目を覚ましたら、誰かが顔を描き忘れた世界だった
「よしっ! 正直、東京旅行が楽しみで仕方ないぜ!」
タケシが破顔した。そのテンションの上がりようは目を見張るほどだ。しろの屋敷ではクールを気取ってぶつぶつ文句を言っていた癖に、実際は誰よりもこの旅に胸を躍らせている。
「今夜、うちの親に話してみるよ。大丈夫、任せて」
ユイが柔らかく頼もしい笑みを浮かべた。彼女がそれほどの確信を持って口にするなら、信じないわけにはいかない。
「ア、アカン……ス、シン、見ろ!」
先にタケシへ視線を向けた。彼の顔からは血の気が引き、目を丸くして、恐怖に顔を歪ませていた。震える指先が指す方向へ、俺も視線を向けた。
*ウソだろ……。*
武が鉄パイプでボコボコにしたはずのチーマーがそこにいた。ボロボロで傷だらけだったが、必死に俺たちを探しているようだった。
「どうしたの、二人とも?」
沈黙に気づいたユイが首を傾げた。
「あの人、誰?」
事態を把握していない彼女が、無防備にもチンピラの方へ一歩踏み出そうとする。
「ユイ、止まれ! 近づくな!」
俺は胸を締め付けられるような思いで叫んだ。彼女はこの件には 切関係ない。絶対に巻き込むわけにはいかなかった。
「下がってろ、ユイ! 俺たちの後ろにいろ!」
タケシもまた、怒りと焦燥の入り混じった声を張り上げた。
俺たちの叫び声に反応し、チンピラがガバッとこちらを振り向いた。血走った瞳がユイを捉えた瞬間、その歪んだ顔に邪悪な笑みが浮かぶ。
「あぁ? お前ら、そのガキともツルんでんのか?」
ダミ声に怒りを撒き散らしながら、チンピラが重々しい足取りでユイへと歩み寄ってきた。
「なら、お前もまとめて分からせてやるよ!」
*マズい、どうする!?* 脳内でパニックが弾ける。路地裏での戦闘は奇跡的に切り抜けられたが、今は完全に追い詰められている。策なんてどこにも存在しなかった。
「その子に手を出すな!」
俺は一歩前に躍り出たが、思考は空回りするばかりだった。
「まずは 発目だ、オラァ!」
チンピラは全身の体重を乗せ、拳を大きく引き絞った。当たれば病院送りが確定するような、容赦のないフルスイング。
「くたばれぇ!」
風を切り、拳がユイの顔面に向かって一直線に放たれる。
頭で考えるより先に、身体が動いていた。俺はユイの前に飛び込み、自らの身体を肉の盾にした。
**ガツンッ!**
頭部を打ち抜く、吐き気を催すほどの衝撃。世界が瞬時に漆黒へと塗りつぶされ、膝から崩れ落ちた。
「シン——!?」
耳の奥で、タケシの悲痛で狂おしい叫びが響いた そして、俺の意識は完全に途絶えた。
無。完全なる虚無。
気絶しているのだと理解していた。あの凄まじい 撃で意識を刈り取られたのだ。だが……どうしても目を覚ますことができない。精神が肉体から切り離されてしまったかのように、現実に這い上がるだけの力が振り絞れなかった。
*だめだ……目を覚まさなきゃ。*
*タケシとユイは無事なのか!? あいつに傷つけられてないか!? 確かめなきゃいけないんだ。起きろ、起きろ!*
手足の感覚も、鼓動も、呼吸すらない。それでも俺は、その果てしない深淵の中で、消えかえる意識を必死にしがみつかせた。
*起きろ。目を覚ませ。起きろおぉっ!*
その時、暗闇に火花が散るように、視界が弾けた。身体など存在しないはずなのに、数秒前まで知りもしなかった「瞳」を固く開いた感覚があった。
「……ここは、どこだ?」
草だった。緑のなかに、穂先がかすかに黄色く枯れかけた淡い草の海。それが、どこか不自然に近く感じられる水平線に向かって果てしなく広がっている。まるで世界が、ほんの数百メートル先で唐突に途切れているかのように。
見上げると、そこには歪な空が広がっていた。奥行きがなく、平坦で、あまりにも鮮やかすぎる青。自然の産物というよりは、キャンバスに描かれた天井のようだ。雲は流れない。輪郭のぼやけた同じ形状の雲が、寸分違わず複製されたように空のあちこちに張り付いていた。
誰もいない。俺 人だけが、視界の及ぶ限界までしか存在しない草原にポツンと立っている。胸の奥を押し潰すような、異様な圧迫感が押し寄せてきた。
「夢……じゃないよな……」
声を出してみるが、確信は持てなかった。
だからといって、夢とも思えない。むしろ、昔どこかで見た記憶の風景に酷いデジャヴを感じていた。だが、そんなはずはない。こんな場所に足を踏み入れたことなど一度もないのだから。
その時、軒の家が目に入った。
