蔦のある暮らし
白雨の家へ入ったこのはは、しばらく周囲を見回していた。
木を基調とした落ち着いた造り。
壁際には本が並び、棚にはいくつかの器や小物が置かれている。
質素ではある。
けれど、不思議と寂しくはない。
「そこに座っていてくれたまえ」
「はい」
このはは座布団に腰を下ろした。
白雨もその対面に腰を下ろす。
「少し待っていて」
「……?」
何をするのだろう。
このはが見ていると――
白雨の黒い着物。
その袖から、細い紫色の蔦がするりと伸びた。
「……え?」
このはの目が丸くなる。
蔦は床へ落ちることなく、そのまま宙を進んでいく。
白雨は特に気にする様子もない。
蔦の先端が棚へ伸びる。
茶器を一つ。
二つ。
器用に持ち上げる。
「…………」
このはは言葉を失った。
さらに別の蔦が袖から伸びる。
今度は水差し。
茶葉。
湯。
まるで何度も繰り返してきた作業のように、迷いなく準備を進めていく。
やがて。
蔦が茶の入った湯飲みを、このはの前へそっと置いた。
「どうぞ」
「…………」
このはは湯飲みと白雨の袖を交互に見る。
「……今の」
「うん?」
「蔦……ですよね?」
「そうだね」
「どうして着物の袖から蔦が……?」
白雨は一瞬だけ、このはを見る。
そして。
「その話は......また後でしようか」
「……」
あまりにも自然に話を切り上げられた。
「今は君も、色々と混乱しているだろう?」
「……まあ、そうですけど」
「順番に知っていけばいいさ」
白雨はそう言って、湯飲みを手に取った。
「まずはお茶でも飲むといい」
「……はい」
このはも湯飲みを手にする。
一口飲んだ。
「……おいしい」
「それはよかった」
白雨は小さく微笑んだ。
---
しばらくして。
このはは縁側に座り、庭を眺めていた。
紫色の花。
無数の蔦。
その向こうには深い森。
まだ分からないことばかりだ。
ここがどこなのか。
なぜ自分がここへ来たのか。
そして、白雨が何者なのか。
けれど。
不思議と落ち着いていた。
そんな時だった。
――ひら。
何かが視界を横切った。
「……?」
このはが顔を上げる。
青い蝶だった。
普通の蝶よりも少し大きい。
淡い青色の翅を揺らしながら、庭をふわふわと飛んでいる。
「蝶……?」
このはは目で追う。
青い蝶は花から花へと移り、しばらくすると、このはのほうへ近づいてきた。
「……」
このはの目の前で、ふわりと止まる。
「綺麗だな……」
手を伸ばす。
青い蝶は逃げなかった。
むしろ。
このはの指先へ近づいてくる。
「触っていいのかな」
「それは妖精だね」
「え?」
隣にいた白雨が、静かに言った。
このはは青い蝶を見る。
「これが……妖精?」
「うん」
「蝶じゃなくて?」
「蝶のように見えるけれどね」
白雨は青い蝶を眺める。
「この子は妖精だよ」
「……へえ」
青い蝶は、このはの指先の周りをくるくると飛んでいる。
声はない。
けれど、どこか意思を持ってこちらを見ているように感じる。
「僕に興味があるのかな」
「そうかもしれないね」
「なんでだろう」
「君が珍しいからじゃないかな」
「珍しい?」
「この辺りでは、君のような人間はあまり見ないからね」
「……なるほど」
青い蝶が、今度は白雨の肩へ移る。
しばらくそこに留まったあと、また庭へ降りていく。
「白雨さんとは仲がいいんですか?」
「どうだろうだね」
白雨は青い蝶を目で追う。
「でも時々、こうして遊びに来るよ」
「へえ……」
このはも青い蝶を眺める。
やがて青い蝶は、庭の奥へ向かって飛んでいく。
そして。
木々の間へ消えた。
「行っちゃった」
「また来るさ」
「そうなんですか?」
「妖精は気まぐれだからね」
白雨はそう言って、庭へ視線を戻した。
このははしばらく青い蝶が消えた場所を眺めていた。
そして。
「……不思議だな」
「何がかな?」
「今日一日だけで、知らないものをいっぱい見た気がします」
「そうだね」
「神隠しに遭って、知らない場所に来て……」
少し考える。
「……」
白雨が横目でこのはを見る。
このはは、それに気づいて少し顔を赤くした。
「……それから、袖から蔦が出てきて」
「ふふ」
「……笑わないでください」
「笑ってはいないよ」
「笑ってます」
「そうかな?」
白雨は穏やかに笑っている。
「まあ、君が知りたいことはまだまだ多いだろうね」
「はい」
「焦らなくていいよ」
白雨は静かに言った。
「少しずつ知っていけばいい」
このはは頷く。
「……分かりました」
庭には紫色の花が咲いている。
その花の間を、先ほどの青い蝶が飛んでいるような気がした。




