17 完成したマフラー
初雪が舞い降りた朝から数日後。
ゼネ・レア王国は本格的な冬の寒さに包まれ、吐く息は白く、水たまりには薄らと氷が張る季節となっていた。
アリストン公爵家本館のあたたかなサロン。
暖炉の火がパチパチとはぜる心地よい音の中、メルナは手元の毛糸と編み棒を真剣な表情で見つめていた。
ここ数日、ハーヴィが王城へ出仕している間、彼女はジェイミーの指導を受けながらずっとこの赤い毛糸と格闘してきたのだ。
不器用な自分に苛立ち、何度も解いては編み直し、夜な夜なこっそりと針を動かし続けた。
そして――最後の一針をふわりと引き抜き、糸端を丁寧に処理した瞬間。
「……できました!」
メルナはぱぁっと朱色の瞳を輝かせ、完成したばかりのそれを両手で高く掲げた。
上質な羊毛で編み上げられた、深い赤色のマフラー。
売り物のように完璧な編み目とはいかない。
少しだけ不揃いなところもあるし、予定していたよりも随分と分厚く、もこもことした仕上がりになってしまった。
それでも、一針一針に「彼を寒さから守りたい」という純粋な祈りと愛情が、ぎっしりと詰め込まれている。
「まあっ……! 奥様、本当に素晴らしい出来栄えですわ!」
隣で見守っていたジェイミーが、自分のことのように手を叩いて喜んだ。
「少し、分厚すぎたでしょうか……? これじゃあ、首が苦しくないかなって……」
「とんでもございません。旦那様は極度の寒がりでいらっしゃいますから、これくらいボリュームがあったほうが絶対にお喜びになりますよ。ああ、早く旦那様が帰っていらっしゃらないかしら。きっと泣いてお喜びになりますわ」
ジェイミーの太鼓判をもらい、メルナはホッと胸を撫で下ろした。
早く、彼に見せたい。
この深い赤色を、彼の首元に巻いてあげたい。
メルナは完成したマフラーを大切に胸に抱きしめながら、ハーヴィの帰りをそわそわと待ちわびた。
◇
すっかり日が落ち、窓の外が群青色に染まった頃。
重厚な玄関の扉が開き、冷たい冬の夜風と共にこの屋敷の主が帰還した。
「お帰りなさいませ、旦那様」
出迎えたオリバーが恭しく上着を受け取ろうとするが、当のハーヴィは公爵としての威厳など微塵も残っていなかった。
「……ただいま、オリバー……そしてメルナ。聞いてくれ、今日の王城の廊下は氷点下だったよ……北区画の会議室なんて、窓の隙間風でインクが凍りかけていた……」
長身を丸めるようにして小刻みに震え、今にも倒れそうな声で訴える若き公爵。
いつもは美しい彼の顔も、今は寒さのあまり鼻の頭と耳の先がこれ以上ないほど真っ赤に染まっていた。
その普段とのギャップと、哀愁漂う姿がどこか可愛らしくて、出迎えたメルナは思わずふふっと笑みをこぼした。
「お疲れ様でした、ハーヴィ様。本当に寒そうですね」
メルナは小走りでハーヴィの前に歩み寄ると、背中に隠し持っていたそれをふわりと広げた。
「え?」
ハーヴィが驚いて灰色の瞳を見開くのと同時に、メルナは背伸びをして、深い赤色のマフラーを彼の首元へとぐるぐると巻きつけた。
漆黒の髪に、鮮やかな赤色が驚くほどよく映える。
メルナは最後に首元で形を整えると、少しだけ照れくさそうに上目遣いで彼を見上げた。
「あの……ハーヴィ様がすごく寒がりだから、内緒で、編んでいたんです。初めて作ったので、少し不格好ですけど……」
突然首元を包み込んだ、ふかふかで圧倒的なあたたかさ。
そして愛する妻が自分のために、内緒でマフラーを編んでくれていたという衝撃の事実。
「僕のために……? 君が、これを……?」
