神隠し
最近、森で妖精を見かけることが増えた。
以前から、この森には気まぐれな妖精たちが暮らしている。けれど、ここしばらくは散歩の途中や家の近くで、その姿を見かけることが多くなっていた。
「……またいたな」
森の小道を歩きながら、俺は近くの枝にとまる小さな光を見つめた。
淡い緑色をした、羽の生えた小さな妖精だ。
こちらに気づくと、妖精は枝から飛び立ち、木々の向こうへと姿を消した。
「最近、本当によく見かけるね」
隣を歩く白雨が言った。
「やっぱり、白雨も気づいてたんだな」
「もちろん。ここは私の森だからね」
白雨は何でもないことのように答えた。
「何か理由があるのかな?」
「さあ、どうだろうね。妖精は気まぐれなものだから。何かに興味を持って集まっているのかもしれないし、特に理由などないのかもしれない」
「そんなものなのか」
「そんなものだよ」
白雨は穏やかに笑った。
妖精というのは、どうにも不思議な存在だ。人間のように明確な目的を持って行動しているとは限らないし、何を考えているのか分からないことも多い。
ルミナスもそうだった。
気づけば近くにいて、気づけばどこかへ行っている。こちらの言葉を理解しているように見えることもあれば、まるで聞いていないような振る舞いをすることもある。
それでも、なぜか嫌いにはなれなかった。
「……ん?」
ふと、視界の端に何かが映った。
木々の間に、小さな影が浮かんでいる。
最初は、また別の妖精かと思った。
けれど、どこか違う。
その姿を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
「どうしたんだい?」
白雨が俺の視線を追う。
「いや……あそこに、初めて見る妖精がいる」
木々の間に浮かんでいたのは、今まで見たことのない妖精だった。
淡い光をまとった、小さな存在。
その姿を詳しく見ようと目を凝らしたとき、妖精がこちらを向いた。
そして――。
嬉しそうに、笑った。
「……え?」
初めて見るはずなのに。
なぜだろう。
その笑顔に、妙な懐かしさを覚えた。
ずっと前に会ったことがあるような。
けれど、いつ、どこで会ったのかは思い出せない。
妖精はふわりと浮かび上がると、まっすぐこちらへ近づいてきた。
「……このは?」
白雨の声が、少しだけ低くなった。
「知ってるのか?」
「いいや。けれど……」
白雨は妖精を見つめたまま、言葉を切った。
その表情から、いつもの穏やかさがわずかに薄れている。
妖精は俺の目の前まで来ると、嬉しそうに身体を揺らした。
まるで、ずっと探していた相手を見つけたかのように。
「……なんだろう。初めて見るはずなのに、見覚えがある気がするんだ」
そう呟くと、妖精はさらに嬉しそうに笑った。
その様子を見た白雨が、一歩前に出た。
「このは。少し下がってくれるかな」
「え?」
「その妖精には、近づかないほうが――」
白雨の声は静かだった。
けれど、いつもの柔らかさとは違う、はっきりとした警戒が感じられた。
その瞬間だった。
妖精が、俺の手に触れた。
「――っ?」
触れられた場所から、淡い光が広がった。
足元の景色が揺らぐ。
まるで、水面に映った景色をかき乱されたように、森の木々が歪んでいく。
「このは!」
白雨の声が響いた。
何が起きているのか、理解できなかった。
身体が動かない。
目の前にいる白雨へ手を伸ばそうとしたけれど、指先が思うように動かなかった。
「白雨……!」
白雨もまた、こちらへ手を伸ばしていた。
その顔に浮かんでいたのは、明らかな動揺だった。
「待って、今――!」
白雨の声が途切れた。
次の瞬間、視界が白く染まった。
そして。
俺の身体は、森から消えた。
白雨の手が、空を掴んだ。
つい先ほどまで目の前にいた、このはの姿はどこにもない。
「……このは?」
呆然と名前を呼ぶ。
返事はなかった。
白雨は周囲を見回し、すぐに妖精へと視線を向けた。
妖精は、何事もなかったかのようにその場に浮かんでいる。嬉しそうな表情も変わらない。
「……君が、やったのかい?」
白雨の声から、温度が消えた。
「このはを、どこへ連れていった!?」
妖精は首を傾げるだけで、答えようとしない。
「……返してくれ」
静かな声だった。
「私の、大切な人なんだ」
それでも、妖精は無邪気に白雨を見つめている。
「……返してくれと言っているんだ!」
声が森に響き渡った。
周囲の草木がざわめき、地面を覆う蔦が一斉に動き始める。けれど、どれほど森が応えようとも、このはは戻ってこなかった。
「……どうして」
白雨の手が震えた。
「どうして、また……」
もう二度と、あの声を聞けないかもしれない。
もう二度と、隣を歩けないかもしれない。
そんな考えがよぎった途端、胸の奥が強く締めつけられた。
「……嫌だ」
かすれた声が漏れる。
「……嫌だよ、このは……!」
白雨はその場に膝をついた。
長い白髪が地面に触れる。いつもなら、どんなことが起きても冷静でいられた。長い時を生き、多くのものを失ってきた。
それなのに、このはを失うことだけは、どうしても受け入れられなかった。
「このは……!」
何度呼んでも、返事はない。
白雨は、何もない場所へ手を伸ばした。
ほんの少し前まで、そこにいた人の温もりを求めるように。
「……お願いだから……」
声が震える。
「……私を、ひとりにしないで……!」
慟哭が、森に響いた。
木々が震え、蔦が地面を這い、紫陽花の花が一斉に揺れる。
森そのものが、主の悲しみに呼応しているかのようだった。
白雨の蔦が妖精を縛り上げる。
それでも、このはは戻らない。
冬の気配が漂う森に、白雨の泣き声だけが響き続けていた。
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