21 楽しみな未来
季節の巡りは、時に魔法よりも鮮やかに世界を塗り替える。
アリストン公爵領を白く閉ざしていた厳しい冬が終わり、あたたかな春の陽光が降り注ぐ季節がやってきた。
庭園に積もっていた雪はさらさらと音を立てて解け出し、澄んだ水となって小川を流れ、大地には青々とした若草が顔を出し始めている。
何より圧巻だったのは、王都の象徴であり、この屋敷の要でもある大樹の姿だった。
冬の間、むき出しの枝を空に伸ばしていた巨大な木は、春の訪れと共に数えきれないほどの白い蕾を宿したのだ。
その蕾は今にも綻びそうで、まるで真珠を散りばめたように美しく、これから咲き誇るであろう桜のような純白の花の気配に王都全体が浮き立つような喜びに包まれていた。
そんな春の始まりの、あるよく晴れた日のこと。
公爵家本館の広々としたサロンには、一足早く満開の花が咲いたような、華やかで幸福な空気が満ちていた。
「ああ……奥様。本当にお綺麗ですわ……」
大きな姿見の前。
ウェディングドレスの最終フィッティングを終えたメルナを見て、侍女長のジェイミーが目元をハンカチで押さえ感極まったように鼻をすすった。
「ジェイミーさん……泣かないでください。なんだか、私まで泣きそうになっちゃいます」
メルナは困ったように微笑みながら、そっと純白のスカートの裾を揺らした。
最高級のシルクを贅沢に使ったドレスは、メルナの華奢な身体をふんわりと包み込んでいる。
胸元や裾にあしらわれた繊細なレースには、彼女の魔力に呼応して微かに輝く極小の宝石が散りばめられ、動くたびに星屑のようにきらきらと光を放っていた。
そこには見る者すべてを魅了する、気高くも愛らしい公爵夫人としての美しい花嫁の姿があった。
「泣かずにはいられませんわ。森からこのお屋敷にいらっしゃった日の奥様の小さな背中を思い出すと……まるで、自分の娘の晴れ姿を見ている母親のような気持ちになってしまって。こんなに立派で美しい花嫁になられて、私、胸がいっぱいでございます」
ジェイミーのその言葉には、一切の嘘偽りがない深い愛情が込められていた。
メルナの胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
本当の母親の顔を知らず、温もりを知らずに育ってきた自分に、ジェイミーはいつも母親のようにあたたかく接してくれた。
「……ありがとうございます、ジェイミーさん。貴女がずっと支えてくれたから、私、今日まで頑張れました」
メルナが心からの感謝を伝えた――その時だった。
「世界中のどんな宝石も、今の君の輝きには敵わないな」
サロンの扉が開き、感嘆の吐息と共に落ち着いた声が響いた。
今日はお休みで、ラフな――けれど仕立ての良いシャツ姿のハーヴィだった。
彼は扉の前でピタリと足を止め、ドレス姿のメルナを見つめて釘付けになっていた。
「ハーヴィ様……お仕事、お休みだったのに、わざわざ見に来てくださったんですか?」
メルナが頬を赤くして問いかけると、ハーヴィはゆっくりと歩み寄り、彼女の前に跪いてその手を取った。
「当然だよ。君の世界一美しい瞬間を、誰よりも早くこの目に焼き付けたかったからね」
ハーヴィの少し青みを含んだ灰色の瞳が、とろけるような熱を帯びてメルナを見上げている。
「本当に息を呑むほど美しい。春の女神が舞い降りたのかと思ったよ。式当日、この美しい妻を国中の貴族たちに見せつけてやれるのが誇らしくてたまらない。けれど同時に、この姿を誰の目にも触れさせず、僕だけのものとして隠しておきたいという、独占欲も湧いてきて困っているよ」
「も、もう……ハーヴィ様ったら、大げさです」
「大げさなものか。僕の目は君の美しさで眩んでしまいそうだよ」
跪いたまま、メルナの純白のレース越しに手の甲へ甘い口づけを落とすハーヴィ。
そのあまりにも堂々とした情熱的な愛の囁きに、見守っていたジェイミーたち使用人が「ご馳走様です」とばかりに顔を綻ばせ、メルナは茹でダコのように顔を真っ赤にして俯いてしまった。
◇
ドレスのフィッティングを終え、いつもの過ごしやすいワンピースに着替えたメルナは、ハーヴィと共に二人きりの私室へと戻っていた。
春とはいえ、まだ少し冷える夕暮れ時。
暖炉には小さく火が灯され、部屋の中は穏やかであたたかな空気に包まれている。
「……ハーヴィ様。その、お願いがあるのですが」
ソファに並んで座りながら、メルナが少しだけ緊張した面持ちで切り出した。
「どうしたんだい? 何でも言ってごらん」
「あの……指輪の交換の練習を、一緒にしてくれませんか?」
メルナの言葉に、ハーヴィはきょとんと目を丸くした。
