小さな火
白雨の家で過ごすようになって、数日が経った。
このはは、少しずつこの生活に慣れ始めていた。
この世界で分かったことは、ここがテラリア大陸中央部に
位置する大森林のなかということ。
元の世界には、存在しなかったモノたちが過ごしているということ。
朝起きる。
庭を見る。
白雨と話す。
食事をする。
そして、分からないことがあれば聞く。
もっとも。
「これは何ですか?」
と尋ねても、
「それはまた今度教えよう」
と返されることも少なくなかった。
「……白雨さん、説明を後回しにするの好きですよね」
ある朝。
このはがそう言うと、白雨は湯飲みを持ったまま、少しだけ笑った。
「そうかな?」
「そうですよ」
「急いで知る必要もないだろう?」
「まあ……そうですけど」
「なら、問題ないよ」
「そういうところですよ」
白雨は楽しそうだった。
このはも、つられて笑う。
そんな何気ない時間が、少しずつ当たり前になっていた。
---
その日。
このはは庭に出ていた。
白雨は縁側に座っている。
袖から伸びた蔦が、庭の植物の手入れをしていた。
一本の蔦が伸びて、枯れた葉を摘む。
別の蔦が花の向きを整える。
さらに別の蔦が水を運ぶ。
「……」
何度見ても不思議だった。
「白雨さん」
「うん?」
「やっぱり、それ便利ですよね」
「蔦のことかな?」
「はい」
このはは蔦を見る。
「掃除もできるし、庭の手入れもできるし、料理までできるし」
「そうだね」
「俺の知ってる植物とは全然違う」
白雨は少し考える。
「君の世界の植物は、こういうことをしないのかい?」
「しないですよ」
「そう」
「……やっぱり白雨さんって、普通じゃないですよね」
白雨はこのはを見る。
「今さら気づいたのかな?」
「そういう意味じゃなくて」
「......ふふ」
また笑われた。
このはは少しだけむくれる。
「……いつかちゃんと教えてくださいね」
「もちろん」
白雨は穏やかに答えた。
「そのうちね」
「またそれだ」
「気長に待ってくれたまえ」
このはは苦笑した。
その時だった。
庭の隅。
小さな火が揺れた。
「……?」
このはは目を凝らす。
火。
小さな炎が、何もない空中に浮いている。
風に揺れるように、ふわふわと動いている。
「白雨さん」
「何かな?」
「あれ……」
白雨が視線を向ける。
「火だね」
「いや、そうじゃなくて」
このはは指を差す。
「浮いてません?」
「浮いているね」
「……」
白雨があまりにも平然としている。
「なんで?」
「そういうものだからね」
「またそれですか」
「ふふ」
このはは立ち上がる。
火へ近づく。
小さな炎。
普通の火とは違う。
地面にも薪にも触れていない。
それなのに、確かに燃えている。
「……綺麗」
火が、このはのほうへ少し近づいた。
「わっ」
驚いて一歩下がる。
火も少し離れる。
「……」
このはが近づく。
火も近づく。
「……俺のこと、分かってる?」
火が揺れた。
まるで答えるように。
「え」
このはが目を丸くする。
「白雨さん」
「うん」
「これ……」
「精霊だよ」
「精霊?」
「火の精霊」
白雨はそう教えた。
「精霊……」
このはは火を見る。
「妖精とは違うんですか?」
「違うよ」
「どう違うんです?」
「精霊は自然現象そのものさ」
白雨は静かに説明する。
「火、水、風、大地……そういったものが意思を持った存在だね」
「じゃあ、この火そのものが精霊?」
「そう」
「……」
このはは小さな炎を見る。
ただの火にしか見えない。
けれど。
確かに、こちらを見ているような気がする。
「触っても?」
「火傷するよ」
「......じゃあやめときます」
白雨が小さく笑った。
「賢明だね」
火の精霊は、しばらくこのはの周りを漂っていた。
やがて。
白雨の袖へ近づく。
蔦が一本伸びる。
その先端へ、火の精霊が乗った。
「……」
このはは目を見開く。
蔦は燃えない。
火も消えない。
まるで、それが当たり前であるかのように共存している。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
白雨はその様子を見ている。
「この世界では、そう珍しい光景ではないよ」
「俺には珍しいです」
「そうだね」
白雨は少しだけ笑った。
「君は、まだ知らないことが多い」
「……そうですね」
このはは庭を見る。
妖精。
精霊。
意思を持つ植物。
そして。
その中心にいる白雨。
「……白雨さん」
「何かな?」
「俺、ここに来てからずっと思ってたんですけど」
「うん」
「この世界って……すごく不思議ですね」
白雨は少しだけ目を細めた。
「そうだね」
「でも」
このはは火の精霊を見る。
「嫌いじゃないです」
白雨は何も言わなかった。
ただ。
少しだけ柔らかく笑った。
---
昼を少し過ぎた頃。
火の精霊はいつの間にかいなくなっていた。
「帰ったんですか?」
「たぶんね」
「どこへ?」
「さあ」
白雨は空を見る。
「火があるところへ戻ったのかもしれないね」
「……」
このはは考える。
精霊は自然そのもの。
なら。
あの小さな火も、どこかに存在する自然の一部なのだろう。
この世界では、それが意思を持っている。
「……面白いな」
このはは小さく呟いた。
このはは笑いながら言う。
「知らないものばっかりだから」
白雨も微笑んだ。
「なら、これからゆっくり知っていけばいい」
「はい」
また、その言葉だった。
けれど今度は。
このはも少し嬉しかった。
まだ知らないことがたくさんある。
これから知っていけばいい。
その隣に、白雨がいる。
それだけで十分だった。
庭では、紫色の花が静かに揺れている。
そしてその花の間を――
どこからか、一匹の青い蝶が飛んでいった。




