2 初めての感覚
ゼネ・レア王国。
ウル・シウス大陸の中心に位置し、無数の街や村を抱えるこの広大な国は、王都の中心にそびえ立つ巨大な大樹の恩恵によって成り立っていた。
地下深くに張り巡らされた大樹の根が、まるで血脈のように大陸中へ魔力を運び、人々の生活と文明を支えている。
しかし、大樹から生み出される生の魔力はあまりにも強大で荒々しく、そのままでは到底使い物にならない。
その暴虐な力を人が安全に使える形へと変換し、安定化させること。
それが、大樹の幹の直下、最も高出力で危険な場所に本館を構えるアリストン公爵家に代々課せられた調律という過酷な公務であった。
「オリバー。君は数日前から姿が見えないと思っていたが……まさか、本当に条件に合う者を見つけてきたとでも言うのか?」
アリストン公爵家の本館。
その最上階にある重厚な執務室で、当主ハーヴィ・アリストンは深い溜め息とともに頭を抱えていた。
彼が顔を上げると、苛立ちに連動して一つにまとめられた漆黒の長い髪が肩から滑り落ちる。
わずかに青みを含んだ明るい灰色の瞳には、隠しきれない焦燥と苦悩の色が濃く滲んでいた。
執務机の前に真っ直ぐに立っているのは、長年この公爵家に仕える筆頭執事のオリバーである。
普段は衣服に埃ひとつ、皺ひとつ許さない彼が、今は乗馬服に土埃を滲ませ息もわずかに弾ませていた。
それは早馬を飛ばして王都へと急ぎ駆け戻ってきたという、何よりの証拠だった。
「はい。先ほど、彼女の父親を王都の療養施設へ受け入れるための手続きを済ませ、迎えの者を向かわせてまいりました。今後の生活における手厚い保護の手配は完了しております。本人は今、ランスロット殿が護衛する馬車でこちらへ向かっております。あと一時間もすればこの本館に到着するでしょう」
一切の感情を交えず、淡々と告げられた事後報告。
その言葉に、ハーヴィは弾かれたように立ち上がった。
椅子が分厚い絨毯を擦る鈍い音が部屋に響く。
「どうして勝手なことをしたんだ! 僕は、縁もゆかりもない平民の女の子を巻き込むなんて、絶対に承知しないと言ったはずだ!」
声を荒らげるハーヴィに対し、オリバーはただ静かに黄緑色の瞳を伏せただけだった。
ハーヴィ自身もわかっているのだ。
優秀な執事である彼が、主人の命に背いてまで強行に及んだのは他ならぬアリストン家のためであり、この国を救うためだということを。
けれど、ハーヴィの心はどうしてもそれを受け入れることができなかった。
「歴代の当主たちが……父上や、二人の兄上たちがどうなったか、君も一番近くで見て知っているだろう! 大樹の荒れ狂う魔力を無理やり変換し、押さえ込み続ければ確実に命を削られる。あの過酷な調律のせいで、皆、若くして血を吐いて死んでいったんだぞ!」
ハーヴィはギリッと奥歯を強く噛み締めた。
アリストン家は代々、強大な魔力を誇る一族である。
しかし、彼だけは違った。
この誉れ高き一族に生まれながら、ハーヴィの体にはただの一滴も魔力が宿っていなかったのだ。
魔力を持たない彼は、大樹の力を変換し安定させることができない。
一族の中では、文字通りの空っぽの落ちこぼれとして扱われてきた。
その無力な自分が生き残り、力を持つ者たちが次々と命を散らしていった。
「僕の代で、また誰かの命をすり減らして……関係のない少女を短命にさせるなんて、絶対に嫌だ。僕は、人を、大樹を維持するための道具にする気はないんだ」
吐き捨てるように言ったハーヴィの言葉は、広い執務室の中でひどく虚しく響いた。
自分に魔力がないから、変換の能力が欠落しているから、誰か力のある者を犠牲にするしかない。
その圧倒的な無力感と罪悪感が、ハーヴィの首を真綿で締め付け続けている。
「……では、ハーヴィ様」
沈黙を破ったオリバーは一切表情を崩すことなく、窓の外――王都の中心にそびえる大樹の威容を真っ直ぐに指し示した。
「この都市を、何万もの罪なき民を見捨てるおつもりですか」
「っ……!」
