第一章第弐記「事変」 上
此処から読んでもあまり問題がないかも。
初めて主人公が登場します。
「母上、母上! 母上ぇぇぇぇ!!」
闇夜に浮かぶ妖艶な月が水面に映る。
一点の雲もとどめぬ空である。
街路には篝籠が等間隔に設置され、その中で篝火が煌々と燃えていた。
風雅の趣があるこの街に悲痛な叫び声が木霊していた。
「ああああああああああああぁぁぁぁ!! 何処だ!! 何処へやった!!」
声からは憎悪の感情が伺える。
月光に照らされることの無い脇道に二人の男がいた。
片や身なりの整った爽やかな青年であり片や全身黒尽くめの大変人相の悪い男である。
「母上を、母を、妹を何処へやった!!」
先ほどの叫び声の主はこの青年なのだろう。端整な顔を憤怒に歪ませながら黒尽くめの男を揺すっている。
「へ、へぇへへへ。知らねぇよ。何分俺は下っ端でなぁ……重要な事は何時も教えてくれねぇんだよ」
男は如何にもな振る舞いを見せていた。
盗賊や乞食の出なのだろう品行の良し悪し以前の問題である。
「ぬ、うぅ…………糞っ!!」
青年は懐から剣を取り出し、容赦なく切り伏せる。悲鳴など上げさせない早業であった。
「何故、何故こんなことに……守ると父に誓ったのに」
沈痛な面持ちである青年の背後には赤黒き屍が転がっていた。
‡
城下町、王城の目下に位置する街。
此の街には貴族以外にも町衆の者達が住居を得て、自らの技能をもって生計を立てている。生計を立てる手段には際限が無く、その中には日中は働くことの無い仕事や談話をする事によって報酬を貰い受ける仕事など様々だ。そんな町衆のひがな一日に今日は変化があった。ある一件の話でもちきりなのである。
「おい、聞いたか?! 先日の夜中にローウェル家の奥方様が拉致されたそうだ」
「本当か! 確かあそこの家は当主様も此度の戦で亡くなられたではないか……」
「ああ。残されたご子息様達が可哀想だ……たしか兄妹二人ではなかったか?」
「いや、軍部に居るお二方が兄弟が居られた筈だ。それにしてもお可愛そうだ。まだ幼いのに……」
「一体誰がそんな事をしたのだろうか」
「やはり蛮国の者ではないのだろうか?」
「ついに黄の国が動き始めたとかも有り得るかもしれないぞ」
「何にせよ行動の意図も実行した者達の素性も分からないのだから幾ら話し合っても意味は無いような気もするのだがなぁ」
「それにしても、ウォーレン様が学業に身を置いて三年、やっと帰省できたというのにこんな事が起こるなんて災難で居た堪れないよ……」
市井の者達の情報網というのは侮ることができない。してはいけない。この事件の話は一晩の間に瞬く間に広がったのである。この話を耳にした者達は可哀想、だとか不憫だ、など同情を禁じえない事だと誰しもが思っていた。だが中には例外もあり、その身を妬む者は嘲笑や軽侮、慰み事だと振舞った。
†
貴族は必ずしも崇められる訳ではなく、妬む者も少なからずは存在する。
その身上が平民の出であれば尚更である。
ローウェル家の当主、シーヴァー=ローウェルは元々、『コソ泥のシーヴァー』という異名で知られる盗人だった。親はどうしようもない馬鹿で幼き頃にのたれ死に孤児となるが盗みを覚え何とか生きていたのだ。ある日先王の御眼がねに適った娼婦、妾の家に偶然にも侵入し捕縛された。だが寛大な心を持つ先王はその境遇に涙し自身の私兵である兵団の見習いとして受け入れることに至ったのである。
恩を仇で返す事も無く、いつか此の恩を返せる時が来るまで生き永らえようとシーヴァーは心に誓った。
努力に才能を重ね従順な先王の犬として次第に地位を固めていき、遂には大貴族の一角に名を連ねるほどになったのだ。
先王の亡き後、その地位は剥奪されるが新王の誕生と共に蒼術騎兵団の団長の座へと後釜に座る。
子にも恵まれ、幸せの絶頂だった。




