3 化け物なんかじゃない
ふわりと、森の朝露のような安らぐ香りがした。
アリストン公爵家の本館、当主の私室。
天蓋付きの広いベッドの上で、ハーヴィはゆっくりと意識を浮上させた。
急速な魔力の奔流を体感したことによる魔力酔いの余韻で、頭の奥が微かに痺れている。
灰色の瞳を開くと、見慣れた天井よりも先に視界のすぐ端に何かが映り込んだ。
「……ん」
微かな声に反応し、その何かが弾かれたように顔を上げた。
涼やかな淡い青色の髪がふわりと揺れて、ハーヴィの頬をかすめる。
覗き込んできたのは燃え盛る夕暮れのように鮮烈な、朱色の瞳だった。
メルナはハーヴィが倒れてからずっと、息がかかるほどの至近距離で極度の心配を顔に張り付けたまま彼を見守り続けていたらしい。
「あ……」
ハーヴィが身じろぎをし、身体を起こそうとした瞬間だった。
「駄目です、まだ動いちゃ……っ!」
メルナが咄嗟に両手を伸ばし、ベッドから起き上がろうとしたハーヴィの胸元をぐっと押し留めた。
ぴたりと、時が止まったような静寂が落ちる。
薄いシャツ越しに伝わる、彼のがっしりとした胸の体温。
そして、お互いの睫毛の瞬きすら数えられるほどに近い、顔と顔の距離。
自分が今、どれほど無防備な公爵の身体に触れ、どれほど顔を近づけてしまっているのか。
それに気づいた瞬間、メルナの端正な顔が彼女の瞳と同じくらい真っ赤に染まり上がった。
「ひゃっ……!?」
メルナはまるで怯えたウサギのように勢いよく飛び退き、ベッドの端から転げ落ちそうになりながら距離を取った。
「ご、ごめんなさい……っ! 私が魔力を暴走させて、魔力酔いさせてしまったのに、出過ぎた真似を……!」
ぐるぐると目を回しながら、必死に頭を下げるメルナ。
そのあまりにも初々しく可愛らしい反応に、ハーヴィの胸の奥でふっとあたたかなものが解けた。
彼はゆっくりと上体を起こすと、漆黒の長い髪を片手でかき上げながら小さく苦笑をこぼした。
「いや、大丈夫だ。それに……僕たちは特例と言えど、政略結婚で結ばれる関係だ。こういう距離感にも、少しずつ慣れていかなきゃいけないからね」
どこか甘さを帯びたその言葉に、メルナは両手で口元を覆って俯いてしまった。
ハーヴィ自身も無意識に口から出た言葉の照れくささに気づき、そっと視線を逸らす。
部屋の少し開いた重厚な扉の向こうには彼らを本館まで護衛してきた若い騎士、ランスロットの姿が見えた。
雀の頭の色のような赤黒い茶色の髪を少し揺らし、柔らかい青色の瞳で主君の無事を確かめるように安堵の息を吐いている。
ほんの少しの気恥ずかしい沈黙のあと。
メルナは自身の芯の強さを取り戻すように小さく深呼吸をし、まっすぐにハーヴィを見つめた。
「……あの、ハーヴィ様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだい?」
「どうして、私だったのでしょうか。もちろん、大樹の調律のために私の魔力が必要だったからだとは理解しています。でも、それなら……ただ高給で雇うだけでも、身代わりとして引き取るだけでもよかったはずです。どうして公爵家の妻として、政略結婚などという大掛かりな形をとったのですか?」
ずっと疑問に思っていたことだった。
化け物と蔑まれる平民の娘をわざわざ正妻の座に据えるなど、貴族社会においてどれほどの反発を生むか想像もつかない。
その問いに、ハーヴィは真剣な表情へと切り替わった。
「大樹の調律は、ゼネ・レア王国を根底から支える極めて神聖な儀式なんだ。大樹の最深部、魔力の源流へとアクセスするための結界は、厳格な法術で守られている」
ハーヴィは、窓の外にそびえる大樹の方角へと視線を向けた。
「その結界を通り抜け、調律の権限を得られるのは貴族の血統を持つ者か、あるいは貴族として正式に籍を置く者だけだ。大樹のコアは魂に刻まれた契約と身分を読み取る。どんなに強大な魔力を持っていようと、平民である君をそのまま大樹の根元へ連れて行けば、結界に弾き飛ばされて命を落としていただろう」
メルナは息を呑んだ。
「つまり、君に調律の正当な権限を与えるための唯一の合法的な抜け道が……アリストン公爵家の妻として迎え入れ、準貴族化することだったんだ。これは、君の身分と命を守るために絶対に必要な手続きだった」
ハーヴィは申し訳なさと、自戒を込めて目を伏せた。
「君を巻き込み、縛り付けるための大義名分だ。本当に、すまない」
ハーヴィが自分をただの道具として買ってきたのではなく、命を守るために正式な妻という特等席をわざわざ用意してくれたのだと知り、メルナの胸が熱く締め付けられた。
