25 輝く青の潮だまり
馬車の窓から吹き込んでくる風に、微かな潮の香りが混じり始めた頃。
南の領地にある、潮風に洗われた白壁の離宮が二人の目の前にその姿を現した。
小高い丘の上に建つ離宮の向こう側には、どこまでも果てしなく広がる青い海があった。
太陽の光を反射して宝石のように瞬く水面と、絶え間なく聞こえてくる穏やかな波の音。
大樹の緑と雪景色しか知らなかったメルナにとって、それはまるで絵本の中から飛び出してきたような息を呑むほど美しい光景だった。
「すごい……! これが、海……!」
馬車から降りたメルナはその圧倒的なスケールと美しさに目を輝かせ、吸い込まれるように海辺へと向かって駆け出しそうになった。
しかし、その前に侍女長のジェイミーが「お待ちくださいませ、奥様!」と立ちはだかる。
「長旅でお召し物が少し埃を被っております。海辺を歩くのにふさわしい、とびきり可愛らしいお出かけ着をご用意しておりますから、まずはお着替えを!」
ジェイミーの熱意に押され、メルナは離宮の立派な客室で素早く着替えを済ませた。
用意されていたのは、春のあたたかな海風によく似合う薄水色の軽やかなワンピースだった。
ふんわりとしたスカートの裾が波のように揺れ、強い日差しを遮るための愛らしい白いリボンが巻かれた麦わら帽子がちょこんと頭に乗せられている。
支度を終えてエントランスへ戻ると、そこで待っていたハーヴィがメルナの姿を見た瞬間にピタリと動きを止めた。
「……っ」
灰色の瞳が限界まで見開かれ、彼はただ無言のまま眩しいものを見るように目を細めた。
「あ、あの……ハーヴィ様? 変、でしょうか……」
あまりの反応のなさにメルナが不安になって尋ねると、ハーヴィはひどく熱を帯びた溜め息を一つ吐き出した。
「変なわけがない。可愛すぎて、今すぐ君を抱きしめて部屋に引き返したいくらいだ。この姿を、護衛や使用人たちに見せるのすら惜しいよ」
「も、もう。ハーヴィ様ったら……!」
顔を真っ赤にするメルナの手を取り、ハーヴィは優しく微笑んで海辺への石段を降りていった。
◇
白くサラサラとした砂浜を歩き、二人が向かったのは波が穏やかに打ち寄せる岩場の潮だまりだった。
岩と岩の間に海水が取り残されてできた、天然の小さなプール。
驚くほど透明な水の中には、今まで見たこともないような不思議な生き物たちがたくさん息づいていた。
「ハーヴィ様、見てください! あそこ、小さなカニさんが歩いています!」
「本当だ。ああ、こっちには星の形をした生き物がいるよ。ヒトデというらしい」
メルナはワンピースの裾が濡れるのも気にせず潮だまりの前にしゃがみ込み、無邪気な子供のようにはしゃいでいた。
小さな巻貝がちょこちょこと動くのを見て「ヤドカリさんだ!」と歓声を上げ、すばしっこい青い小魚の群れを目で追いかける。
そんな彼女の弾けるような笑顔を見下ろしながら、ハーヴィの胸の奥は波のように押し寄せる限界突破の愛おしさで満たされていた。
彼はたまらずメルナの背後にしゃがみ込むと、その細い腰に腕を回し背中からすっぽりと彼女を包み込むように抱きしめた。
「ひゃっ!? ハ、ハーヴィ様?」
「……ヤドカリや小魚も面白いけれど。僕にとっては、カニよりヒトデより、はしゃいでいる君の姿が世界で一番可愛くて、目が離せないんだ」
麦わら帽子の下、メルナの首筋に甘い口づけを落としながら囁くハーヴィ。
背中から伝わってくる彼の大きな体温と鼓膜をくすぐる低く甘い声に、メルナは潮だまりの生き物たちからすっかり意識を奪われ、顔を赤くして彼の腕の中に収まることしかできなかった。
◇
日が沈み、海が群青色に染まる頃。
離宮の海を見下ろす広いテラスには純白のテーブルクロスが掛けられ、豪華な夕食の席が用意されていた。
「わあ……! すごくいい匂いがします!」
