妖と妖精
本日最後の5話連続更新です。
マークから戻ってきた、その日のことだった。
このはは縁側に座り、庭を眺めていた。
紫色の花が風に揺れている。
その花の上には、一匹の青い蝶がいた。
青い翅をゆっくりと動かしている。
「……」
このはが見つめていると、青い蝶は花から飛び立った。
ふわり。
このはの目の前を横切る。
そして、そのまま戻ってきて指先へ止まった。
「お」
このはは少し驚きながらも、動かずにいる。
「そういえばさ」
青い蝶を見ながら、ふと思いついたように尋ねる。
「お前って、名前とかあるの?」
返事はない。
当然、声も聞こえない。
ただ、小さな翅が一度だけ揺れた。
「……」
このはは少し笑う。
「まあ、分かるわけないか」
青い蝶は指先から飛び立ち、今度は白雨の肩へ止まった。
「白雨さん」
「うん?」
「この子って、名前とかあるんですか?」
白雨は肩の青い蝶を見る。
「どうだろうね」
「白雨さんも知らない?」
「うん。この子個人について、私は詳しく知らないから」
「なるほど」
このはは青い蝶を見る。
「じゃあ、こういう妖精って、珍しいんですか?」
「そうだね。少なくとも、気軽に出会えるようなものではないよ」
「そうなんだ」
「妖精はね、ほとんど伝承や伝説に近い存在なんだ」
「伝説……?」
「うん。『妖精に会いたい』と思ったからといって、会えるような存在でもない」
「じゃあ、俺たちはかなり運がいい?」
「そうかもしれないね」
白雨が青い蝶を見る。
「ただ、この子が何を考えているのかまでは、私にも分からないよ」
「白雨さんでも?」
「妖精は妖精だからね」
「……なんか、すごい存在なんですね」
「そうだね」
このはは少し考えた。
「でも、妖精って何なんです?」
白雨は少しだけ考えてから答えた。
「妖と精霊の子なんだ」
「……妖?」
このはが首を傾げる。
「妖って、何ですか?」
「ああ」
白雨は頷いた。
「そこから話していなかったね」
「はい」
「では、順番に話そうか」
白雨は湯飲みを置いた。
「まず、妖というのは――物質や概念そのものが、人々の認識によって成立すると同時に生まれた存在なんだ」
「物質や概念そのもの……」
「うん」
「妖が後から、それを司るようになるんじゃなくて?」
「違うよ」
白雨は静かに首を振った。
「対象となる物質や概念と、それに対応する妖は同時に成立する」
「……」
このはは少し考える。
「例えば?」
「例えば、『時間』という概念が人々に認識されて成立したなら、時間そのものと、それに対応する妖が同時に誕生する」
「なるほど……」
「だから妖というのは、何かの後から生まれた守護者や管理者というわけではないんだ」
「そのものなんですね」
「そういうことだね」
このはは庭を見る。
「じゃあ、植物にも妖がいる?」
「いるよ」
白雨は淡々と答える。
「植物という概念が成立した時、植物そのものに対応する妖も誕生した」
「……」
このはは、無意識に白雨の袖を見る。
そこから紫色の蔦が一本、静かに伸びていた。
「……」
やはり気になる。
けれど、まだ聞かない。
「じゃあ妖って、みんな同じようなものなんですか?」
「いいや」
白雨は首を振る。
「生まれた物質や概念によって、それぞれ違うよ」
「性格も?」
「性格も、力もね」
「人間に悪いことをする妖も?」
「いるよ」
「じゃあ、妖って怖いものなんですか?」
「そういう妖もいるね」
白雨は穏やかに答えた。
「けれど、妖だから悪いというわけではないよ」
「人間と同じか」
「そうだね」
「良い人も悪い人もいる」
「妖も同じさ」
このはは頷いた。
それから、先ほどの話を思い出す。
「じゃあ、精霊は?」
「精霊?」
「前に見せてもらった火の精霊です」
「ああ」
白雨が頷く。
「妖とは違うんですか?」
「違うね」
「どう違うんです?」
「精霊は、自然現象そのものだよ」
「自然そのもの?」
「うん。自然現象に、実体と意思が宿った存在なんだ」
「火そのものが精霊?」
「そういうことだね」
「じゃあ妖は物質や概念そのもの」
「そう」
「精霊は自然現象そのもの」
「うん」
「妖も精霊もそれだけって、わけじゃないんだけどね
そのあたりはまた今度話してあげよう」
このはは指折り数える。
「じゃあ、妖精は……」
白雨が青い蝶を見る。
「さっき伝えた通り、妖と精霊の子なんだ
妖と精霊、両方の性質を併せ持つ特殊な存在。
時計の秒針などを見たとき、一秒が異様に長く感じられるなんてことはないかい?」
「言われてみればそういう経験もありますね」
「そういった現象を、起こしているのが妖精と言われているんだ」
「へえ……」
このはは改めて青い蝶を見る。
小さな身体。
青い翅。
どう見ても可愛らしい蝶にしか見えない。
それが、妖と精霊の両方を受け継いだ存在。
「妖と精霊の中間みたいな存在なんですね」
「そうだね」
白雨は頷く。
「そもそも妖精は、さっき言った通りほとんど伝承や伝説に近い存在だからね」
「そんな存在が、こうして目の前にいるのか……」
「そうだね」
このはは青い蝶を見る。
青い蝶は何も言わない。
ただ、二人の会話など知らないように、白雨の肩からふわりと飛び立った。
そして、このはの目の前を一周する。
「……」
このはは思わず笑った。
「やっぱり、不思議なやつだな」
青い蝶はそのまま花へ降り立った。
「名前も分からないし」
「そのうち、教えてくれるかもしれないね」
「そうだといいな」
このははそう言ってから、ふと白雨を見る。
ここまで話を聞いて。
一つだけ、まだ答えが出ていないことがあった。
「じゃあ……」
「うん?」
「白雨さんも、妖なんですか?」
白雨は、このはを見た。
少しの沈黙。
けれど。
今度は、はぐらかさなかった。
「そうだよ」
「……」
このはは目を瞬かせる。
「やっぱり」
「最初からそう思っていたのかい?」
「なんとなくですけど」
このはは苦笑した。
「最初に会った時から、人間じゃないだろうなって思ってました」
「そう」
白雨は静かに笑う。
「それでも、怖くなかった?」
このはは少し考えた。
そして、初めて出会った時と同じ答えを返す。
「怖いとは思いました」
白雨が少しだけ目を細める。
「でも」
このはは白雨を見る。
「それ以上に、綺麗だと思いました」
白雨は何も言わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ、嬉しそうに笑った。
「……そうかい」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
庭では、青い蝶が紫色の花の間を飛んでいる。
このははその姿を眺めながら思った。
妖。
精霊。
妖精。
この世界には、自分の知らない存在がたくさんいる。
けれど。
白雨と一緒なら。
もっと色々なものを見てみたいと思った。




