18 二回目の調律
季節に一度、ウル・シウス大陸の命脈を整える調律を行う日の朝。
アリストン公爵家のダイニングにはいつもとは違う緊張感と、それ以上に濃厚な甘い日常の香りが漂っていた。
テーブルに並べられたのは、メルナがリクエストした色鮮やかなワンプレート朝食だ。
ふっくらと黄金色に焼き上がったパンケーキに、たっぷりのメイプルシロップとバター。
その傍らにはパリッと弾けるような食感のソーセージと、黄身が絶妙な半熟に仕上がった目玉焼き。
シャキシャキとした新鮮な彩り野菜のサラダが皿の上に彩りを添えている。
「……旦那様」
背後に控えるオリバーが、どこか諦めたような溜め息を漏らした。
その視線の先では夜会服のような端正な装いに身を包んだハーヴィが、相変わらずあの深い赤色のマフラーを首元に幾重にも巻きつけたまま、優雅にパンケーキを口に運んでいた。
「せめて、お食事の時だけでもお外しになっては。調律の儀式を前に、そのようにもこもことしたお姿では……」
「問題ない、オリバー。調律は大樹の魔力を全身に通す過酷な作業だ。儀式の間、一時的に体内の魔力循環が乱れ急激な体温低下を招く恐れがある。このマフラーはその際の体温保持において、計算上、極めて有効な熱源となるんだ」
「……左様でございますか」
もっともらしい理屈である。
単にメルナが編んでくれた宝物を一秒たりとも離したくないだけなのだが、ハーヴィが真顔で論理的に説明し始めると誰もそれ以上は口を出せなくなるのだ。
「ハーヴィ様、食べにくくありませんか? メイプルシロップがついてしまったら大変ですし……」
メルナが心配そうに覗き込むと、ハーヴィは彼女の手をそっと握り穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ、メルナ。君が僕のために費やしてくれた時間を、汚すような真似はしない。さあ、しっかり食べておきなさい。今日の調律は、冬の寒さを乗り越えるための重要なものになるからね」
「はい。頑張ります、ハーヴィ様」
メルナは心強く頷き、温かいスープと一緒に朝食を平らげた。
◇
食事を終えた二人は、本館の地下深くへと続く階段を降りていった。
幾重にも張り巡らされた魔法の封印と、選ばれた者しか通ることのできない強固な結界。
結界の扉の前で、オリバーは深々と一礼して足を止めた。
「これより先は、アリストンの血筋と、その伴侶のみが立ち入ることを許される聖域。旦那様、奥様。どうか、ご無事で」
「ああ。あとは頼むよ、オリバー」
ハーヴィが結界に手をかざすと、空間が歪むようにして道が開いた。
二人が足を踏み入れた先は、王都の地下に広がっているとは思えないほど巨大な空洞だった。
その中心には、蒼白く輝く巨大な大樹のコアが、血管のように張り巡らされた根を四方八方へと伸ばしている。
一歩踏み出すごとに、肌を刺すような高濃度の魔力の圧力が押し寄せてくる。
メルナはコアの前に立つと、深呼吸をして両手をその冷たい結晶へと触れさせた。
「――っ!」
瞬間、メルナの身体からダムが決壊したかのような膨大な魔力が解き放たれた。
地下空間全体が眩いほどの白銀の光に包まれ、強烈なエネルギーの奔流が吹き荒れる。
ハーヴィはすぐさまメルナの背後に立ち、彼女の細い肩を引き寄せて自身の身体を密着させた。
(……やはり、凄まじいな)
メルナの身体を通り自身へと流れ込んでくる魔力の重厚さに、ハーヴィは内心で驚嘆を禁じ得なかった。
大樹の渇きを一瞬で潤し、なおも溢れ出す無尽蔵の力。
この華奢で、自分の腕の中にすっぽりと収まってしまうほど小さな体の、一体どこにこれほどの規格外なエネルギーを隠し持っているのか。
彼女が森で一人、どれほどの恐怖と孤独の中でこの力を抑え込んできたのかを思うと、ハーヴィの手には無意識に力がこもった。
「ハーヴィ様、流します……っ!」
「ああ、全部僕に預けなさい。一滴も残さず、僕が受け止めてあげるから」
ハーヴィは自身の空っぽの器としての特性を最大限に広げ、メルナから溢れる魔力を完璧に受け流し、大樹の根を通じて王都の魔力網へと均一に分配していく。
一分、二分……。
濃密な光の柱が二人を包み込み、冬の王都を支えるための膨大なエネルギーが力強く循環し始めた。
やがて光が収まり、地下空間に静寂が戻る。
大樹のコアは、先ほどまでとは違う穏やかで澄んだ光を宿していた。