ハーヴィの顔から、寒さによる震えがピタリと止まった。
その代わりに、彼の少し青みを含んだ灰色の瞳から、限界を突破した歓喜と、どうしようもないほどの愛おしさがドクドクと溢れ出していく。
彼は巻かれたばかりの分厚いマフラーに顔の半分をうずめ、まるで信じられない奇跡に直面したかのように、熱い呻き声を漏らした。
「……っ、奇跡だ。僕の妻は女神かもしれない。いや、間違いなく女神だ。なんてあたたかいんだ……君の愛情が直接編み込まれているようだ……っ」
「め、女神だなんて大げさですよ、ハーヴィ様」
「大げさなものか。この世のどんな国宝よりも価値がある。ありがとう、メルナ……愛しているよ……っ」
ハーヴィは玄関ホールだということも忘れ、メルナをきつく抱きしめて、赤いマフラーの感触と彼女の体温を全身で噛み締めた。
◇
さて、ここからが問題であった。
着替えを済ませ、あたたかいダイニングテーブルへと移動した夕食の席。
「……旦那様」
スープ用の銀の匙を取り分けたオリバーが、呆れを含んだ声で主を呼んだ。
「お食事中は、さすがにそのマフラーをお外しになってはいかがでしょうか。今夜のメインはビーフシチューでございます。もしソースが跳ねて、奥様のお手製マフラーにシミがついてしまっては一大事かと存じますが」
そう。
ハーヴィは部屋着に着替えたにもかかわらず、首元にはあの分厚い赤いマフラーをしっかりと巻いたまま、優雅にディナーの席に着いていたのだ。
「問題ない、オリバー。僕は子供じゃないんだ、ソースをこぼすような真似はしない」
ハーヴィは真顔で即答した。
しかし、もこもことしたマフラーのボリュームのせいで、彼が顎を引くたびに生地が口元に当たりそうになっている。
どう見ても食べにくそうだ。
「ハーヴィ様……オリバーさんの言う通り、ご飯の時くらいは外しても……」
作った本人のメルナでさえ、見かねて苦笑いしながら口を挟んだ。
しかし、ハーヴィは断固として首を横に振った。
「嫌だ。これは僕の命の次に大事な防寒具だ。外すわけにはいかない」
「命の次、ですか……」
「そうだ。君の愛が編み込まれたこのマフラーは、僕の冷え切った心と身体を守る絶対防壁だからね。お風呂に入る直前まで、一秒たりとも外すつもりはないよ」
大真面目な顔で、どこか誇らしげに言い切る公爵閣下。
そのあまりにも子供じみた、けれど深い愛情ゆえの意固地な姿に、壁際に控えていたジェイミーがついに堪えきれず「ぷっ……ふふっ」と吹き出した。
オリバーも手で口元を覆い隠し、深く刻まれた皺をさらに深くして、肩を震わせて笑いを堪えている。
「……なるほど。当家は代々、一度手に入れた宝は決して手放さない家系でございますからね。旦那様も、ご立派なアリストンの血を引いておられるということで、納得いたしました」
オリバーの生温かいからかいの言葉に、メルナは顔から火が出るほど恥ずかしくなり、両手で顔を覆ってしまった。
しかし当のハーヴィは全く気にする様子もなく、赤いマフラーに顔を埋めながら、ご機嫌な様子でビーフシチューを口に運んでいた。
◇
食後、ようやく一息ついた二人はサロンの暖炉の前にある大きなソファに並んで腰を下ろした。
パチパチと燃える炎が、部屋をオレンジ色に優しく照らし出している。
当然のように、ハーヴィの首にはまだマフラーが巻かれたままだ。
「……見せてごらん、メルナ」
ハーヴィは横に座るメルナの小さな手を、自らの大きな手でそっと包み込んだ。
そして、彼女の指先をそっと親指で撫でる。
