紫陽花の咲く庭
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――雨が降っていた。
音だけが聞こえる。
静かな雨音。
このはは、ぼんやりと目を開けた。
「……ん……」
視界に入ったのは、紫だった。
花。
大きな紫色の花が、すぐ目の前に咲いている。
花弁には雨粒がいくつも乗っていた。
「……?」
このははゆっくりと身体を起こす。
冷たい。
服が少し濡れている。
手を地面につくと、柔らかな土の感触が返ってきた。
「……ここ、どこ?」
返事はない。
周囲を見回す。
そこは庭だった。
石畳が敷かれ、様々な植物が植えられている。
紫陽花。
見たことのない花。
壁のように伸びた蔦。
その向こうには一軒の家がある。
「……家?」
少なくとも、完全に誰もいない場所ではない。
このはは立ち上がった。
何が起きたのか、まるで分からない。
さっきまで自分は――
そこまで考えて、記憶が途切れていることに気づく。
「……」
思い出せない。
どうしてここにいるのか。
どうやってここへ来たのか。
何一つ。
ただ、気づいたらここにいた。
「……変なの」
そう呟いた。
すると。
――かさ。
背後の蔦が揺れた。
このはが振り返る。
何もいない。
「……風?」
そう思った。
けれど、風は吹いていない。
また静かになる。
雨だけが降っている。
このはは庭を見回した。
不思議な場所だった。
見たことのない植物が多い。
けれど、妙に落ち着く。
その時だった。
「――そこで、何をしているのかな?」
声。
このはの身体が止まった。
背後。
ゆっくり振り返る。
そこに――
一人の女性が立っていた。
白い長髪。
白い肌。
黒い和服。
赤い唇。
目の下には、赤い一線の化粧。
そして。
燃えるような赤い瞳。
紫陽花を思わせる髪飾り。
手には狐の面。
このはは、息をするのを忘れた。
「……」
美しい。
最初に浮かんだ言葉は、それだった。
いや。
違う。
**美しいなんて言葉では足りない。**
目の前にいる女性は、あまりにも美しかった。
このはは直感的に理解していた。
――人間ではない。
理由は分からない。
説明もできない。
けれど、分かる。
目の前の存在は、自分と同じ人間ではない。
なのに。
怖い、という感情が出てこなかった。
それよりも。
「……」
ただ、見惚れていた。
白い髪。
白い肌。
赤い瞳。
黒い和服。
そのすべてが、このはの知っている「美しい」という言葉から逸脱している。
あまりにも美しい。
その事実に圧倒されていた。
「……」
顔が熱くなる。
自分でも分かる。
頬が赤くなっていく。
なのに、目を逸らせない。
女性が少し首を傾けた。
「……?」
その仕草だけで、また心臓が跳ねた。
「君?」
「……っ」
声が出ない。
「どうかしたのかな?」
「…………」
無理だった。
何か答えなければと思う。
けれど、頭の中が真っ白になる。
綺麗。
綺麗すぎる。
そんな言葉しか浮かばない。
女性はしばらくこのはを見つめていた。
そして、少しだけ困ったように目を細めた。
「……具合でも悪いのかな」
「……ち、違……」
ようやく声が出た。
「違う?」
「……」
また言葉が止まる。
女性が一歩近づいた。
「熱でもある?」
「……っ」
近い。
近すぎる。
このははますます顔を赤くした。
女性はそれに気づいたらしい。
けれど、理由までは分からないようだった。
「……顔が赤いね」
「……」
「本当に大丈夫?」
「……だ、大丈夫……です」
やっとのことで答える。
女性は少し安心したように頷いた。
「そう」
そして。
「私は白雨」
静かに名乗った。
「……白雨……さん」
「うん」
白雨。
その名前を口にするだけで、なぜか緊張する。
このはは俯いた。
まだ顔が熱い。
「君は?」
「……このはです」
「このは」
白雨は、その名前を静かに繰り返した。
「そう」
それだけ。
それなのに、このはの胸はまた大きく鳴った。
白雨は庭を見回した。
そして、少し不思議そうに言う。
「しかし……君はどうしてここにいるのかな?」
「……分かりません」
「分からない?」
「気づいたら……ここに」
「なるほど」
白雨は考える。
「神隠し、かもしれないね」
「神隠し……?」
「人が突然いなくなって、どこか別の場所へ連れていかれる現象だよ」
「……」
このはは庭を見る。
やはり何も思い出せない。
白雨は続けた。
「この辺りでは、そう珍しいことでもないからね」
「……そうなんですか」
「うん」
白雨はあまり気にしていないようだった。
このはは、ふと尋ねる。
「ここって……どこなんですか?」
「テラリア大陸」
「……テラリア?」
聞いたことがない。
白雨は頷いた。
「そう」
「……」
知らない場所。
知らない大陸。
そして、目の前には人間ではないほど美しい女性。
それでも。
不思議と、帰らなければという焦りはなかった。
もちろん、不安はある。
何が起きたのかも分からない。
けれど――
「……はあ」
このはは小さく息を吐いた。
白雨が少しだけ目を細めた。
「随分と落ち着いているね」
「自分でもそう思います」
「普通はもう少し慌てるものだと思うけれど」
「……そうかも」
このはは苦笑する。
「でも、今ここで慌てても仕方ないですし」
「なるほど」
白雨は少しだけ笑った。
「面白いね、君」
「……」
また笑った。
このはは思わず白雨を見る。
そして。
また顔が赤くなった。
「……?」
白雨が首を傾ける。
「やっぱり顔が赤いね」
「……なんでもないです」
「そう?」
「……はい」
白雨は深く追及しなかった。
ただ。
「なら、しばらくここにいるといい」
「……いいんですか?」
「このまま庭に立たれているのも落ち着かないからね」
「……」
このはは少し笑った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
白雨が家へ向かって歩き出す。
このはも、その後ろをついていく。
数歩進んだところで。
白雨が振り返った。
「このは」
「はい?」
「ひとつ聞いてもいいかな」
「何ですか?」
「君は――」
白雨の赤い瞳が、このはを見る。
「私が怖くないのかな?」
このはは少し考えた。
そして。
正直に答えた。
「……人間じゃないってことは、なんとなく分かります」
白雨は黙っている。
「だから……少し怖いです」
「そう」
「でも」
このはは白雨を見る。
また頬が赤くなる。
「それより……」
言葉にするのが恥ずかしくなって、少し俯く。
「……綺麗だなって」
白雨が瞬きをした。
「……」
「すごく……綺麗で」
「……そう」
白雨はそれ以上何も言わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ、柔らかく笑った。
「ありがとう」
その一言だけだった。
二人は家の中へ入っていく。
庭には紫色の花が咲いている。
雨はまだ降っている。
このははまだ知らない。
ここが大妖・白雨の領域であることも。
白雨が世界に名を知られた存在であることも。
そして。
自分が偶然ここへ連れてこられたことが、
この世界で最も長い物語の一つを始めることになることも。
ただ、このはには一つだけ分かっていた。
――この世界に来て、最初に出会った人が。
あの人でよかった。
そう思っていた。




