星形の朝と、こぼれた言葉
王都の城壁が、街道の先に見え始めた頃だった。
シュウは少し立ち止まった。エルナが「なんとなく、こちらへ」と言うたびに、道が王都方面に向いていた。気づいていなかったわけではない。ただ、理由を聞く必要を感じなかった。この旅に目的地はない。エルナにあるなら、それでいいと思っていた。
三人の足が、自然と遅くなっていた。エルナは城壁をまっすぐ見ていた。その瞳には、懐かしさと、それ以上の重い決意が混ざっている。ベアトリーチェは扇子を握りしめたまま、何も言わなかった。
「エルナ、ベアトリーチェ……お昼にしよう」
シュウが静寂を割ると、エルナが「そうですね」と言った。返声が、わずかに上ずっている。
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街道脇の広場には、休息をとる隊商の姿があった。王都に入る前の最終確認をする商人たちが、焚き火を囲んでパンを齧っている。シュウたちもその端に腰を落ち着けた。
ベアトリーチェだけが、石の上に上品に腰かけながら、城壁の方角をじっと見ていた。
「……エルナ」
「分かっています」エルナが静かに、自分に言い聞かせるように言った。「一つずつ、片付けるつもりです」
ベアトリーチェが何か言おうとして、やめた。扇子を一度開き、パチンと小気味よい音を立てて閉じた。それは彼女なりの、激励の作法だったのだろうか。
シュウは黙って鞄を開けた。重苦しい空気には、美味いものを放り込むのが一番だ。
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「なにそれ」
唐突に声がした。
荷馬車の陰から、少年が顔を出していた。十二、三歳くらいだろうか。日焼けした丸い顔、跳ねた黒髪。目が、見たこともない道具への好奇心でらんらんと輝いている。
「型だ」とシュウが答えた。
「なんの型」
「目玉焼きの」
少年が「は?」という顔をした。この世界の常識では、卵はただ割って焼くものだ。形を整えるという概念そのものが存在しない。
シュウが鉄板を焚き火の端に置き、油を薄く引いた。取り出したのは、鮮やかな色彩のシリコン製の型だった。五つの突起が均等に伸びた、星の形をしている。【シリコン目玉焼き型】。英知が詰まった、遊び心の結晶だ。
型を鉄板に置き、卵を一つ、中央に割り入れた。
しゅ、という軽快な音が、広場の喧騒を吸い込んでいく。
少年が、吸い寄せられるように一歩前に出た。
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バターの甘い香りと卵の脂の香りが混ざり合って、広場の空気に溶けていく。周囲の商人たちも、その異様な光景に気づき、一人、また一人と首を伸ばし始めた。
シュウが型をそっと持ち上げた。
そこに現れたのは、奇跡のような造形だった。
五つの角が均等に伸び、白身の縁は焦げ目一つなくきれいに焼き固まっている。黄金色の黄身がちょうど中心で、まるで宝石のようにとろりと光を反射している。歪みも欠けもない、完璧な「星」の形。
シュウは手際よく食パンを半分に切り、ハムを一枚乗せ、その上に星形の目玉焼きを移した。
少年は言葉を失っていた。
白いパンの雲の上に、薄紅色の絨毯。そして頂点に君臨する黄金の星。
「……食べますか」
少年が「う、うん」と喉を鳴らした。生意気だった表情はどこかに消えていた。
一口かじると、弾力のある白身が弾け、濃厚な黄身があふれ出した。それがハムの塩気と混ざり、パンの気泡に染み込んでいく。少年の目が、零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「……うまい!」
「もう一つ作りますか」
「いいの?!作って! 頼むよ!」
エルナが隣で、ふふっと小さく噴き出した。シュウのペースに巻き込まれるのは、王都の子供も同じらしい。
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「次は違う形ないの?」
少年が二枚目を飲み込むように食べ終え、食い気味に聞いた。
シュウが鞄に手を入れ、ガサゴソと音を立てる。出てきたのは、愛らしいハート型のシリコン型だった。
「おっ、すげえ!」
