24 星降る夜の野営
雪解け水が大地を潤し、王都の至る所で色鮮やかな花々が咲き誇る本格的な春。
アリストン公爵家の紋章が刻まれた立派な馬車が、南の離宮へ向けて穏やかな街道を進んでいた。
春の柔らかな陽光が、開け放たれた馬車の小窓から心地よく入り込んでくる。
上質な布地が張られた座席に隣り合って座るハーヴィとメルナは、初めての新婚旅行という特別な時間にどこか浮き立つような気分を隠せずにいた。
「春の風がとっても気持ちいいですね、ハーヴィ様」
「ああ。王都を離れると、空気の匂いも少し違って感じるな」
窓の外の景色を珍しそうに眺めるメルナの淡い青色の髪が風に揺れる。
ハーヴィはそんな愛らしい妻の横顔を、ただひどく満足そうに灰色の瞳を細めて見つめていた。
前方を走る彼らの馬車を護衛するように、すぐ後ろにはもう一台の馬車が続いている。
そちらには、荷物と共に執事のオリバーや侍女長のジェイミーが乗っており、この先頭の馬車の御者台では、騎士のランスロットが手綱を握りながら鋭い視線で周囲を警戒してくれていた。
「海って、どんなところなんでしょう。本で読んだことはありますけれど、すごく大きくて、しょっぱいお水なんですよね」
「着いたらすぐにわかるさ。波の音も、潮の香りも、君が気に入ってくれるといいんだが」
ハーヴィがメルナの手を取り、その手の甲に優しく口づけを落とした――その時だった。
「旦那様、奥様! おつかまりください」
御者台から響いたランスロットの鋭い声と共に馬車が急停止し、車体が大きく揺れた。
メルナが体勢を崩しかけるのを、ハーヴィが咄嗟に腕を回して抱き留める。
「何事だ、ランスロット」
「街道の脇から、魔獣です! 冬眠明けのひどく腹を空かせた奴が、我々の馬車の魔力に引き寄せられたようで」
ランスロットの切羽詰まった報告に応えるように、鼓膜を震わせるような重低音の咆哮が周囲の木々を揺らした。
重い地響きを立てて街道に躍り出たのは、二階建ての家屋ほどもある巨大な熊の姿をした魔獣だった。
その全身は岩のように硬い毛皮で覆われ、凶悪な牙からは粘り気のある唾液が滴っている。
春の訪れと共に目覚めた獰猛な森の主――ズォルガと呼ばれる魔獣だ。
冬眠明けのズォルガは極度の飢餓状態にあり、目につくものすべてを喰らい尽くそうとする凶暴性を持っている。
「奥様たちには、指一本触れさせん!」
馬車を飛び降りたランスロットが、鈍色の剣を抜いて立ちはだかる。
金属が打ち合うような甲高い音が響き、ランスロットの剣撃が魔獣の分厚い毛皮を切り裂いた。
しかし、ズォルガは痛みに怯むどころか、さらに凶暴性を増して赤く濁った眼光を馬車へと向けた。
ズォルガが立ち上がり、その巨大な前足を天へと掲げる。
周囲の大気から、魔獣の足元へと急激に魔力が収束していく。
魔法生物であるズォルガの、土属性の魔法攻撃の予兆だった。
次の瞬間、ズォルガの足元の地面が爆発したように隆起し、無数の巨大な岩の槍が形成され凄まじい速度でハーヴィとメルナの乗る馬車へと向かって飛んできた。
直撃すれば、馬車ごと粉々に砕け散ってしまう。
メルナが思わず息を呑んで目を閉じそうになった。
「焦ることはない。ただの、魔力の力押しだ」
ハーヴィが馬車の扉を開け、身を乗り出した。
その横顔に、焦りの色は微塵もない。
彼は首元に巻かれたクラヴァットを留めているピンへと指先を這わせた。
微かな金属音が鳴る。
それはアリストン家が誇る技術の結晶であり、魔力を持たないハーヴィが生き抜くための特別な魔導具が起動した合図だった。
ハーヴィの瞳が飛来する岩の槍の魔法構成を瞬時に読み解き、最適解の干渉波を放つ。
馬車に直撃するかに見えた巨大な岩の槍たちは空中で静止したかと思うと、次の瞬間には音もなく無害な砂埃へと分解され春の風に乗って霧散してしまった。
己の必殺の魔法を完全に無効化され、ズォルガは信じられないというように動きを止めた。
その決定的な隙は百戦錬磨の護衛騎士にとって、魔獣に致命傷を与えるのに十分すぎる時間だった。
ランスロットの鋭い踏み込みと共に放たれた渾身の刃が、ズォルガの急所を正確に貫く。
巨大な熊の魔獣は声にならない悲鳴を上げ重い音を立ててその場に崩れ落ち、やがて動かなくなった。
土埃が収まる中、ハーヴィは何事もなかったかのようにピンから指を離し、乱れた服の袖を優雅に払い落とした。
その一連の動作のあまりにも無駄のない美しさと、圧倒的な頼もしさ。
馬車の中からその一部始終を見ていたメルナは恐怖も忘れ、ただ呆然と彼を見つめていた。
「怪我はないかい、メルナ」
振り返り、いつもの甘く優しい微笑みを向けてくるハーヴィ。
以前彼が語っていた魔導師殺しの冷徹男という異名。
それが決して大げさなものではなく、彼がどれほど強くて立派な人なのかをメルナは初めて目の当たりにしたのだ。
