った。


 凄惨な事件の話を聞いて、恐ろしいと感じるはずなのに――なぜか喉の奥がカラカラに渇き、ひどく甘美な匂いを思い出してしまったかのような、言いようのない空腹感が胃の腑を締め付けたのだ。


(……え? なに、今の……)


 メルナは自らの胸元をぎゅっと掴んだ。

 血生臭い話を聞いて、気分が悪くなっただけだ。

 そう自分に言い聞かせても、頭の奥底で鳴り響く警鐘のような疼きは止まらない。


 そのひどい目眩と混乱に耐えきれず、メルナは小さく喘ぎ声を漏らしてソファに崩れ落ちそうになった。


「メルナ!」


 いち早く異変を察知したハーヴィが執務机を飛び越えるような勢いで駆け寄り、メルナの身体を抱き留めた。


「報告は後だ、ランスロット。下がれ」


「はっ!」


 ランスロットが即座に退室すると、ハーヴィはメルナを軽々と抱き上げ、そのまま主寝室へと向かった。


 ◇


「ごめんなさい、ハーヴィ様……怖いお話を聞いたら、急に目の前が回ってしまって……」


 寝室のベッドに横たえられ、メルナは弱々しい声で謝罪した。

 ハーヴィは無言のまま、メルナの首元までしっかりと毛布を掛け、その冷たくなった手を両手で包み込んだ。


「謝るのは僕の方だ。君の体調が悪い時に、配慮に欠ける話をしてしまった……もう何も考えず、ゆっくり眠るといい」


 ハーヴィの手から伝わる規則正しい体温と、彼の落ち着いた声。

 それに触れているだけで、先ほどまでメルナの内で暴れ回っていた得体の知れない疼きが嘘のように静まっていく。


 強烈な睡魔が波のように押し寄せ、メルナの意識は急速に深く暗い底へと沈んでいった。


 メルナの呼吸が完全に寝息へと変わったことを確認し、ハーヴィは彼女の華奢な手を包み込んでいた自らの手を、ゆっくりと離した。

 灰色の瞳が、メルナの無防備な寝顔からシーツの上に投げ出された彼女の白い腕へと向けられる。


 寝間着の袖から覗く、その滑らかな前腕の裏側。

 そこには、昨日の夜までは確実になかったはずの――何かが強く擦れたような、細く赤い引っ掻き傷が微かに残っていた。


(……どこで、こんな傷を?)


 ハーヴィの整った眉間が、微かに険しく寄せられる。

 昨夜、彼女は自分の腕の中で眠りについた。

 そして朝、目覚めた時にはひどく消耗していた。

 この傷は、屋敷の中で何かにぶつけてできるような類のものではない。

 誰かと争ったような、生々しい痕跡だ。


 王立魔導院で相次ぐ、高魔力保持者の不審死。

 頸動脈を抉り、血液を奪うという異常な手口。

 そして、妻の不可解な疲労感と、突然の傷。


 ハーヴィの明晰すぎる頭脳が、幾つかの散らばった事実を拾い上げ、繋ぎ合わせようとしていた。

 しかし彼は、思考が導き出しそうになる残酷な可能性を、自らの意志で強引に断ち切るように目を伏せた。


「……ゆっくり休むといい、僕の可愛いメルナ。君を脅かすものが何であれ、僕がすべて遠ざけてみせるから」


 ハーヴィは静かに呟き、メルナの腕に残ったその小さな傷跡へそっと唇を落とした。


 春の暖かな日差しの裏側で、彼らの日常に黒い影が忍び寄り始めていた。

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