26 ランスロットの告白
南の離宮で過ごす、最終日の朝。
数日間にわたる甘く穏やかな新婚旅行を終え、一行は王都へ帰還するための出発準備に追われていた。
荷物の積み込みや離宮の管理者への引き継ぎで、ハーヴィやオリバーたちが慌ただしく動いている間。
すっかりお出かけ用のドレスに着替えたメルナは、一人離宮の広いテラスに出て名残惜しそうに広大な海を見渡していた。
朝の光を浴びた水面は眩しいほどに輝き、静かに打ち寄せる波の姿は何度見ても飽きることがない。
「……おはようございます、奥様。朝の冷え込みはございませんか」
背後から、低く落ち着いた声がかけられた。
振り返ると、そこにはよく磨かれた銀色の鎧を身に纏う、アリストン公爵家が誇る護衛騎士――ランスロットの姿があった。
彼はメルナから数歩離れた定位置で、彫りの深い端正な顔を引き締め、周囲への警戒を怠らずに直立している。
「おはようございます、ランスロットさん。ええ、風が心地いいくらいです。ランスロットさんこそ、この数日間、ずっと私たちの護衛をしてくださってお疲れではありませんか」
「とんでもございません。旦那様と奥様の安全をお守りすることこそが、私の唯一の使命であり、誇りでございます」
ランスロットは深く頭を下げた。
その隙のない完璧な騎士としての振る舞いを見つめながら、メルナはふと、初めて彼と出会った日のことを思い返していた。
あれはまだ、自分が辺境の森で欠けた木椀で緑色の貧しい粥をすすっていた頃のこと。
オリバーと共に森へやってきたランスロットは、メルナの規格外の魔力に当てられ、額に脂汗を滲ませながら血の気が引くほど強く剣の柄を握りしめていた。
呼吸は浅く、視線が合うだけで肩を大きく跳ねさせるほど彼はメルナという存在そのものに本能的な恐怖を抱いていたのだ。
(あの時は……本当に、怯えさせてしまったんだよね)
街の人間たちから向けられていた、化け物を見るような目。
ランスロットのあの日の反応も、当然のものだったとメルナは理解している。
自分はそれほどまでに、異質で危険な存在だったのだから。
「……あの、ランスロットさん」
「はい、何なりと」
「道中、恐ろしい魔獣から私たちを守ってくださって本当にありがとうございました。それに、野営の時も私たちが安心して眠れるようにずっと起きて見張っていてくれましたよね。ランスロットさんがいてくれて、私、すごく心強かったです」
メルナが心からの感謝を込めて微笑みかけると、ランスロットの身体がまるで雷に打たれたように硬直した。
彼は言葉を探すように何度か口を開きかけ、やがて、その場に片膝をついて深々と頭を垂れたのだ。
「ラ、ランスロットさん!?」
「……奥様。私から、お伝えしなければならないことがございます」
地面に視線を落としたまま、ランスロットの絞り出すような声がテラスに響く。
その声はいつもの威厳に満ちた騎士のものではなく、どこか痛みを堪えるような、震えを帯びたものだった。
「私は……騎士として、奥様に許しを請わねばなりません。あの日、辺境の森で初めて奥様とお会いした時。私は、奥様の強大すぎる魔力に当てられ、無様にも恐怖に呑まれておりました」
それは、メルナが先ほど思い出していた記憶と全く同じ光景だった。
「魔法の訓練を積んだ騎士ほど、魔力の波長には敏感になります。奥様の内に秘められた力は、私にとって、今にも街を焼き尽くす災厄の竜のように感じられました。私は愚かにも、噂通りの化け物を王都へ連れ帰るおつもりなのかと……心の中で、奥様をひどく恐れ、拒絶していたのです」
ランスロットの握りしめた拳が、膝の上で微かに震えている。
彼は、ずっとその罪悪感に苛まれていたのだ。
メルナに対して、出会った当初、ひどい偏見と恐怖を抱いてしまった己の未熟さに。
「ですが公爵家での日々の中で、私は己の目の曇りを恥じました。奥様は誰よりも旦那様を案じ、使用人である我々にも分け隔てなく優しい言葉をかけてくださる。野営の夜には、ご自身の特技で美味しい野草の料理まで振る舞ってくださった。こんなにも温かく、愛らしいお方のことを、私は魔力という一面だけで恐れていたのです」
ランスロットがゆっくりと顔を上げる。
メルナは驚きに目を見開いた。
厳格で隙のないあの護衛騎士の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていたからだ。
「結婚式で、純白のドレスを身に纏った奥様の姿を拝見した時……私は、兜の下で号泣しておりました。旦那様の隣で微笑む奥様は、世界で一番美しく、慈愛に満ちた本物の女神でございました。奥様。過去の無礼を、どうかお許しください。私はアリストン家の騎士として、お二人の盾となれることを今では心から誇りに思っております」
