第 参 話 「 大華は水に沈む 」
いつもいるはずの、あのお方がいない。こんなこと、今までなかった。
私は玄華宮の室を全て駆けずり回ってあの方を探し回って気づいてしまう。姿も、影も、香の匂いが消えている。……眼差しが、恋しい。
「阿梨、どうした?」
と、言って私の目を見て欲しい。
乱華さまの声が聞こえてこないのが、こんなにも私の心を寂しくさせる。
あの陰から、あの角から紅い羽織りを着た乱華さまが出てくるのではないかと、幾度も期待する。
だが、その期待は無惨にも崩されていく。
胸騒ぎがした。
いや、胸騒ぎしかしない。
「ど、どうしたの!?あなた、顔色がおかしいわよ」
私を見てはっとした顔をする。
下女仲間の……確か。
「シュ、春霖……?」
瞬きをした彼女は、大きく溜め息を吐く。頭を横に振られ、そこで私は間違えたのだと気がついた。
「私は、甘寧。で、阿梨はどうしたのよ?そんな顔してさ」
「……そ、そんなこと……ないから」
バツが悪いわけではない。私は顔を逸らし、自分の腕を撫でた。
「ハア……。本当にアナタの目は、乱華さましか見ていないのね」
甘寧に顔を覗き込まれる。持っているカゴから洗濯物が傾いた。
「……乱華さまが」
私の発した言葉に甘寧は瞼を伏せた。やっぱりね、呟きながら甘寧は背筋を伸ばす。それと同時に洗濯物も元の位置へと戻る。
「ほら、やっぱり。阿梨は乱華さまが本当に大好きなのね。でも、こちらにはいらっしゃら────」
玄華宮の外から甲高い悲鳴が聞こえた。その声が嫌に耳の奥にへばりつく。
「今の声……桃源園の方、───って、阿梨!?どこいくのよ!!」
良く考えれば数日前から様子がおかしかった。
なんで、お傍を離れたのか。
なぜ、お気持ちを聞かなかったのか。
なんで、なぜ、どうして……。
悔いても悔いても、もう遅い。
私は悲鳴がした場所へと足を急かした。身体より気持ちが前に出たせいで、足先が裾に絡みつく。その先に行ってはいけないと言うように。
開けた場所に出た。
この先には庭園がある。桃源園と呼ばれ、妃たちが季節の花を楽しむ場。だが、その手前には池がある。
催し物があると聞いていないのに、蠢く頭が幾重にも見える。
私の足が止まった。
息が、できない。
そこに浮かぶ、白き寝衣に見覚えがある。
艶のある髪が風に揺らぐ柳の葉のようにゆらゆらと水の中で舞っていた。
身体が熱を失う。
震える指先があの方を求めている。
声が出せない。
そんなはずはない。
あれが乱華さまであるわけがない。
あのお方は、後宮には咲く一輪の大華だ。
地に落ち、無惨に散る花ではない。
嬉々として集まった蟻どもが、あれを確かめようと動き回った。
引き上げられたモノに蟻が群がる。
餌を見つけた蟻のように。
誰かが声を上げた。
「──乱華さま!」
と。
私は叫んだ。
言葉にならない声は誰の耳にも届かない。
そこにある物体は乱華さまではないと。
何度も穿った。
耳に入るのはあの方の名前。
私以外は誰も否定はしていない。
嘘だ。ありえない。そんな訳がない。
胸が、心が痛い。
何も知らないくせに、乱華さまのことなどひとつも分からないくせに。
お前たちがあの方の名を口にするのも烏滸がましい。
「───阿梨」
乱華さまの声が、した。
私はその場へと息するのを忘れて走る。
ボロボロの衣に血が滲むが、痛みなんて感じない。
それよりも、心が痛かった。
「お、オイッ!?」
蟻を掻き分け、あの方へと向かう。倒れた華は地を濡らし、あの妖艶な天女の面影など潰えていた。水を吸った顔は膨れ上がり、私を優しく見つめた、全てを呑み込む瞳は白く濁り、光を通さない。私に名を与えてくれた唇は血の気が引いている。
「……乱華、さま?」
やっと言葉に出来たのはアナタさまの名。でも、アナタを呼んでも、返事は来ないまま。
「阿梨……」
私の背中を誰かが包んでくれた。冷たい背中に生きた温もりを感じる。けれど、今の私はその優しさも温もりも必要に思えない。
私の生きるすべが、標が、
────死んだのだから。
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