呼び捨て
午後。
縁側で、このはと白雨は並んで庭を眺めていた。
昨日と同じように、穏やかな時間が流れている。
「白雨さん」
「何かな?」
「この花って、なんていう名前ですか?」
このはが庭に咲く紫色の花を指差す。
白雨はその花へ目を向けた。
「それは紫苑だよ。秋に咲く花だよ」
「紫苑……」
このはは頷きながら、名前を反芻する。
「こうやって教えてもらうと、植物を見るのが楽しくなりますね」
「それはよかった」
白雨が微笑む。
「君が興味を持ってくれるなら、いくらでも教えてあげるよ」
「白雨、ありがとうございます――」
このはが言葉を止めた。
「……あっ」
白雨も、ゆっくりとこのはを見る。
「今、なんて呼んだんだい?」
「……えっと」
このはは少し気まずそうに視線を逸らした。
「白雨、って……」
白雨はしばらく何も言わなかった。
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「……ふぅん」
「……すみません。」
「謝ることじゃないよ」
白雨は穏やかに笑う。
「むしろ、嬉しいくらいだ」
「……本当ですか?」
「ああ」
白雨は少しだけ、このはのほうへ顔を向ける。
「もう一度呼んでくれないかな」
「……白雨」
「うーん」
今度は白雨も、少し嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり、いいね」
「そんなにですか?」
「君がそう呼んでくれるのが、ね」
このはは少し照れたように笑った。
「じゃあ……これからも、そう呼びますか?」
「そうしておくれ」
白雨は満足そうに庭へ視線を戻す。
しばらくして、このはが口を開いた。
「……白雨」
「何かな?」
「呼んでみただけです」
「ふふ」
白雨が小さく笑う。
「白雨さん、ちょっと楽しんでません?」
「もちろん」
「……やっぱり意地悪だな」
その言葉に、白雨が少しだけ目を見開く。
「今……」
「?」
「敬語も外れたね」
このはが固まる。
白雨は嬉しそうに微笑んだ。
「私は、そっちのほうも好きだよ」
「……そういうところがずるいです」
「ふふ。そうかい?試しに敬語なしで話してみてよ」
「そんな急に言われても難しいですよ。」
「ふふ。ほら、今のも敬語だ」
「……難しいな」
「うん、それでいいよ」
白雨はそんな彼を見つめていた。
けれど、からかうことはせず、ただ優しく笑った。
「無理に変えなくてもいいよ。少しずつでいいさ」
「……うん」
今度は自然に返事が出た。
白雨は目を細める。
二人の間を、午後の風が静かに通り抜けていく。
このはは庭を眺めながら、もう一度だけ呼んだ。
「白雨」
「うん」
その返事は、いつもより少しだけ嬉しそうだった。
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