紫蔦妖姫
「このは」
「はい?」
朝。
白雨が縁側から庭を眺めながら、このはへ声を掛けた。
「今日はマークへ行こうか」
「マーク?」
「ここから一番近い街だよ」
このはは少し驚いた。
「街があるんですか?」
「もちろん」
「……行ってみたいです」
白雨は頷いた。
「では、支度をするといい」
「はい」
このはは立ち上がった。
マーク。
ここへ来てから初めて聞く名前だった。
そして初めて、白雨以外の人のいる場所へ行くことになる。
---
森を抜ける。
道は次第に広くなっていった。
人の往来も増えてくる。
荷物を運ぶ人。
馬車を引く人。
道端で話をしている人。
このはは周囲を眺めながら歩いていた。
「……結構、人がいますね」
「そうだね」
白雨はいつもと変わらない。
その隣を、このはが歩いている。
二人で並んで歩く。
ただそれだけのことだった。
けれど。
マークの街門が見えてきた頃から、少しずつ空気が変わり始めた。
「……?」
このはが気づく。
道の向こうから歩いてきた人が、こちらを見た。
そして。
足を止めた。
「……」
その人の顔から血の気が引く。
隣にいた人も、視線を向ける。
さらに、その隣の人も。
一人。
また一人。
次々とこちらを見る。
「……白雨さん?」
このはが小声で呼ぶ。
「何かな?」
「なんか……」
言いかける。
その時。
誰かが、震えた声で呟いた。
「……まさか」
別の誰かが答える。
「嘘だろ……」
「紫……」
声が小さい。
聞き取れない。
このはは眉を寄せる。
「どうしたんでしょう」
白雨は答えない。
ただ、前を向いて歩いている。
すると。
街門の男が、こちらへ気づいた。
その顔が強張る。
そして。
「――紫蔦妖姫様……!」
その声が響いた。
門番の男は精一杯腰を曲げて頭を下げている。
空気が止まった。
このはも足を止める。
「……?」
白雨は立ち止まらない。
けれど、このははその場に取り残されそうになって、慌てて追いついた。
「白雨さん」
「うん?」
「今……」
白雨を見る。
「何か別の名前で呼ばれませんでした?」
「……呼ばれたね」
あまりにも平然とした返答だった。
「……何て呼ばれたんですか?」
白雨は少しだけ考える。
「私の二つ名みたいなものかな」
「白雨さんの?」
「うん」
このはは振り返る。
街の人々は、こちらを見ている。
誰も近づいてこない。
誰も声を掛けない。
子供を抱き寄せる者までいる。
「……」
このはは困惑した。
白雨も少し黙った。
「……そうだね」
「?」
「それも、また後で話そうか」
「またですか?」
このはが少しだけ頬を膨らませる。
白雨は微笑んだ。
「君は知りたいことが多いね」
「だって気になるじゃないですか」
白雨はそれ以上答えなかった。
---
二人が街へ入る。
その瞬間。
周囲の人々が、道を開けた。
誰も近づかない。
誰も目を合わせない。
ただ。
恐れている。
このはは、そんな人々を見ながら歩いていた。
「……」
自分の隣には、白雨がいる。
相変わらず綺麗だ。
白い髪。
赤い瞳。
黒い和服。
その姿は、街のどこにいても目立つ。
けれど。
このはには、なぜここまで恐れられているのか分からない。
「白雨さん」
「うん?」
「みんな、白雨さんを見ただけであんなに怖がってますよね」
「そうだね」
「何をしたんですか?」
白雨は少し考える。
「色々かな」
「……」
「でも、君が気にするようなことではないよ」
「そう言われると余計気になるんですけど……」
白雨は小さく笑った。
「ふふ」
「またそうやって誤魔化す」
「ごめんね」
そんなやり取りをしていると。
一軒の店の前で、店主らしき男がこちらを見ていた。
白雨が立ち止まる。
「こんにちは」
男の顔が引きつった。
「……っ」
「少し見せてもらってもいいかな?」
男は慌てて頭を下げた。
「ど、どうぞ……!」
「ありがとう」
白雨は店へ入る。
このはも続く。
店内にいた客たちが、一斉に壁際へ寄った。
「……」
このはは思わず白雨を見る。
白雨は何も気にしていない。
「これを」
「は、はい……!」
「ありがとう」
白雨が品物を受け取る。
そして店を出る。
その間。
誰も白雨に触れようとしなかった。
話しかけようともしなかった。
ただ、恐れながら見ている。
---
街の中央まで来たところで。
このははとうとう口を開いた。
「……白雨さん」
「何かな?」
「もしかして」
少し言いにくそうにする。
「本当はすごく怖い人なんですか?」
白雨は少し考えた。
「そうかもしれないね」
「そうなんだ......」
白雨は前を見る。
「シトウシンキ...?っていう名前は......」
「......」
このはは少し迷う。
「白雨っていう名前より、もしかしてその名前のほうが有名なんですか?」
白雨は一瞬だけ黙った。
「……そうだね」
「へえ……」
このはは街を見る。
誰もが白雨を恐れている。
その「紫蔦妖姫」という名前を知っている。
なのに。
本人は。
「……」
普通に歩いている。
普通に話している。
普通に自分と一緒にいる。
その事実が、少し不思議だった。
「白雨さん」
「うん?」
「俺、ここへ来るまで知らなかったです」
「何を?」
「白雨さんが、こんなに有名だって」
白雨は少しだけ悲しそうに笑った。
「だから、これから知っていけばいいんですよね」
白雨はこのはを見る。
そして。
「そうだね」
柔らかな声で答えた。
その様子を。
街の人々が遠巻きに見ていた。
恐怖に満ちた視線。
このはは知らない。
世界でも有数の恐怖の対象とされる存在と並んで歩いていることが。
そして。
マークの住民にとって――
「紫蔦妖姫が人間と共に街を歩いている」
という光景そのものが、初めて目にする異常事態であることも。
白雨は何も言わない。
---
帰り道、街の上空を青いものが横切った。
「……あ」
このはが顔を上げる。
青い蝶。
見覚えのある、小さな妖精。
「また来た」
青い蝶は二人の周囲を一度だけ回った。
このはの肩へ止まる。
「ふふ」
このはは笑った。
「マークまで来るんですね」
白雨は青い蝶を見る。
「君のことを気に入ったのかもしれないね」
「そうだったら嬉しいな」
このはが指を近づける。
青い蝶は逃げない。
白雨もまた、
いつも通り静かに、このはの隣を歩いていた。
そしてこのはも。
まだ知らないことばかりの世界で。
もっと自分から知りたいと思った。
白雨という存在のことを。