涙で顔をくしゃくしゃにしながら、必死に言葉を紡ぐ大男の姿。
いつもはハーヴィの背後で淡々と護衛を務めている彼が、これほどまでに涙もろく、そして熱く誠実な心を持っていたことに、メルナは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……頭を上げてください、ランスロットさん」
メルナは歩み寄り、片膝をつく彼と同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。
「謝ることなんて、何もありません。だって、私の魔力が怖いのは当たり前です。私自身でさえ、時々自分の力が怖くなることがあるんですから」
メルナは淡い青色の髪を揺らし、春の陽だまりのように穏やかに微笑んだ。
「でも、ランスロットさんは逃げずに、私を守ると誓ってくれました。野営の夜、私が作った少し苦い野草のソテーを、美味しいと言ってたくさん食べてくれました。私は、それが何よりも嬉しかったんです。ランスロットさんはもう、私を化け物だなんて思っていないってちゃんと伝わっていましたから」
「奥様……」
「だから、どうか泣かないでください。これからも、ハーヴィ様のこと、そして私のこと……よろしくお願いしますね」
その優しい言葉に、ランスロットはさらに涙腺を崩壊させ、両手で顔を覆って肩を震わせた。
屈強な銀の騎士がまるで子供のように声を殺して泣きじゃくる姿は、少し可笑しくて、けれどどうしようもなく愛おしい、彼という人間の裏表のない真実だった。
「……何をしているんだ、ランスロット」
そこへ、出発の準備を終えたハーヴィが呆れたような声と共にテラスに姿を現した。
足元にしゃがみ込むメルナと、顔を覆って泣いている護衛騎士という謎の構図に、彼もさすがに目を丸くしている。
「あ、ハーヴィ様! 違うんです、これはその……」
「旦那様!」
メルナが慌てて弁解しようとするのを遮り、ランスロットが勢いよく立ち上がった。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったが、瞳の奥には揺るぎない決意の炎が宿っていた。
「私、ランスロットは、命に代えても旦那様と奥様をお守りいたします! 例え相手が魔獣であろうと、運命であろうと、この身を盾にして必ずや!」
「……ああ、わかっている。君の忠誠は常に疑っていないが……とりあえず、出発前に顔を洗ってきなさい。君のその顔を見た離宮の者たちが、僕が君をいじめたと勘違いしかねないからな」
ハーヴィがやれやれと肩をすくめると、メルナは堪えきれずにくすくすと笑い声を漏らした。
ランスロットは「はっ、ただちに!」と大きな声で返事をし、勢いよく駆け出していった。
彼の背中を見送りながら、ハーヴィが優しくメルナの腰に腕を回す。
「まったく、あいつは昔から情に厚くて涙もろいところがあるが……君の前であんな顔を見せるとは思わなかったよ。君の優しさが、あの堅物の心の鎧まで溶かしてしまったらしい」
「ふふっ。ランスロットさん、とっても素敵な騎士様ですね。私、アリストン家の人たちがもっと大好きになりました」
メルナが嬉しそうに見上げると、ハーヴィは彼女の額にそっと口づけを落とした。
「さあ、帰ろうか。僕たちの家へ」
◇
海を見下ろす離宮を出発した馬車は、数日間の旅路を経て、無事にゼネ・レア王都へと帰還した。
アリストン公爵家の広大な敷地に足を踏み入れると、そこには留守を守っていた使用人たちが総出で整列し、深いお辞儀と共に二人を出迎えてくれた。
「旦那様、奥様。お帰りなさいませ」
その温かく、敬意と親愛に満ちた声の重なり。
馬車から降りたメルナは、庭園に咲き誇る花々と、見慣れた重厚な本館の佇まいを見つめながら深く息を吸い込んだ。
南の海は息を呑むほど美しく、潮だまりの生き物も、星空の下の野営も、すべてが宝石のような思い出になった。
けれど、やはりこのお屋敷の空気を感じると、心の底から安心し、張り詰めていた糸がふわりと解けるような気がする。
隣を歩くハーヴィの大きな温もり。
後ろで鼻をすするランスロットや、優しく見守るジェイミーとオリバー。
彼らがいるこの場所こそが、自分にとっての本当の帰るべき場所なのだ。
(私、ここに帰ってこられてよかった)
メルナはハーヴィと腕を組みながら、満ち足りた笑顔で玄関の扉をくぐった。
甘く楽しかった新婚旅行が終わり、再び公爵家での穏やかな日常が始まろうとしている。
この時のメルナはまだ――自分の身体の奥深くでほんの小さな変化が静かに芽吹き始めていることに、気づいてはいなかった。




