16 初雪の朝
光の届かない、深い、深い森の中。
メルナは立っていられないほどの猛烈な空腹感に襲われ、冷たい土の上に膝をついていた。
胃の腑が燃えるように熱く、チリチリと焼け焦げるような感覚がある。
何かを――莫大な何かを今すぐに摂取しなければ、自分という存在そのものが消え失せてしまうのではないか。
そんな、正体不明の底なしの飢えに全身がガタガタと震えていた。
そんな彼女の隣に、いつの間にかハーヴィが立っていた。
漆黒の髪を揺らす彼は、慈しむような、そしてどこか切ないような灰色の瞳でメルナを見つめると、手にした大きな籠から次々とそれを取り出した。
こんがりと黄金色に焼かれた食パンの間から、分厚く切られた香ばしいハムと、とろとろの半熟卵、そして溢れ出さんばかりの濃厚なチーズが溶け出している熱々のホットサンドだ。
「……さあ、食べなさい。メルナ」
ハーヴィの大きな手によって、熱々のホットサンドがメルナの小さな口へと優しく詰め込まれる。
サクッ、という小気味よい音が頭の中に響く。
卵の黄身のまろやかさと、チーズの絶妙な塩気が口いっぱいに広がり、たまらなく美味しい。
一つ、二つ、三つ……。
喉を通るたびに空腹が癒えるかと思いきや、四つ目、五つ目を喉の奥に詰め込まれても、メルナの内に渦巻く飢えは一向に収まる気配がなかった。
どれだけ食べても、どれだけ熱を与えられても、お腹の中にある巨大な空洞が満たされることはない。
(――もっと。もっと、私を満たして……っ)
意識が朦朧とし、どこまでも深い穴の底へと落ちていくような感覚の中。
六つ目のホットサンドを口に押し込まれそうになったところで、メルナは唐突に現実へと引き戻された。
「……んっ……」
微かな吐息とともに、朱色の瞳がゆっくりと開く。
視界に飛び込んできたのは、高く澄んだ天蓋付きのベッドの天井ではなく、至近距離で見つめてくる優しげな灰色の瞳だった。
ハーヴィが隣で肘をついて横たわり、寝起きのメルナの顔をひどく愛おしそうに眺めていたのだ。
「……おはよう、メルナ。いい夢を見ていたかい?」
少し低めの、朝の微かな掠れを含んだ色気のある声。
メルナはまだ夢の名残で頭がぼんやりとしていたが、ハーヴィの美しすぎる顔が目の前にあることに気づき、一気に覚醒した。
「ハ、ハーヴィ様……おはようございます。あの、私……」
「ふふっ。よっぽどお腹が空いていたんだね。寝言で『まだ、食べられます……っ』なんて、すごく必死に訴えていたよ」
「……っ!!」
夢の中の恥ずかしい光景を完璧に言い当てられ、メルナは爆発しそうなほど顔を真っ赤にして、あたたかい羽毛布団を自分の鼻先まで勢いよく引き上げた。
あの凄まじい飢えの感覚。
次々と食べ物を詰め込まれる、恥ずかしくも幸せな光景。
単なる食いしん坊の夢だと言われればそれまでだが、メルナの胸の奥には昨日の一件から引きずっている真っ黒な不安の雫が落ちていた。
(昨日、あの人に……レグルスさんに、飢えているなんて言われたから、あんな夢を……?)
