青い蝶
本日3話目です。
昼。
白雨の家を出て、このはは森の中を歩いていた。
「……」
特に目的があるわけではない。
ただ、少し歩いてみたかった。
ここへ来てから、家の周りで過ごすことが多かった。
マークへ行ったこともある。
けれど、森をゆっくり歩いたことはなかった。
「思ったより広いな……」
木々の間を歩く。
足元には草。
少し先には小さな川が流れている。
鳥の声が聞こえる。
遠くから獣の鳴き声もする。
このはは足を止めた。
「……」
振り返る。
青い蝶がいた。
いつの間にか、後ろをついてきている。
「お前も来たのか」
青い蝶は、このはの周囲をふわふわと飛ぶ。
「散歩したいの?」
答えはない。
けれど。
なんとなく、楽しそうにしているように感じた。
「じゃあ、一緒に行くか」
このはは再び歩き始めた。
蝶もついてくる。
⸻
しばらく歩いた。
このはは足元を見た。
道端に落ちていた獣の糞を踏みそうになった。
少しだけ身体を傾けて避ける。
「危な……」
そして、その先にあった石を踏んだ。
「うわっ」
転びそうになる。
けれど。
ちょうどそこに生えていた草を掴んだ。
草は思ったより丈夫で、身体を支えてくれた。
「……助かった」
このはは立ち上がる。
その直後。
木の上から、小さな果実が落ちてきた。
ぽすっ。
頭に当たる。
「痛っ」
果実が地面へ転がった。
「なんなんだよ、今日は……」
このはは苦笑する。
けれど。
なぜか悪いことにはならない。
転びそうになっても、どこかで身体を支えられる。
道を間違えそうになれば、偶然にも正しい道へ出る。
喉が渇いたと思えば、少し先に川がある。
「……」
このはは立ち止まった。
「なんか……」
「今日は、妙にうまくいくな」
その時。
青い蝶が、このはの目の前へ飛んできた。
「……?」
蝶が翅を揺らす。
その瞬間。
少し離れた場所から、枝が折れる音がした。
このはが振り向く。
ガサッ。
茂みが揺れる。
獣が出てきた。
大きい。
このはの知らない獣だった。
鋭い牙。
低い唸り声。
「……グルル」
足が止まる。
獣がこちらを見る。
「やば……」
一歩、後ずさる。
獣が身を低くした。
「来る……!」
獣が飛びかかる。
このはは反射的に横へ飛んだ。
爪が服をかすめそうになる。
「うわっ!」
獣が振り返る。
再びこちらへ向かってくる。
「逃げないと……!」
立ち上がろうとした。
その瞬間。
獣が足元の石に躓いた。
「……グル!?」
獣が足を取られる。
身体が大きく傾き
そのまま斜面を転がっていく。
「……え?」
獣は木にぶつかり、しばらく動かなかった。
「……」
このはは呆然とする。
助かった。
でも。
あまりにも都合がよすぎる。
その時だった。
青い蝶が、目の前へやってきた。
「……もしかして」
このはは蝶を見る。
「今日、なぜかうまくいくのは……お前のおかげなの?」
蝶は答えない。
けれど。
ふわりと、このはの周囲を飛んだ。
なんとなく。
嬉しそうに感じた。
このはは笑った。
「ありがとう!」
蝶がこのはの周囲をもう一度飛ぶ。
「助けてくれたんだな」
青い蝶が、このはの肩へ止まった。
その小さな身体から。
言葉ではない何かが、このはの中へ流れ込んできた。
――よかった。
そんな感情。
そして。
――このは。
「……!」
このはは目を見開いた。
「今……」
声が聞こえたわけではない。
けれど。
確かに分かった。
この蝶が、自分に何かを伝えた。
蝶が翅を揺らす。
――ルミナス。
「……ルミナス?」
その瞬間。
頭の中に、その名前が直接刻み込まれたような感覚があった。
音として聞いたわけではない。
誰かに教えられたわけでもない。
ただ。
「ルミナス」
その名前だけが、意味を伴って一気に流れ込んできた。
「……ルミナス」
もう一度、口にする。
青い蝶が嬉しそうに飛び上がった。
「お前の名前、ルミナスなんだな」
蝶がこのはの周囲を飛ぶ。
「やっと教えてくれた」
このはは笑った。
「よろしくな、ルミナス」
蝶が、このはの肩へ戻ってくる。
今度は、その存在が少しだけ近くなったように感じた。
⸻
家へ戻る。
縁側には白雨がいた。
「森へ行っていたんだね」
「ただいま、白雨さん」
このはは庭へ入る。
その肩には青い蝶――ルミナスが止まっている。
白雨はそれを見た。
「……」
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「名前を教えてもらったのかい?」
「はい!」
このはは嬉しそうに答える。
「ルミナスっていうんです」
「そう」
白雨は青い蝶を見る。
「よかったね」
ルミナスが翅を揺らす。
このはは笑った。
「今日、森でこいつに助けてもらったんですよ」
「そうだったのかい」
「何か知らないけど、今日はやたらと運がよくて」
「ふふ」
白雨が微笑む。
「それなら、ルミナスが力を貸してくれたのかもしれないね」
「やっぱりそうですよね」
このははルミナスを見る。
「ありがとうな」
ルミナスは答えない。
ただ。
このはの肩で、青い翅をゆっくりと揺らしていた。