何度も針を動かし毛糸と擦れたことで、メルナの人差し指と中指の側面は少しだけ赤くなり、薄い編みダコができかけていた。
「僕のために、こんなに長い時間、針を動かしてくれたんだね」
ハーヴィは底知れぬ愛おしさを込めて眉を下げると、彼女の赤い指先に、一つひとつ、祈るように優しく熱い口づけを落としていった。
微かな音と、指先に触れる彼の唇の柔らかさにメルナの心臓が大きく跳ねる。
「あ、あの……全然痛くありませんから……っ。ただ、少し擦れただけで……」
「君が僕のために費やしてくれた時間の証だ。本当に……どれだけ感謝しても足りないよ」
ハーヴィの灰色の瞳が、暖炉の火を反射してとろけるように甘く光っている。
彼はメルナの腰に腕を回すと、そのまま彼女の身体をぐっと引き寄せた。
「そうだ、せっかくなら、こうしよう」
ハーヴィは自分の首に何重にも巻かれていたマフラーの端を長めに解くと、それを隣に座るメルナの首にもくるりと巻きつけた。
ただでさえ近い距離が、マフラーで繋がれたことによってさらに密着し、お互いの鼓動が聞こえるほどの至近距離になる。
「ハーヴィ様っ、これじゃあ近すぎ……っ」
「ん? 嫌かい?」
「嫌じゃ、ないですけど……っ」
顔を真っ赤にして俯くメルナの淡い青色の髪に、ハーヴィは自身の頬をすり寄せるようにして深く息を吸い込んだ。
その落ち着く甘い香りと、首元を包み込む不器用で分厚い毛糸の感触に、ハーヴィの心はこれ以上ないほど満たされていく。
ふと、彼は何か大切なことを思い出したように、少し身体を離して灰色の瞳をわずかに見開いた。
「……そういえば、メルナ」
「はい?」
マフラーで繋がれたまま小首を傾げる愛らしい妻に、ハーヴィはどこか真剣な声音で問いかけた。
「今度の冬の調律が、無事に終わったら……」
彼はメルナの小さな手に再びそっと触れ、そのまま隙間を埋めるように指を絡め合わせる。
「僕たち、結婚式を挙げないかい?」
「え……っ?」
突然の提案に、メルナは朱色の瞳を丸くした。
思えば辺境の森から公爵家に嫁いできてからというもの、大樹の調律や夜会のお披露目、淑女教育と慌ただしい日々が続き、正式な儀式としての結婚式は挙げていなかったのだ。
「もともと、君には突然の輿入れで苦労ばかりかけてしまったからね。アリストン公爵家の妻として、そして僕が世界で一番愛する女性として……皆の前で、ちゃんと誓いを立てたいんだ」
ハーヴィはメルナの目を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑んだ。
「君に、世界で一番綺麗なウェディングドレスを着せてあげたい」
「ハーヴィ様……っ」
その真っ直ぐで愛情深い言葉に、メルナの胸の奥がぎゅっと熱くなる。
森で化け物と忌み嫌われ石を投げられていた自分が、純白のドレスを着て皆に祝福されながら、彼と永遠の愛を誓い合う――。
そんな夢のような未来を、彼が用意してくれようとしている。
「結婚式……私、が……」
「ああ。駄目かな?」
少しだけ不安そうに眉を下げる彼に、メルナは嬉し涙をこぼしそうになりながら、繋いだ手にぎゅっと力を込めて頷いた。
「いいえ……っ。とっても、とっても嬉しいです……!」
暖炉の炎が、赤いマフラーで繋がれた二人をあたたかく照らしている。
窓の外の寒さも、心の奥に忍び寄る名状しがたい不安の影も、今はすべてこの深い赤色のぬくもりの中に溶けていく。
冬の調律と、その先にある最高に幸せな未来への約束を胸に抱きながら――二人の甘く平和な夜は、静かに更けていった。