白金色の髪をした、得体の知れない天才魔導師。
彼との遭遇は、メルナの心に確かな影を落としていた。
自分の魔力はただ溢れているだけではなく、周りを喰らおうとしているのではないか。
けれど、その不安をハーヴィに打ち明けることはできなかった。
ただでさえ国の重責を担って忙しい彼に、確証のない不安で余計な心配をかけたくはなかったし、何よりこのあたたかくて幸せな朝の空気を得体の知れない化け物の話で壊したくなかったのだ。
「……今日は一段と冷えるな」
ハーヴィが布団の中に滑り込み、考え事をして固まっていたメルナの華奢な身体を背後からすっぽりと包み込むように抱き寄せた。
彼の大きな手から伝わる確かな体温と、落ち着く森の朝露のような香りが夢の中で感じた不気味な空腹感をじわりじわりと溶かしていく。
「あ……あの、ハーヴィ様。外の様子、見てみてもいいですか?」
メルナは彼の腕の中から少しだけ手を伸ばし、枕元の分厚いカーテンをわずかに開けた。
窓の外を見た瞬間、彼女は「あ……っ」と感嘆の声を漏らし、朱色の瞳をキラキラと輝かせた。
むき出しになった大樹の巨大な枝々や、手入れの行き届いた庭園の石畳がうっすらと白く、繊細な粉砂糖をまぶしたように覆われている。
高く澄んだ冬の空からは、音もなく白い結晶がひらひらと舞い降りていた。
「ハーヴィ様、雪です! 初雪ですよ!」
「雪……?」
ハーヴィも身体を起こし、メルナの肩越しに窓の外を眺めた。
彼は一度、「どれくらい積もっているんだ?」とベッドから出ようとして足先を外に投げ出したものの、部屋を満たす冬の鋭い冷気に足首が触れた瞬間、目に見えてビクッと肩を震わせた。
そして、流れるような無駄のない動作で再び布団の中へと潜り込み、メルナを背後から先ほどよりもさらに強く、ぎゅっと抱きしめ直した。
「……やっぱり、今日はお休みにしよう。この寒さの中、王城まで馬車を走らせるなんて人道的ではない」
「ふふっ、何をおっしゃっているんですか。お仕事、遅れちゃいますよ。ほら、起きてください」
「嫌だ。君というこの世で最もあたたかくて可愛い人間がここにいるのに、極寒の王城へ旅立つ勇気なんて、今の僕には微塵もないよ……」
「行きたくない、離れたくない」と駄々をこねるハーヴィを、メルナはくすくすと笑いながらも、最後には「頑張ってください!」と毛布を剥ぎ取るような勢いでお仕度へと送り出した。
◇
寝室での激しい攻防戦を終え、ようやく着替えを済ませた二人が食堂へ向かうと、ジェイミーが腕によりをかけた朝食がテーブルに並べられていた。
そこに乗っていた銀の皿を見て、メルナは思わず息を呑んで目を見開いた。
「……あ」
そこにあったのは先ほどの夢で見たのと全く同じ、こんがりと焼かれたパンの断面からハムと卵とチーズがとろとろに溶け出しているホットサンドだったのだ。
「あら、奥様。昨日、旦那様が『明日の朝はメルナと一緒に、あたたかいホットサンドを食べたい』と料理長に直々にリクエストなさっていたのですよ。お気に召しませんでしたか?」
「いえ……! とっても、嬉しいです。いただきます……っ」
夢の中で感じたようなあの底なしの恐ろしい飢えは、今は感じない。
サクッ、と音を立てて頬張ると、とろけるチーズの塩気とあたたかさが胃の腑へとじんわりと染み渡っていく。
向かいの席に座るハーヴィは、メルナが美味しそうにホットサンドを頬張る姿を瞳を細めてひどく満足そうに眺めていた。
朝食後、後ろ髪を引かれながら「必ず定時に帰るからね」と何度も念を押して王城へ向かったハーヴィを見送り、メルナは本館のあたたかいサロンへと向かった。
暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てる中、彼女は自分の籠を取り出した。
中に入っているのは先日王都でこっそりと購入した、あの深い赤色の毛糸だ。
「奥様、編み物は初めてでしたわね。まずは、この針の持ち方から始めましょうか」
「はい、よろしくお願いします。ハーヴィ様、本当に寒がりですから。冬の寒さが本格的になる前に、間に合わせたいんです」
ジェイミーの丁寧な指導を受けながら、メルナは一針一針、ゆっくりと編み進めていく。
ハーヴィの黒髪に絶対に似合うであろう、深い赤色。
彼が私を不安や恐怖から守ってくれるように、私も彼を冬の寒さから守ってあげたい。
そんな純粋な願いが、不器用ながらも一生懸命な編み目の一つひとつに込められていく。
窓の外では、初雪が世界を白く染め上げながら降り続いている。
図らずもレグルスが指摘した魔力の飢えという不安な予兆は、ハーヴィが用意したとろけるホットサンドとメルナが編む真っ赤なマフラーの糸によって、束の間のあたたかな平穏の中に隠されていった。
けれど、一編みごとに深まっていく冬の気配と共に。
夢の中で感じたあの底なしの飢えの感覚だけが、メルナの胸のずっと奥底で確かな熱を持って燻り続けていることに――まだ、気づいていなかった。