テーブルに並べられたのは、地元の漁師がその日獲ったばかりの新鮮な海の幸をふんだんに使った絶品料理の数々だった。
香ばしいガーリックバターでこんがりと焼き上げられた、身の引き締まった大きな海老。
王都では滅多にお目にかかれない、透明な白身魚のカルパッチョ。
そして、たくさんの貝の旨味がこれでもかと溶け込んだ濃厚でクリーミーなスープ。
メルナはスープを一口飲むなり、あまりの美味しさにふにゃりと頬を緩ませた。
「美味しい……! 海の食べ物って、こんなに深い味がするんですね。美味しいものを食べると、なんだかとっても幸せな気持ちになります」
「君が喜んでくれて何よりだよ。ほら、この海老も美味しいよ……あーん」
ハーヴィがフォークで大きく切り分けた海老の身を刺し、メルナの口元へと運ぶ。
メルナは恥ずかしそうにしながらも、ぱくりとその身を口に含んだ。
ぷりぷりとした食感と、ガーリックバターの風味が口いっぱいに広がる。
「んんっ……! すっごく美味しいです!」
「ふふっ。君がたくさん食べてくれる姿を見るのが、僕の一番の幸せだよ」
穏やかな波の音を聞きながら、二人の間には王都の喧騒を忘れるような甘くゆったりとした時間が流れていった。
◇
夜も更け、空に星が瞬く頃。
二人は私室に戻り、海風が心地よく吹き抜ける広いバルコニーに並んで立っていた。
闇に溶けた海からは、絶え間なく寄せては返す静かな波の音だけが聞こえてくる。
「……今日は一日、本当に楽しかったです。海も、潮だまりも、ご飯も……全部がキラキラしていました」
バルコニーの手すりに寄りかかりながらメルナが幸せそうに目を細めると、背後からハーヴィの大きな腕が伸びてきて彼女の身体を優しく抱きすくめた。
「海は果てしなく広いけれど……僕の腕の中には、もう世界のすべてがあるよ」
ハーヴィの熱い吐息が、メルナの耳元をくすぐる。
そのまま彼女の淡い青色の髪をかき分け、うなじへと熱い唇が押し当てられた。
続いて首筋から肩へと、ゆっくりと確かめるように落ちていく口づけの連なりにメルナの身体が小さく震える。
「ハーヴィ様……」
メルナが振り返ると、そこには普段の理知的な姿からは想像もつかないほど深い熱情を宿した灰色の瞳があった。
新婚旅行という非日常の解放感。
そして、昼間からずっと抑え込んでいた彼女へのあふれんばかりの愛おしさ。
それらが混ざり合い今夜のハーヴィはいつもよりも少しだけ大胆で、どうしようもなく情熱的だった。
「メルナ……君が愛おしくてたまらない。君のすべてを、今夜は余すところなく僕の熱で満たしたいんだ」
夜風に紛れるような掠れた囁きと共に、甘く深い口づけが交わされる。
唇が離れる隙間もないほどに、何度も、何度も。
波の音が、二人の乱れた吐息を優しく隠してくれているようだった。
「……っ」
ハーヴィの腕に抱き上げられ、メルナはバルコニーから仄暗い寝室のベッドへと誘われていく。
ふかふかのシーツの上に下ろされると、ハーヴィの熱い身体が上から覆い被さってきた。
「……メルナ」
「はい……」
「春の結婚式が終わったらもう一つ大切なことを考えたいと、以前言ったのを覚えているかい?」
ハーヴィの手がメルナの衣服をゆっくりと解きながら、彼女のお腹のあたりをひどく慈しむように撫でた。
その優しい掌の熱と彼の言葉の意味に気づき、メルナはカッと顔を赤くして小さく頷いた。
「僕と君の未来を……僕たちの血を引く新しい家族という証を、君の中に深く刻みたい……いいかい?」
「……はいっ。私……ハーヴィ様と、あたたかい家族になりたいです……っ」
メルナが潤んだ朱色の瞳で見つめ返し、自ら彼の首元に腕を回すと、ハーヴィは彼女のすべてを愛でるように深く抱き寄せた。
寄せては返す、静かな夜の波音。
それはまるで新しい命の鼓動を予感させるように、どこまでも優しく夜の帳の奥深くへと響き続けていた。




