22 結婚式当日
ゼネ・レア王国の春は、まるで世界中の祝福を具現化したかのように奇跡的な美しさに満ちていた。
王都の中心にそびえる大樹の枝々には、数日前まで固い真珠のようだった蕾が一斉にその花弁を解き放っていた。
透き通るような白さを持つ花々が、春の暖かな風に揺られて大聖堂の周囲に舞い落ちる。
それはまるで、天から降る清らかな雪のようでもあった。
王家の守護を象徴する、歴史ある大聖堂。
その重厚な石造りの控室で、メルナは大きな姿見の前に立ち、夢の中にいるような心地で自身の姿を見つめていた。
純白のシルクに、繊細なレース。
裾には彼女の魔力と呼応して星屑のように瞬く極小の宝石。
数ヶ月前まで暗い森の奥で孤独に震えていた少女の面影は、そこにはもうどこにもなかった。
「……奥様。最後のお仕上げをさせていただきますね」
扉が開く直前。
震える声で呼びかけたのは、侍女長のジェイミーだった。
彼女の手には、透き通るような繊細なシルクのベールが握られている。
「本当の母親ではありませんが……不肖このジェイミー、このお役目をさせていただけることを生涯の誇りとさせていただきます」
ジェイミーはメルナの前に立つと、どこか誇らしげな眼差しでゆっくりとベールを彼女の頭上から下ろした。
視界がふわりと白い霧に包まれたような、不思議な静寂。
ベールダウンの儀式。
それは、愛する娘を送り出す母親の最後の役割だ。
「メルナ様。世界で、誰よりも幸せになってくださいね。いいえ、旦那様と一緒なら、必ずなれますわ」
ジェイミーの瞳には、堪えきれない涙が浮かんでいた。
我が子の晴れ姿を見届けるような、無償の愛。
メルナの視界も、ジェイミーの温かさに触れてじわりと滲んだ。
「……ありがとうございます、ジェイミーさん。私、頑張ります」
◇
控室の扉が開き廊下へと踏み出すと、そこには正装に身を包んだ一人の老人が待っていた。
白髪が混じり、人生の年輪を刻んだ深い皺を持つメルナの父――カミロは、娘の姿を認めるとあまりの美しさに絶句した。
「……お父さん」
高齢ゆえに少し丸まった背中。
彼が娘を見つめるその焦げ茶色の瞳には、言葉にできないほどの深い慈愛が湛えられていた。
「メルナ……ああ、なんと……なんと美しいのだ。お前が、これほど立派な花嫁になる日が来るとは……母さんに、見せてやりたかった」
カミロは震える腕を差し出した。
メルナはその腕にそっと手を添える。
焦げ茶色の瞳が、娘の幸せを願うように細められた。
その瞳の色はメルナが幼い頃からずっと見つめてきた、不器用ながらも自分を守ろうとしてくれた唯一の家族の証だった。
大聖堂の巨大な扉が、荘厳な音を立てて開かれる。
一気に流れ込んできたのは、眩いばかりの春の陽光とパイプオルガンの重厚な旋律。
そして参列した数多の貴族たちの、感嘆に満ちた溜め息だった。
メルナはカミロの腕に支えられながら、一歩、また一歩とバージンロードを歩んでいく。
足元にはステンドグラスから差し込む七色の光が、花の絨毯のように広がっている。
かつて孤独だった森。
石を投げられた日々。
それらすべてが、今、この光の中へと溶けていくような気がした。
祭壇の前では、軍服を模した礼装に身を包んだハーヴィが背筋を正して待っていた。
漆黒の髪を整え、少し青みを含んだ灰色の瞳でこちらを見つめる彼の姿は、この世の誰よりも気高く、そしてメルナにとっての唯一無二の救いそのものだった。
「……ハーヴィ様。不肖の娘ですが……どうか、どうかよろしくお願いします」
祭壇に辿り着いたカミロが、重みのある言葉と共にメルナの手をハーヴィへと差し出した。
ハーヴィは一寸の迷いもない動作でその手を取り、カミロに向けて力強く頷いた。
「ええ。命に代えても、必ずお守りします」
ハーヴィの掌は驚くほどあたたかく、指先を優しく包み込んでくれた。
その温度に触れた瞬間、メルナの内にあった最後の緊張が雪解けのようにすっと消えていった。
儀式は厳かに進んでいく。
そして、二人の間で最も大切な時間が訪れた。
指輪の交換だ。
ハーヴィがメルナの左手を優しく持ち上げる。
メルナは、数日前に二人きりの私室で練習した時のことを思い出していた。
あの時、ハーヴィは「失敗しても僕が支える」と言ってくれた。
彼のあたたかな唇が指先に触れた感覚が、今も掌に残っている。
メルナの手はもう震えていなかった。
彼女はまっすぐにハーヴィの瞳を見つめ返し、練習した通り丁寧に、愛を込めて彼の薬指へと銀の指輪を滑らせた。
二人の指で、永遠の誓いを象徴するダイヤモンドが煌びやかに輝く。
誓いの口づけを交わし、大聖堂に割れんばかりの拍手と鐘の音が響き渡る。
メルナは幸せの絶頂にいた。
世界で一番、愛されている実感が彼女を包み込んでいた。
◇
式の後、大聖堂の回廊で行われた短い歓談の時間。
色とりどりのドレスを纏った貴族たちが、公爵夫妻に次々と祝辞を述べにやってくる。
その華やかな喧騒の中、一人の青年が飄々とした足取りで近づいてきた。
「おめでとう、先輩。そして……可愛い、可愛いメルナ」
白金色の髪をなびかせ、翠色の瞳を細めて笑うレグルス・ロッシェル。
彼はハーヴィと短い挨拶を交わした後、不意に、メルナの顔へとぐいっと至近距離までその美貌を近づけてきた。
「……っ」
反射的に身を引こうとしたメルナの肩を、レグルスの視線が射抜くように固定する。
折しも、ステンドグラスの窓から差し込んだ春の強い陽光が、メルナの朱色の瞳を真横から鮮やかに照らし出した。
――その瞬間だった。
メルナの澄んだ朱色の瞳に、まるで日食の瞬間に現れる影のように、くっきりとした黒い円が浮かび上がった。
レグルスはその光景に、翠色の瞳を歓喜に歪めた。
「……やっぱり。ねえ、メルナ」
レグルスはハーヴィにさえ聞こえないような微かな声で、彼女の耳元に唇を寄せた。
「俺は、君の秘密を知っているよ……君が、本当は何を喰らいたいのかもね」
「え……?」
メルナは、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
秘密。
喰らいたいもの。
レグルスの翠色の瞳には祝福の色など微塵もなく、ただ獲物を追い詰めた猛禽類のような、異常な熱だけが宿っていた。
「メルナ、どうしたんだい?」
ハーヴィがメルナの異変に気づき、すぐに彼女の腰を引き寄せレグルスを鋭い視線で牽制した。
レグルスは「なんでもありませんよ」と再び人懐っこい笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振って人混みの中へと消えていった。
大聖堂の外では、満開の大樹から散った白い花びらが雪のように降り積もっている。
ハーヴィのあたたかな腕の中にいながらも、メルナは自分の中に芽生えた、名状しがたい底なしの飢えの疼きを感じていた。
春の光に包まれた輝かしい結婚式の裏側で。
運命という名の影が、確実に彼女の足元を蝕み始めようとしていた。