「練習? ただ指輪をはめるだけだよ? そんなに緊張しているのかい?」
「だって……! 王族の方々もいらっしゃる大聖堂で、たくさんの貴族の皆さんが見ているんですよ? もし私が緊張して指輪を落としてしまったり、上手くはめられなくてハーヴィ様に恥をかかせてしまったらと思うと、不安で……」
メルナは自らの左手の薬指にはめられた、あのダイヤモンドの指輪を見つめながらきゅっと唇を噛んだ。
そんな彼女のいじらしい不安を知り、ハーヴィは優しく微笑んで「わかった」と頷いた。
「それじゃあ、本番と同じように向かい合おうか」
二人はソファから立ち上がり、暖炉の火の前に向かい合って立った。
ハーヴィが自身の左手から仮の指輪を外し、メルナの小さな手のひらにそっと乗せる。
「僕の目を見て。ゆっくりでいいよ」
ハーヴィの落ち着いた声に励まされ、メルナは深呼吸をした。
そして震える指先で指輪をつまみ、彼の大きく筋張った左手を取る。
だが、いざ本番を想像してしまうと、やはり極度の緊張で指先が小刻みに震え、上手く薬指の先へと指輪を誘導することができない。
「あっ……ご、ごめんなさい、手が……」
「大丈夫。焦らなくていい」
ハーヴィはもう片方の手で、メルナの震える手をふわりと包み込んだ。
彼の大きな手から伝わってくる確かな体温と愛情が、メルナの強張った心をゆっくりと解きほぐしていく。
「メルナ。結婚式は、僕たちが共に歩むためのただの入り口だ。誰かに見せるためのものじゃない、僕と君が誓い合うためのものだ。だから、失敗したって誰も笑わないし、僕がちゃんと君を支えるから、何も心配しなくていい」
ハーヴィはメルナの指先をそっと持ち上げ、その震えを鎮めるように愛おしげな口づけを落とした。
ちゅっ、という微かな音と共に、メルナの肩からすっと無駄な力が抜けていく。
「それに、式が終わったら、二人で少し遠くへ行こうか」
「遠く、ですか……?」
「ああ。新婚旅行というやつだ。南の領地にある、海の見える静かな離宮はどうかな。あそこなら、大樹の桜に似た花も長く咲いているはずだ」
新婚旅行。
海の見える離宮。
その響きに、メルナの朱色の瞳がぱぁっと輝きを取り戻した。
「海……! 私、海は本でしか見たことがありません! ハーヴィ様と、一緒に行けるんですか?」
「もちろんさ。君が望むなら、どこへだって連れて行くよ」
ハーヴィが優しく目を細める。
「……とはいえ、公爵という立場上、完全に僕たち二人きりというわけにはいかないけれどね。ランスロットはすでに『自分は馬車の御者台に縛り付けられてでも同行してお守りします!』と息巻いているし、オリバーとジェイミーも『離宮の管理と奥様のお世話は我々の義務です』と絶対に譲らないだろうから」
「ふふっ……ランスロットさんらしいですね。オリバーさんたちも一緒なら、なんだかとっても楽しそうです。賑やかな旅になりそう」
「そうだね。でも、海辺を散歩する時くらいは、あの番犬たちを撒いて二人きりの時間をたっぷり作ろう」
未来の楽しい計画を二人で語り合っているうちに、メルナの指先から震えは完全に消え去っていた。
彼女はもう一度深呼吸をすると、今度はスムーズにハーヴィの左手の薬指へと指輪を滑らせることに成功した。
「……できました。ハーヴィ様」
「うん。完璧だ。よくできたね」
ハーヴィは満足げに微笑むと、メルナの腰に腕を回し、そのまま彼女の身体を優しく抱き寄せた。
暖炉の火が、密着した二人の影を壁に一つに重ねて揺らしている。
「ハーヴィ様……結婚式も、そのあとのご旅行も、本当に楽しみです」
メルナが彼の胸元に顔を埋めて幸せそうに呟くと、ハーヴィは彼女の淡い青色の髪を撫でながら、ふと、どこか真剣な瞳で虚空を見つめた。
「ああ……でも、結婚式が終わったら、もう一つ、大切なことを考えなくてはならないね」
「もう一つ、大切なこと……ですか?」
メルナが不思議そうに首を傾げて見上げると、ハーヴィの視線はメルナの顔からゆっくりと下がり――彼女の細いお腹のあたりへと向けられた。
(……そろそろ、跡取りのことも考えないとな)
それは、彼が公爵という重責を担う当主だからという理由だけではない。
彼が世界で一番愛するこの少女と、本物のあたたかい家族を築き、未来へとしるべを残したいという一人の男としての真っ直ぐな愛情と願いだった。
「なんでもないよ。今はただ、君の美しいドレス姿と、式のことだけを考えていればいい」
ハーヴィは小さく首を振って誤魔化すと、メルナの唇に甘く長い口づけを落とした。
窓の外では春の風に揺れる大樹の白い蕾が、二人の門出を祝福するように静かに綻び始めていた。




