肉盾の代償と、豪邸での目覚め
「シン……おい、頼むから目を覚ましてくれ!」
息の詰まるような暗闇の底から、タケシの悲痛な叫びが聞こえてきた。遠く離れた場所から俺を呼んでいる声は届くものの、俺の体は重く、虚無の深淵に繋ぎ止められたままだった。
その時、神経の奥底で突然スパークが散った。痺れが引いていき、手足や皮膚の感覚がゆっくりと戻ってくる。
「シン、お願い……目を開けて!」
タケシの声に重なるように、ユイの震える声が暗闇を切り裂いた。
見えない障壁がようやく溶け去り、俺の意識が現実の表面へと浮上することを許されたかのような感覚。重かった目蓋に力が戻る。無理やり目を開けると、眩しく無機質な白い光が瞳を射抜いた。
「うっ……頭が……」
こめかみの奥を刺すような激痛に、思わず呻き声が漏れた。
「おい! 見ろ、気がついたぞ!」
アドレナリンで顔を紅潮させ、目を丸くしたタケシの顔が目の前に迫っていた。彼は俺の目の前に二本の指を突き出してきた。
「シン! 俺が誰だか分かるか!? 指が何本に見える!?」
殴られた衝撃で、俺の記憶が吹き飛んでしまったのではないかと本気で怯えているようだった。
「うっとうしいぞ馬鹿、そっとしておいてやれ。大丈夫に決まってるだろ」
横からしろの呆れた声が割り込んできた。
*しろ……?*
眩しさに目をパチパチさせながら、俺は完全に困惑していた。どうしてしろがここにいるんだ? 俺の最後の記憶では、しろの屋敷を出て3人で道を歩いていたはずなのに。
「水……」
舌がカラカラに乾ききり、かすれた声しか出なかった。
「水、くれ……」
「はい、無理しないで」
ユイがそっと俺の背中に手を回し、ヘッドボードに体を預けられるよう優しく支えてくれた。そして、冷えた水の入ったグラスを手に握らせてくれる。
俺は躊躇することなく、一気に喉へと流し込んだ。
「焦るなよ」
しろが心底安堵したように、長いため息を漏らしながら呟いた。
「しろ……? なんでお前がここに……?」
首をかしげながら、掠れた声で問いかけた。
「なんでって、ここは僕の家だからに決まってるだろ」
しろは周囲を指さしながら、軽口を叩いた。
改めて部屋を見渡す。俺が横たわっていたのは、高級なデザイナーズ家具で整えられた、息をのむほど広大な寝室だった。間違いなく高橋家の屋敷だ。
「でも……なんで俺たち、ここにいるんだ?」
急激に現実が押し寄せ、脈拍が跳ね上がる。俺は不安に満ちた視線をタケシとユイへ向けた。
「ふたりとも無事なのか!? あのチンピラは……ふたりに怪我はなかったか!?」
「おいおい、落ち着けって、シン。俺たちはピンピンしてるよ」
タケシが俺の膝にポンと力強い手を置き、安心させるように言った。
「あいつは俺たちに指一本触れちゃいない。お前が倒れてあいつが襲いかかってきた直後、運良くしろの親父さんの車が通りかかったんだよ。専属のボディガードたちが一瞬であいつを取り押さえて引きずり回してくれてな。お前を専属の医者に診せるために、全員まとめてこの屋敷に運んでくれたってわけだ」
胸の上に乗っていた巨大な重圧が、一気に吹き飛んだ。もしあの瞬間、しろの父親が通りかかっていなかったら……どんな恐ろしい事態になっていたか、想像するだけで背筋が凍る。
「気分は少しは良くなった?」
ユイが消え入りそうな柔らかい声で尋ねてきた。目の下にうっすらとできた隈を見れば、俺が目を覚ますまでの間、彼女がどれほどの不安と戦っていたかが痛いほど伝わってきた。
「ああ、大丈夫だよ」
俺は心配させないよう優しく答えた。
「ちょっと頭がクラクラするくらいだから」
誰もが胸を撫でおろしたその時、重厚なオーク材の扉がカチリと音を立てて開いた。部屋に入ってきたのは、背の高い品格のある紳士だった。白髪の交じる年配の男性だったが、場を支配する圧倒的なカリスマ性を自然と漂わせている。
しろの父親だった。
「おや、ようやくお目覚めかい」
彼の厳格な表情が、温かい笑みへと和らいだ。
「叔父さん……」
俺は震える体にムチを打ち、ベッドから起き上がって頭を下げようとした。
「友人たちを助けていただき、本当にありがとうございました……」
「おっと、横になったままでいいんだよ」
彼は静かに歩み寄ると、手で俺を制した。
「君の体はひどいショックを受けたばかりだ。今はじっくり休みなさい」
一挙一動に本物の紳士としての気品が満ちていた。
俺は無事だった。仲間たちも無事だ。それなのに……俺の意識は、どうしてもあの不気味で果てしない黄ばんだ草の原っぱへと引き戻されてしまう。あれは脳震盪が見せたただの悪夢だったのだろうか? 気絶した時に奇妙な幻覚を見るなんて話はよく聞くが、あの上空に浮かぶ白い家……あれはあまりにも意図的で、あまりにもリアルすぎた。
「シン? 本当に大丈夫か?」
タケシの手が肩を揺さぶり、俺はハッと正気に戻った。
「ああ……ただ疲れてるだけだ」
俺は上手く嘘をついた。
「なあ、頼むから……このことは俺の親には絶対に黙っててくれよ」
「分かってるって。口が裂けても言わねえよ」
タケシが頼もしく頷いてくれた。
それから数分間、静かに言葉を交わした後、俺を休ませるためにみんな部屋を出て行った。高級な絹の枕に頭を沈め、天井を見つめる。頭の中では千もの答えのない問いがぐるぐると渦巻いていた。
今夜いくら考えてもこの謎は解けないと悟り、俺は静かに瞼を閉じ、穏やかな眠りへと身を委ねた。時計の針はすでに夜の10時を回っていた。しろの父親がすでに俺たちの親全員に電話を入れ、「急遽お屋敷でお泊まり会をすることになった」と伝えてくれていたらしい。そしてどういうわけか、誰の親も何ひとつ疑うことなく、二つ返事で泊まりを許可したのだった。