「はい……すごいです、今の。魔法が、一瞬で砂になっちゃって……」
「驚かせてしまったね。このピンから、魔法を構成する式そのものを瓦解させる特殊な波長を出したんだ。あとは計算さえ間違えなければ、どんな魔法も霧散させられる」
こともなげに言うハーヴィの姿に、メルナは胸の奥で鐘が鳴り響くような高鳴りを感じた。
彼女は両手を胸の前で握りしめて、潤んだ瞳で彼を見上げた。
「ハーヴィ様、かっこいいです……!」
その純度百パーセントの尊敬と愛に満ちた呟きに、今度はハーヴィの方が不意打ちを食らったように肩を揺らした。
彼は耳の先をほんのりと赤く染め、「君にそう言ってもらえるなら、この能力を磨いてきて正解だったよ」と、照れくさそうに視線を逸らした。
◇
「旦那様。幸い馬も我々も無傷ですが、先ほどの魔獣の魔法の余波で、馬車の車輪の軸が少し歪んでしまったようです」
討伐の事後処理を終えた後。
後ろの馬車から降りてきたオリバーが、冷静な声で報告した。
修理自体は可能なものの、完全に直すには数時間かかるという。
すでに日は傾きかけており、今から出発しても次の街の宿場に着く頃には深夜になってしまう。
「仕方ないな。今日はここで野営にしよう。メルナ、少し窮屈な思いをさせてしまうが……」
「とんでもないです。私、森で暮らしていたから、外で過ごすのは慣れっこですから」
メルナが元気よく答えると、背後で控えていたジェイミーとオリバーが奥様に野宿などさせられないとばかりに素早く動き出した。
ランスロットが手際よく周囲の安全を確保し、オリバーとジェイミーが荷馬車から取り出したのは――貴族が狩猟の際に使う、魔法で拡張された豪奢なテントだった。
あっという間に柔らかな絨毯が敷かれ、あたたかいベッドが設営される。
その様子を見ていたメルナは、ふと街道の脇、日当たりの良い斜面に群生している植物に目を留めた。
「あっ、つくしだ。それに、春の野草もたくさん生えてる」
辺境の森で自給自足の生活をしていたメルナにとって、春の野草は貴重で美味しい食材だった。
彼女は馬車から小さな籠を取り出すと、「私、少し食材を集めてきますね」と微笑み、手慣れた様子で新鮮なつくしや野草を摘み始めた。
やがて、ジェイミーが用意した香り高いビーフシチューと共に、メルナが下処理をしてバターで香ばしく炒めた特製の野草ソテーが食卓に並んだ。
「まあ……! 奥様、こんなに手際よくお料理をされるなんて」
「森にいた頃、春になるといつも作っていたんです。少しほろ苦いけれど、美味しいですよ」
ジェイミーが驚きと共に感嘆の声を上げ、ハーヴィも興味深そうにメルナの作った一皿を口に運んだ。
春の野草特有の爽やかな香りと、微かな苦味がバターのコクと絶妙に絡み合い、洗練された王都の料理とはまた違う力強くて優しい味わいが口いっぱいに広がる。
「……本当に美味しい。君は野草の知識まで豊富なのだな。僕の妻は、ますます非の打ち所がない」
ハーヴィが心底感心したように目を細めると、メルナは「そんなことありません」と照れくさそうに笑った。
有能な使用人たちの手際とメルナの特技のおかげで、予想外のトラブルはあっという間に楽しい時間へと変わっていた。
◇
すっかり日が落ち、空には数えきれないほどの満天の星が輝き始めた頃。
使用人たちはテントの奥に控え、ハーヴィとメルナは炎を上げる焚き火の前に用意された簡易ソファで寄り添っていた。
春とはいえ、夜の森はまだ少し肌寒い。
ハーヴィは、冬の間にメルナが編んでくれた深い赤色のマフラーを取り出すと、それを彼女の肩からすっぽりと包み込むように掛け、自分もそのマフラーの中に潜り込んで彼女の身体をぐっと抱き寄せた。
「あたたかいですね、ハーヴィ様」
「ああ。君の体温とこのマフラーがあれば、野営も悪くない」
一つの赤いマフラーを分け合いながら、二人は夜空を見上げた。
王都では見られない、零れ落ちそうなほどの星々が二人の頭上で静かに瞬いている。
「今日、すごく怖かったはずなのに。ハーヴィ様が守ってくれたから、今はちっとも怖くありません」
「君に指一本触れさせるものか。魔獣だろうが、どんな運命だろうが、君を脅かすものは僕がすべて打ち砕いてみせるよ」
ハーヴィの低く落ち着いた声が、薪が爆ぜる音に混じって耳元で響く。
彼がいれば、どんな未来が待っていても絶対に大丈夫だと思える。
「ありがとうございます。あの、海に着いたら、また一緒に星を見ましょうね」
「もちろんさ。波の音を聞きながら、一晩中だって君に寄り添っているよ」
ハーヴィはマフラーの中でメルナの手を強く握りしめ、その淡い青色の髪に優しく口づけを落とした。
トラブルから始まった新婚旅行の第一夜は、星降る夜空と焚き火のあたたかさの中で、これ以上ないほど甘くロマンチックに更けていくのだった。