「大樹の魔力はすでに限界を超え、内部に異常なほどの力が蓄積し続けております。王都の末端の街では、すでに魔力の暴走による被害が出始めているのです。ハーヴィ様のそのお優しさは美徳ですが……今、貴方様が決断なさらなければ、このゼネ・レア王国はそう遠くない未来に崩壊いたします」
冷徹な事実が、ハーヴィの逃げ道を完全に塞いだ。
多数の民の命か、一人の見知らぬ少女の命か。
天秤にかけることすら許されない絶望的な現実を突きつけられ、ハーヴィはゆっくりと椅子に崩れ落ちた。
両手で顔を覆う彼の肩が、微かに震えている。
「……わかった。君の言う通りだ」
長い沈黙の末にひねり出した声は、ひどく掠れていた。
「だが、僕は彼女を絶対に道具としては扱わない。どれほど強大で、恐ろしい魔力を持った化け物だと世間から蔑まれていようと……僕が、彼女を守る。絶対にだ」
それが、無能な自分にできる唯一の抵抗であり、悲壮な誓いだった。
◇
それから一時間後。
ハーヴィは緊張で冷え切った両手を固く握りしめながら、本館の正面玄関に立っていた。
石畳を重々しい蹄の音と車輪の音が鳴らし、公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車がゆっくりと到着する。
御者台から飛び降りた若い騎士のランスロットは、ひどく強張った顔をしており、どこか怯えているようにも見えた。
彼が震える手で馬車の扉を開く。
ごくりと、ハーヴィの喉が鳴った。
常人をはるかに凌駕する魔力を持ち、それがゆえに人々から迫害され辺境の森の奥深くに追いやられていたという娘。
一体、どれほど禍々しい気配をまとった、傲慢で荒んだ女が降りてくるのか。
どんなに冷たい言葉を投げつけられても、恨み言をぶつけられても、甘んじてすべてを受け入れよう。
ハーヴィはそう固く覚悟を決めていた。
――しかし。
「…………え?」
馬車の暗がりからおずおずと姿を現したその人物を見て、ハーヴィは思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
そこにいたのは、恐ろしい化け物などでは断じてなかった。
澄んだ水のような、淡く美しい青色の長い髪。
あちこちが擦り切れたボロボロの粗末な服を身にまとい、華奢な肩を小刻みに震わせている、ひどく儚げな少女だったのだ。
晩秋の楓のような朱色の瞳が、見知らぬ豪華な屋敷と出迎える人々を前にして怯えた小動物のように激しく揺れ動いている。
彼女が、あの巨大な大樹の魔力を抑え込めるほどの力を抱えているというのか。
ハーヴィは信じられない思いで目を瞠った。
「あ……あの……」
少女――メルナの細く震える声が空気を震わせた瞬間、本館の窓ガラスに無数の亀裂が走り、足元の分厚い石畳が微かにひび割れた。
極度の緊張と恐怖に彼女の中に渦巻く強大な魔力が制御を失い、無意識のうちに外へ漏れ出し始めたのだ。
それは、並の人間ならその場に立っていることすらできず、気を失ってしまうほどの圧倒的な魔力の奔流だった。
強者を相手に訓練を積んでいるはずのランスロットでさえ、顔を真っ青にして後ずさっている。
「ごめんなさい……っ! 私、また壊しちゃう……! 近付かないでください!」
メルナは泣きそうな顔で自分の腕を強く抱きしめ、必死に馬車の奥へと後ずさった。
その痛々しく孤独な姿に、ハーヴィの胸の奥で何かが大きく弾けた。
怖いなんて、少しも思わなかった。
ただ、こんなにも怯え、自分自身の力に苦しめられている彼女を何とかして安心させたかった。
「大丈夫だ。恐れることはない」
「え……?」
ハーヴィは一切のためらいなく踏み出し、逃げようとする彼女の華奢な腕を、そっとその両手で包み込んだ。
――その瞬間。
腹の底に響くような衝撃とともに、目に見えない激流がハーヴィの体内へと流れ込んできた。
それは、メルナの内に限界まで溜まり続けていた行き場のない過剰な魔力だった。
本来ならば他人の膨大で荒々しい魔力を直接流し込まれれば、人間の体など内側から破裂し即死してしまう。
アリストン家の変換の力を持つ歴代の当主たちであっても、これほどの魔力を無防備に受け止めればただでは済まないはずだった。
しかし――。
(……なんだ、これは?)
