23 解かれる結び目
国中の貴族たちを招いた盛大な披露宴が終わり、夜の帳が王都を包み込む頃。
アリストン公爵家本館の主寝室には、昼間の華やかな喧騒が嘘のような静寂が満ちていた。
部屋には気を利かせたジェイミーが焚き染めてくれたのであろう、サンダルウッドの落ち着いた香りに、甘く官能的なジャスミンが混ざり合った香炉の煙が薄絹のようにゆらゆらと漂っている。
豪奢なシャンデリアの明かりは落とされ、間接照明と暖炉のオレンジ色の火だけが、室内に柔らかな陰影を作り出していた。
入浴を済ませ、肌触りの良い薄手のナイトウェアに着替えた二人は寝室の窓際にある小さな丸テーブルを挟んで向かい合っていた。
「今日は本当に、長い一日だったね。疲れていないかい、メルナ」
「はい、大丈夫です。なんだか、まだ夢の中にいるみたいで……」
テーブルの上には、披露宴で出された料理にほとんど手をつけられなかった二人のために特製の夜食が用意されていた。
大樹の白い花を模した可愛らしい砂糖菓子と、濃厚なハチミツがたっぷりとかかった焼きたてのタルトだ。
メルナは温かい紅茶を一口飲み、フォークで切り分けたタルトを口に運んだ。
サクッとした生地の食感と、ハチミツの深い甘さが心地よい疲労感の溜まった身体に染み渡っていく。
「ふふっ、美味しいです……それにしても、お父さんバージンロードを歩く時腕がすごく震えていました。私まで転んでしまわないか、少しヒヤヒヤしたんですよ」
メルナが嬉しそうに式の思い出を語ると、ハーヴィは灰色の瞳を優しく細めて微笑んだ。
「カミロ殿の緊張が伝わってきたよ。大切な一人娘を、僕のような男に託すのだから当然だ。でも、僕だって人のことは言えない。祭壇の前で君の姿を見た瞬間、頭の中が真っ白になりそうだったんだから」
「ハーヴィ様がですか? そんなふうには全く見えませんでした」
「必死に平静を装っていただけさ。世界一美しい花嫁を前にして、心臓が破裂しそうだった」
ハーヴィが甘い声で囁きながらテーブル越しに手を伸ばし、メルナの頬に触れた。
そのひんやりとしていたはずの長い指先が、今は驚くほど熱を持っていることにメルナは気づいた。
夜食の時間が終わり、二人掛けのふかふかとしたソファへと場所を移し隣り合って座る。
メルナの肩を抱き寄せるハーヴィの腕の力が、いつもより少しだけ強い。
そして、彼の呼吸が先ほどから微かに乱れている。
(ハーヴィ様……少し、震えてる……?)
あの隙のないハーヴィが、今、自分の隣で初めて恋を知った少年のようにわずかに肩を強張らせ、視線をどこか泳がせているのだ。
その理由に思い当たり、メルナの心臓も一気に早鐘を打ち始めた。
夫婦としてこれほど甘やかに過ごしてきた二人だったが――実のところ、二人はまだ口づけ以上のことをしたことがなかった。
ハーヴィはメルナを大切にするあまり、彼女が完全にアリストンの生活に慣れ心からの安らぎを得るまで決して無理強いをしないと決めていたからだ。
「……ハーヴィ様」
メルナは勇気を出して、自分の肩を抱く彼の大きな手に自身の小さな手を重ねた。
ドクン、ドクンと、互いの脈拍が重なり合うのがわかる。
「……メルナ」
ハーヴィが、掠れた声で彼女の名前を呼んだ。
見上げた彼の灰色の瞳には、もう理性の薄氷を踏み抜く寸前のどうしようもないほどの愛おしさが渦巻いていた。
「君が大切で、壊してしまいそうで……ずっと、触れるのが怖かった。君のペースを守りたかった。けれど……もう限界なんだ」
甘く吐露された本音。
その言葉を聞いて、メルナの胸の奥にあった僅かな不安は完全に消え去った。