シュウが黙って卵を割り入れる。しゅ、という音。熟練のタイミングで型を持ち上げる。
鉄板の上に、愛の象徴のような目玉焼きが咲いた。
「すごっ」
「次」とシュウが言って、魔法のように型を差し替えていく。
花びら型。六枚の花弁が完璧に描かれる。
「うわあ」
「次」
ふくろう型。卵を二つ割り入れる。白身がふくろうの輪郭を形作り、二つの黄身がちょうど大きな目玉の位置に収まった。
「なにこれ!! 魔法かよ!」
「次」
かめ型。うさぎ型。くま型。
シュウが鞄からシリコンを取り出すたびに、少年の歓声が上がり、いつの間にか商人たち全員が仕事を放り出して包囲網を作っていた。「次はトカゲじゃねえか?」「いや、あれは犬だろ!」と勝手な賭けまで始まっている。
エルナはもう、お腹を押さえて笑っていた。ベアトリーチェは扇子で口元を隠し、貴婦人の体面を保とうとしていたが、その肩は激しく揺れ、瞳には涙さえ浮かんでいた。
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何枚目かのパンにのった「くま型」を、耳の先まで大事そうに食べ終えた少年が、シュウを見上げた。
「……なあ、おじさん。なんでこんなの作れるの?」
「知識として持っていた。それと、この型を考案した連中がいたからだ」
「そうじゃなくてさ」少年が首を傾げた。「なんで作ろうと思ったの? 目玉焼きなんて、普通に焼けば腹は膨れるじゃん。なんでわざわざ、こんなに面倒なことをするんだ?」
シュウが少し考えた。その答えは、自分でも意外なほどすぐに見つかった。
「楽しいからだね」
少年が「ふーん……」と言って、くまの耳の部分を噛み締めた。
エルナの手が、ぴたりと止まった。
シュウが「楽しい」という言葉を口にするのを、彼女は一度も聞いたことがなかった。道具の合理性を説く時も、圧倒的な策で敵を陥落させる時も、彼は常に冷徹で淡々としていた。
それが、少年の無邪気な問いに対し、最も非合理で、最も人間らしい一言で答えたのだ。
「……そういうところもおありなシュウ様が、一番好きです」
声は吐息のように小さかった。ほとんど独り言だった。
シュウは次の型を鞄から探していた。聞こえていたかどうか、分からなかった。
ベアトリーチェだけが、エルナの横顔をちらりと見た。それから、再び城壁の方角へと視線を戻す。扇子の陰で、彼女もまた、小さく微笑んでいた。
その穏やかな表情は、誰にも見られぬまま風に消えた。
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少年はトトと名乗った。王都でも指折りの鍛冶屋の息子で、今日は学校をサボってこの広場で暇を潰していたらしい。
「いい加減、帰りなさい」とエルナが、姉のような口調で嗜めた。
「もう一個! あと一個食べたら帰るから!」とトトが粘る。
「帰りなさい。職人の息子なら、親の背中を見て学びなさい」
「ハート型、もう一回だけ見せてよ——」
「さすがにもう、おしまいですよ」
トトはしぶしぶ立ち上がった。だが、その足取りは来る前よりずっと軽やかだった。去り際、彼はシュウを力強く振り返った。
「……おじさん、また来る? また焼いてくれる?」
「また通りかかることがあれば。その時は、新しい型を仕入れておこう」
「絶対だよ! 約束だ!」
トトが砂煙を上げて走っていった。
静寂が戻り、三人の前には依然として、巨大な城壁が立ちはだかっていた。
(この国はまだ知らない。100円の本当の価値を)
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同じ頃、王都の外れの街道を、一人の男が悲壮な覚悟で小走りに来ていた。
肩で息をし、足元は泥にまみれている。三日三晩、彼は街道を走り続けていた。手に持った革の封筒は汗で変色しているが、その中身だけは死守していた。
封筒には王宮の紋章ではなく、王宮料理長の個人的な印が押されている。
広場に佇む三人の旅人――特に、鞄を傍らに置いた黒髪の男を見つけた時、男は膝をついて大きく息を吐いた。そして、震える足で真っ直ぐに歩み寄った。
「……シュウ=ランスター様、でございますか」
シュウがゆっくりと振り返った。
男は封筒を差し出した。
「王宮料理長ガストフ様より、至急の書状をお預かりしております」