ハーヴィは、信じられない思いで目を見開いた。
痛みはなかった。
身体が弾け飛ぶような絶望も、息が詰まるような圧迫感もない。
ただ、途方もない質量の熱が己の身体の中を凄まじい勢いで素通りしていく。
空っぽだった身体の奥底を、熱を帯びた清流が駆け抜けていくようなかつて味わったことのない未知の感覚。
メルナから流れ込んできた荒々しい魔力は、ハーヴィの身体を通過すると同時に、なぜか彼の足元からふわりと大気中へ溶けるように無害な淡い光の粒となって放散されていったのだ。
「あ……」
メルナの朱色の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
ずっと彼女の身体を内側から圧迫し、暴走の恐怖で苦しめていた熱が嘘のようにすーっと引いていく。
生まれて初めて、深く、心地よい呼吸ができた。
(どうして……? 私の力が、消えていく……?)
触れればすべてを壊してしまうはずの呪われた魔力が、目の前の青年の身体を通ってまるで春の雪解けのように優しくほどけていく。
彼を傷つけることなく、ただ静かに。
ハーヴィ自身もまた、己の身に何が起きているのか全く理解できていなかった。
魔力を持たない無能な自分が、なぜ彼女の強大な力に触れて無事でいられるのか。
彼女の魔力は、一体どこへ消えてしまったのか。
それが何を意味するのか、二人の身にどんな現象が起きたのか。
この時の彼らには、知る由もなかった。
「君は……本当に、すごくて……優しい力を持っているんだね」
ハーヴィは理由のわからぬ安堵とともに、微笑みかけようとした。
しかし、未体験の急激で膨大な魔力の流れを体感した反動で、視界がぐにゃりと大きく歪む。
それは、強烈な魔力酔いだった。
「っ……!」
急速に膝の力が抜け、ハーヴィは前へと崩れ落ちる。
「公爵様!」
固い石畳に打ち付けられると覚悟した瞬間、ふわりと柔らかな香りが彼を包み込んだ。
メルナがその細い腕で必死にハーヴィの体を抱き留めてくれたのだ。
森の朝露のような、ひどく安らぐ匂いがした。
「しっかりしてください! 公爵様、私のせいで……っ!」
耳元で泣きそうな声がする。
けれど、ハーヴィの心は不思議なほど穏やかで、満たされていた。
至近距離で触れ合う彼女の体温はあたたかく、彼の中を通り抜けていった彼女の魔力の余波は、凶暴な化け物の力なんかでは決してない。
(なんて……澄んでいて、悲しいほど優しい色をした魔力なんだろう)
どうやら自分は、とんでもない思い違いをしていたらしい。
薄れゆく意識の中でハーヴィは必死に腕を伸ばし、自分を抱きとめる彼女の小さな背中にそっと手を回した。
「……メルナ」
事前に報告書で見ていたその名を、無意識のうちに唇が紡ぐ。
胸にすがりつく彼女の心臓の音が、ひどく速く、戸惑うように脈打っているのがわかった。
彼女は、世界を維持するための道具なんかじゃない。
ただ、この不思議な奇跡の理由を、もっと知りたい――。
そこでハーヴィの意識は、彼女の甘い香りの底へとひどく心地よく沈んでいった。