目の前で自分を求めて余裕をなくし、震えているこの愛しい人をただ満たしてあげたかった。
メルナは真っ赤に染まった頬のまま、ハーヴィのシャツの胸元を両手できゅっと掴んだ。
そして潤んだ朱色の瞳で見上げ、はっきりと告げた。
「私、怖くなんて、ありません。お役目、教えてください……ハーヴィ様」
――その言葉が、最後の結び目を解いた。
「っ……」
ハーヴィの喉の奥から、低い呻きが漏れた。
次の瞬間、メルナの身体はふわりと宙に浮いていた。
ハーヴィが彼女をまるで壊れ物を扱うように抱き上げ、寝室の中央に鎮座する天蓋付きの広いベッドへと歩みを進めたのだ。
純白のシーツの上に、そっと下ろされる。
すぐに、ハーヴィの大きく熱い身体が上から覆い被さってきた。
彼の長い髪がサラリとメルナの頬を撫で、ジャスミンの香りがさらに濃く立ち込める。
「……君のすべてを、僕が甘く塗り替えてあげる」
誓いのような、ひどく独占欲に満ちた囁き。
直後、逃げ場のないほど深く、熱い口づけが降ってきた。
「ハーヴィ、様……」
息が足りなくなりメルナが甘い吐息を漏らすと、ハーヴィは一度唇を離し、今度は彼女の華奢な首筋へと優しく顔を埋めた。
あたたかな唇が触れるたびに、メルナの身体は小さく跳ねる。
恥ずかしさで両手で顔を覆おうとするが、その手はあっさりとハーヴィに捕まれ、シーツの上に縫い留められてしまった。
「隠さないで……君のすべてを、僕に見せて」
とろけるような灰色の瞳に見つめられ、メルナは抗うことをやめた。
触れられるたびに、口づけを落とされるたびに、メルナの内に眠っていた名状しがたい魔力さえもが彼のあたたかな空っぽの器へと吸い込まれ、極上の安心感と幸福へと変換されていくようだった。
「愛しているよ、メルナ……」
「私も、愛しています、ハーヴィ様……」
重なり合う体温と甘く乱れた吐息だけが、夜の静寂を満たしていく。
理性を手放した公爵の重すぎるほどの愛情を全身で受け止めながら、メルナは甘く溶けるような夜の底へと深く落ちていった。
◇
どれほどの時間が経っただろうか。
暖炉の火が小さく爆ぜる音が、静まり返った寝室に響いた。
あたたかく満たされた時間のあと。
同じ毛布にすっぽりと包まり、メルナはハーヴィの腕の中で心地よい疲労感と共にまどろんでいた。
背中に回された彼の腕は、絶対に離さないとばかりにしっかりと彼女を抱きしめている。
「……メルナ。起きているかい?」
頭上からすっかり落ち着きを取り戻し、どこか満足げな色気を纏ったハーヴィの声が降ってきた。
メルナは彼の胸元に頬をすり寄せたまま、「ん……」と小さく返事をした。
「愛しているよ、メルナ・アリストン」
その言葉の響きが嬉しくて、メルナは幸せそうに口元を綻ばせた。
もう、不安なことは何もない。
自分を愛してくれる人が、こんなに近くで自分を抱きしめてくれているのだから。
(次は、海……なんだよね)
まだ見ぬ南の離宮。
果てしなく広がるという青い海。
初めての場所へ彼と二人で行けるのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……ハーヴィ様」
「なんだい?」
「私……新婚旅行、とっても楽しみです」
半分眠りに落ちかけた舌足らずな声でそう呟くと、ハーヴィはくすくすと笑い、メルナの額に優しく口づけを落とした。
「ああ、僕もだよ……ゆっくりおやすみ、僕の可愛いお姫様」
そのあたたかな声を聞きながら、メルナはゆっくりと目蓋を閉じた。
結婚式という大きな節目を越え、夫婦としての本当の絆を結んだ夜。
二人は希望に満ちた春の海へと、静かに漕ぎ出そうとしていた。