「謝らないでください。私は……父が助かるのなら、それでよかったんです」
気丈に振る舞うメルナだったが、父親の話をした瞬間その朱色の瞳がふっと不安げに揺らいだ。
高齢で、身体も弱っていた父。
彼は慣れない王都の冷たい施設で、寂しい思いをしているのではないか。
そんな彼女の内に秘めた不安を、ハーヴィは正確に掬い取った。
「君のお父上、カミロ殿のことなら安心していい」
「え……」
「君の手引きをした我が家の筆頭執事、オリバーがすべての手続きを完璧に済ませている。今頃カミロ殿は、王都で最も設備の整ったあたたかい療養施設で、専門の医師たちの手厚い保護を受けているはずだ」
ハーヴィはベッドから降り、メルナの目の前へと歩み寄った。
そして、彼女の視線に合わせて少しだけ身を屈める。
「彼がこれからの人生で二度と寒さに震えたり、飢えに苦しんだりすることはない。それは、アリストン公爵家当主である僕が誓おう」
その言葉を聞いた瞬間、メルナの中で張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
今まで化け物だと石を投げられ、誰にも助けてもらえず、絶望の淵で父と二人ただ身を寄せ合って生きてきた。
それなのに、目の前のこの人はただの平民である父の名前を呼び、ひとりの尊い人間として扱ってその未来を力強く保証してくれたのだ。
「……っ」
堰を切ったように、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出す。
メルナは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
ハーヴィは何も言わず、ただ彼女の気が済むまでその小さな肩をそっと叩き続けた。
やがて、涙が落ち着きを取り戻した頃。
メルナは赤くなった目元を拭いながら、不思議そうに自分の両手を見つめた。
「でも……不思議です」
「何がだい?」
「私、いつもなら魔力が高ぶったり、緊張したり、こうして感情が昂った状態で誰かに触れると、周りのものを壊してしまうんです。それなのに……先ほど私が触れてしまったとき、どうして、ハーヴィ様は壊れなかったんですか?」
その問いに、ハーヴィは自分自身の手のひらを見つめ返した。
彼自身にも、まだあの未知の現象の理由はわかっていなかった。
彼女の膨大で恐ろしいはずの魔力がなぜか自分の中を素通りし、大気へと優しく溶けていったあの感覚。
理屈はわからない。
だが、たった一つだけ、確信を持って言えることがあった。
「……僕にも、まだその理由はわからないんだ」
ハーヴィは顔を上げ、涙の跡が残る彼女に向かってひだまりのように優しく微笑みかけた。
「でも、これだけはわかる。君の力は、決して人を傷つけるだけの恐ろしい化け物の力なんかじゃない。君の魔力は……とても澄んでいて、悲しいほどにあたたかかった」
「……!」
生まれて初めて自身の魔力を、自身の存在そのものを肯定されたメルナは、息を呑んで彼を見つめ返した。
恐れられ、遠ざけられてきた自分をまっすぐに受け止めてくれる人がいる。
その事実が、凍りついていた心をさらに甘く溶かしていった。
ハーヴィはベッドに腰掛けたまま、メルナの小さな手をそっと両手で包み込む。
今度は窓ガラスにひびが入ることも、石畳が割れることもなかった。
「だから、明日――まずは君と、正式な婚姻の誓いを交わそう」
「……誓い、ですか」
「ああ。王家への書類の手続きと、代々アリストン家の当主夫妻が受け継いできた誓いの儀式だ。それに君の魂を登録すれば、大樹の結界は君を正当な権限を持つ公爵夫人として認識し、無事に通り抜けることができるようになる」
ハーヴィの灰色の瞳が、メルナの朱色の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「もちろん、君をこの過酷な運命に巻き込んでしまうことへの罪悪感は消えない。けれど……僕は君を、ただの調律の道具にはしない。この家の大切な伴侶として、全力で君を守り抜くと誓うよ」
それはかりそめの政略結婚でありながら、嘘偽りのない誠実な誓いだった。
メルナの胸の奥で、今まで感じたことのない小さくもあたたかな火が灯る。
「……はい。私でよければ、どうかよろしくお願いします」
メルナは包み込まれた彼の手を、そっと握り返した。
その小さな力強さに、ハーヴィは安心したように相好を崩す。
「無事に手続きが終わったら……大樹へ行こう。僕と君の、二人で」
それは、世界から欠落していた二つの孤独な魂が初めて手を取り合い、かりそめの夫婦として過酷な運命へと立ち向かう決意の証明だった。




