時間の始まりを想像していたら、なぜか東京旅行の準備が始まっていた件
部屋の壁一面を占める大きな窓の向こうに、息をのむほど美しく澄み切った宇宙が広がっていた。墨を流したような漆黒のキャンバスで、無数の星々が瞬いている。その光景を目にした瞬間、じいちゃんの最後の姿が鮮明に脳裏によみがえった。あの日、じいちゃんも静かにこの星空を見つめていたのだった。
「きれいだな……」
ぽつりと、掠れた呟きが漏れる。
星空を見上げていると、いつも小学生の頃からの疑問が胸をもたげる。
科学者によれば、宇宙はビッグバンによって始まったという。物質も、エネルギーも、空間も、そして時間そのものさえも、すべてがその一瞬に生まれた。星々や惑星が作られただけでなく、それらが存在する「枠組み」そのものが誕生したのだと。
だが、そこから先がどうしても理解の追いつかない部分だった。もし空間そのものがビッグバンで始まったのだとすれば、それ以前の「前」など存在しないことになる。「前」という言葉自体、時間が前提にあって初めて意味を持つものであり、その時間すらまだ存在していなかったのだから。何かがあらかじめ存在していて、そこにビッグバンが起きたわけではない。「何が最初にあったのか」という問い自体が、北極点よりさらに北はどこか、と尋ねるのと同じくらいナンセンスなのだ。
だから代わりに、「無」を想像しようとしてみる。物質も、光も、宇宙すらない状態を。けれどそれも上手くいかない。僕が頭に浮かべる「無」は、結局のところただの空っぽな空間 暗闇に過ぎないからだ。そして暗闇だとしても、そこは依然として「どこか」なのだ。もし空間そのものが存在しないのなら、空っぽな状態を入れるための「器」すら残っていないはずなのだ。
空っぽでもない。満たされてもいない。イメージすることすら不可能な世界。なぜなら、何かをイメージするためには、それを展開するための空間が必要なのだから。
つまり、本当の問いは「宇宙の前には何があったのか」ではないのだ。「前」や「無」という概念自体が、時間と空間を備えた宇宙の外側では成立しえない幻想なのではないか、ということなのだ。
「あー……考えてたら頭痛くなってきた。 人になると、なんでいっつもこうやって深みにはまるかな」
こめかみを指で押さえ、思考の泥沼を振り払うように頭を振った。少し部屋を出てみよう。しっかり休んだおかげで体力が戻り、体のだるさや重さはきれいに消えていた。来客用のスリッパに足を入れ、部屋を一歩踏み出す。目の前に広がる廊下はどこまでも長く、静まり返っていて、まるで現実感を失った異次元の空間に迷い込んだかのような異様な雰囲気を漂わせていた。
廊下を抜け、一階のメインホールへと続く大階段に辿り着いた。階段を降りていくと、タケシとユイ、そしてしろの三人が集まり、スーツケースに荷物を詰め込んでいるのが見えた。
「え……なんでスーツケースなんか詰めてんだ?」
あっけにとられて尋ねると、タケシが顔を上げた。
「あ、シン! 起きたのか! 体調はもう大丈夫なのか?」
「あ、ああ、もう平気だけど……それより、みんな何してんだよ?」
「明日から東京に行くんだよ、ハハッ!」
しろがドヤ顔で、得意そうに笑った。
「東京!? 明日!? な、なんで急に……!?」
思いもよらない言葉に、僕はパチクリと目を丸くした。
「落ち着けって」
しろは誇らしげに胸を張った。
「親父が全員の親に連絡して許可取ってくれたんだよ。まあ、ユイの母親を説得するのにはちょっと時間がかかったみたいだけどな」
「親たちが……OKしたっていうのか?」
「ああ。最高の親父だろ?」
今夜ここに泊まることについては親父さんが話をつけてくれたと知っていたが、まさか東京旅行の許可まで取り付けてしまうとは思ってもみなかった。
「準備は万全だ」
しろは謎の金属片をまるでトロフィーのように掲げて見せた。