建っている いや、違う。それは*浮いていた*。
どこにでもあるような、至って普通の白い二階建ての一軒家。それが、まるで地面を描き忘れたかのように、草むらの上へ不自然に宙吊りになっていた。
奇妙なことに、その家の影は、まるで建物が固い土の上に鎮座しているかのように、草の上に正しく落ちていた。だが、建物の底面と影の頂点との間には、はっきりと隙間が存在している。向こう側が透けて見えるその空間に、この世の何よりも背筋が凍るような気味悪さを感じた。
恐ろしいはずだった。
なのに、その浮遊する家を見つめていると、胸の奥で名前のつけられない感情が脈打った。恐怖ではない。長いこと忘れていた子守唄のメロディを、ふと思い出した時のような感覚。一度も見たことがないはずの家なのに、なぜか目頭が熱くなった。
俺は吸い寄せられるように、その家に向かって歩き出した。
距離感が狂っていた。何分歩いても家との距離は一切縮まらず、まるで足元の草原が伸び続けているようだった。そう思っていた次の瞬間、何の前触れもなく、俺はその真下に立っていた。
壁のペンキのひび割れや、ベランダに積もった薄っすらとしたホコリ、一インチほど隙間が空いた二階の窓まで視認できるほど近くにいた。ハシゴも、階段も、登るための正常なルートなど存在しない。
それなのに、玄関のドアだけが、地面と同じ高さで目の前に佇んでいた。まるでその家が、俺を迎え入れるために 部だけを歪めて垂れ下げてきたかのように。
ノブを回し、扉を押し開けた。
生ぬるい空気が頬を撫でた。廊下には、どこか懐かしい匂いが漂っている。特定の思い出ではなく、「思い出」という概念そのものの匂い。玄関には脱ぎ捨てられた靴。フックには、俺には少し大きすぎる上着が掛かっている。内装は生活感に溢れ、一度も足を踏み入れたことがないはずの俺を、恐ろしいほど穏やかに包み込んだ。
*どうして……ここが「家」だと感じてしまうんだ?*
奥へ進む。キッチンには、今しがた誰かが手を止めたかのように、湯気をかすかに立たせた二つのマグカップが並んでいた。
居間に入ると、壁 面に写真立てが飾られていた。普通の家庭では考えられないほどの数だ。俺は 番近い額縁に歩み寄り、覗き込んだ。
息が止まった。
写真は完璧なピントで、クッキリと写っていた—そこに写る人物たちを**除いて**。
彼らの顔は、滑らかに塗りつぶされていた。目も、鼻も、口もない。まるで絵の具が乾く前に、作家が顔のパーツを描くのをやめてしまったかのように。
立ち姿や肩の傾き、片足に体重をかける独特の癖から、そのうちの一人が自分であることは推測できた。だが、顔がない以上、証明する術はない。
次の写真を見る。同じように顔がない。その次も、その次も。
洗面所には、俺の磨き癖とは違う角度で毛先が潰れた、二本目の歯ブラシ。勝手口の近くには、タケシにしては小さく、ユイにしてはカッチリしすぎているジャケット。けれど、それが赤の他人のものではないことだけは、直感的に理解できた。
*俺は、この人たちを知っている。*
彼らが誰であれ、その存在を俺は言葉以前の確信として感じ取っていた。名前を与えることすら拒むような、重々しい確信として。
「誰なんだよ……」
誰もいない部屋へ、顔のない写真たちへ問いかけた。
だが、声は響かない。口から出た瞬間に、この家の不気味な静寂に呑み込まれて消えた。
キッチンのカウンターでは、マグカップから今も湯気が立ち上っている。
その時、果てしなく遠い場所から 家を抜け、草原を抜け、この世界の領域すら越えたどこかから、かすかな牽引感を感じた。乱暴ではないが、眠っている肩を優しく揺り動かされるような、抗いがたい引き戻しの力。
ユイの声だろうか。タケシの声だろうか。それとも、ただ俺の肉体が、目を覚ますべき時間だと思い出させただけだろうか。
*まだ、戻りたくない。*
顔のない写真たちよりも、自分の中に芽生えたその感情の方がずっと恐ろしかった。
俺は抗うように、一番近くにあった写真立てへと手を伸ばした。誰かの笑顔があったはずの、滑らかで空白な面へと。指先が冷たいガラスに触れた瞬間、家に満ちていた温もりが一清に霧散し、世界が内側へと崩壊していった。
最後に見たのは、暗闇ではなかった。
淡い緑から黄色へと枯れかけた草。そして、上空に影を作るものが何もないまま、草原の上にポツンと残された、ひとつの影だった。
そして、完全なる虚無へ。
最期に聞こえたのは、今にも死にそうなほど震え、俺の名前を絶叫するタケシの声だった。