「……終わりましたね、ハーヴィ様」
メルナが安堵して振り返った、その時。
「…………ああ。上手くいった……よ……」
ハーヴィの返事が、心なしか虚ろに響いた。
見れば、彼の端正な顔は真っ赤に染まり、灰色の瞳はどこか焦点が合わずに泳いでいる。
足元はふらつき、今にも膝を突きそうな状態だった。
「ハーヴィ様!? お顔が真っ赤です!」
「……少し、魔力を……通しすぎたかな。二日酔いの、激しいやつに……似ているよ……視界が、回るんだ……」
そう――これが公爵家当主の宿命である魔力酔いだ。
一切の魔力を持たない彼がメルナの放つ至高のエネルギーを大量に濾過したことで、神経が一時的な過負荷を起こしているのだ。
ハーヴィはそのまま、メルナの肩にゆっくりと倒れ込んだ。
「ハ、ハーヴィ様! しっかりしてください! 今すぐお部屋へ!」
◇
公爵邸の主寝室。
メルナはオリバーたちの助けを借りつつ、ハーヴィをふかふかの大きなベッドへと横たえた。
激しい目眩に襲われているハーヴィは、荒い息を吐きながら枕に顔を沈めている。
「ハーヴィ様、大丈夫ですか? 冷たいタオルを持ってきますね」
メルナが心配そうに彼の額に触れようとした、その時だった。
熱で理性のタガがわずかに緩んでいたのだろう。
ハーヴィはメルナの手首を逃がさないと言わんばかりの力で掴み、そのままベッドの方へとぐいと引き寄せた。
「ひゃっ!?」
重心を崩したメルナは、ハーヴィの胸元へと倒れ込む。
慌てて起き上がろうとするが、ハーヴィの両腕が鉄の鎖のように彼女の腰に回され、がっしりと固定されてしまった。
「……離さないよ。メルナ……」
「ハ、ハーヴィ様!? 気分が悪いんですよね!? マ、マフラーも外しましょう、汗をかいてしまいます!」
メルナは彼の体温を下げるために、まだ首に巻かれたままの赤いマフラーを解こうと指をかける。
しかし、ハーヴィは目眩で顔を歪めながらも、頑なにそのマフラーを両手で握りしめた。
「駄目だ……これだけは、絶対に外さない。これは、僕にとって最も効率的な……君の愛の安定剤なんだ……」
「安定剤!? そんな理屈いいですから! お顔が真っ赤ですよ!」
「視界は回っているけれど……このマフラーの感触と、君の匂いだけは……はっきりとわかる。不思議だね。これに包まれていると、どれだけ激しい目眩の中でも、僕の魂だけは君の側に……繋ぎ止められている気がするんだ……」
目蓋を閉じ、熱い吐息を漏らしながら囁くハーヴィ。
その声は熱に浮かされているせいか、普段よりもさらに低く、独占欲を剥き出しにした甘い響きを帯びていた。
「ハーヴィ様……」
「メルナ……早く、春にならないかな……君を、あの純白のドレスで包み込んで……僕のものだと、世界中に宣言したい……それまでは、この赤い糸が……僕と君を繋ぐ、唯一の鎖だ……」
魔力酔いのせいでポツリ、ポツリと漏らす、重すぎるほどの本音。
それは、普段彼が公爵として、そして優しい夫として理性の裏に隠している、切実なまでの執着だった。
メルナは顔を林檎のように真っ赤にしながらも、彼の胸に顔を埋め、抵抗するのをやめた。
「……わかりました。マフラー、つけたままにしておきましょうか」
「……ああ……あと、もう一つだけ……薬を、くれないかい……?」
「お薬ですか? 今、オリバーさんに……」
「違うよ……君にしか、処方できないやつだ……」
ハーヴィは薄く目を開け、とろけるような灰色の瞳でメルナを見上げた。
そのまま彼女の首筋に顔を寄せ、熱い唇を耳元に寄せる。
「……口づけを。そうすれば、この目眩も……少しは、落ち着く気がするんだ……」
それが熱に浮かされた上での甘えなのか、それとも目眩を口実にした計算されたおねだりなのかはわからない。
けれど、こんなにも弱々しく、自分を求めてくる彼を拒めるはずもなかった。
「……もう。本当に、しょうがない人なんだから……」
メルナは困ったように微笑むと、そっと目を閉じ、熱い息を吐く彼の唇へと自身のそれを優しく重ねた。
冬の終わりの気配が漂う寝室。
赤いマフラーで繋がれた二人の間には、調律の光よりもさらにあたたかい幸福の色が満ちていた。
春に挙げる結婚式の約束と、今、重なり合う体温。
外ではまだ雪が残る冷たい風が吹いているが、アリストン公爵家の主寝室だけは春の陽だまりのような甘い静寂に包まれていた。