「着替えも詰めたし、おやつも買った。そしてこの怪しいレンガもここにある」
「あ、あのさ……僕の服とかはどうすんだよ?」
自分が着ているヨレヨレの服を指さすと、しろは「そんなことか」と言わんばかりにニヤリと笑った。うちの金持ちパワ を忘れたのか、と言いたげな表情だ。
「心配すんなって。うちの親父がショッピングモ ルを丸ごと つ所有してるの忘れたか? 全部用意させてある」
金で解決できない問題はないってか……思わず苦笑いが漏れる。まあ、僕たちにとってはありがたい話だ。
ユイが小さくあくびをし、う んと腕を伸ばした。
「そろそろ寝ようよ。なんだかすごく疲れちゃった」
もう夜も遅い。今日 日で経験した激動を思えば、肉体的にも精神的にも限界が来ていて当然だった。
タイミングを見計らったかのように、若いメイドが静かに歩み寄り、丁寧にお辞儀をした。
「お部屋の準備が整っております。今夜はどうぞごゆっくりお休みください」
「ありがとうございます」
ユイが柔らかく微笑むと、メイドはもう 度深々と 礼し、静かに引き下がっていった。
「よし、じゃあ寝るとするか」
タケシはすでに客室の立ち並ぶ通路へと歩き出していた。
去っていくメイドの背中に、ちらりと視線をやる。二十代前半くらいだろうか。僕たちとそう年が変わらないように見える。……なぜ彼女は大学に通わず、ここでメイドとして働いているのだろう?
高橋家のような極上の名家に仕えるというのは、単なる職業選択ではなく、代々その家に仕えてきた家系の「宿命」であることが多いと聞いたことがある。僕からすれば、それはどこか呪いのように思えた。生まれる前から、自分が歩むべき人生のルートがすべて決められているのだから。
三歳や四歳の頃なんて、大人たちの言うことに疑問を抱く思考力すらない。生まれた瞬間から「大人の言うことを聞きなさい、それが正しい道なのだから」と教え込まれれば、それが当たり前だと信じ込んでしまう。一度その刷り込みが根付いてしまえば、その洗脳から抜け出すのは容易ではない。生まれてこの方、僕たちはなんて都合の良い幻想を与えられているのだろう。
そんな取り留めのない思考を巡らせながら、長い廊下を渡ってあてがわれた部屋へと戻った。ふかふかのベッドに潜り込むと、一分もしないうちに重い眠りが僕を呑み込んでいった。
............
.......
....
無。
自分が眠っているのだと分かっていた。夢を見ているのだと自覚していた。けれど、そこには物語も風景すらもなくただ真っ白な、重苦しい虚無だけが僕を押し潰していた。
あらゆることに嫌気がさしていた。自分の頭の中で渦巻く独白にさえも。けれど、モノローグなんてものは結局のところ、言葉にできない感情を処理しきれない時に作り出す誤魔化しに過ぎない。現実を言葉で実況することでそこから逃避している気になっているだけで、実際は同じ現実という檻の中で、言葉の衣装を着せ替えているだけなのだ。
今、僕は明晰夢を見ている。
明晰夢とは、夢の中にいながら「これは夢だ」と自覚している状態のことだ。肉体は眠ったまま、意識だけが目覚めている。世間では、明晰夢を見れば全能になれると言われている。空を飛びたければ飛べる。気に入らない風景は書き換えられる。もう会えない誰かを呼び出すことだってできる 理屈の上では、そういうことになっている。
けれど、そんなのは嘘だ。
夢の中にいてさえ、僕は自由ではなかった。僕の「思い描く体」は意図した通りに動こうとせず、まるで深い水底を歩いているかのように重く、鈍かった。どれほど強く念じても、目の前の黒い虚無は何ひとつ姿を変えようとしない。
夢だと気づいたところで、その夢を支配する万能の力を手に入れられるわけじゃない。
それはただ、自分が囚われている「檻の形」を、ようやく自覚しただけの囚人に過ぎないのだ。




