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第 弐 話 「 大華が与えたもの 」






 私は天涯孤独の身だった。

 気が付いたら、私はこの世にひとりぼっち。


 寂しい気持ちなど感じたことはなかったと思う。

 だって、それが当たり前だったから。



 親から貰ったモノは名前だけ。

 はっきりと名だと言われたことはないが、私を確かにこう呼んでいた。


「アリ」と。



「……お前の名は、なんと言う?」



 落ち着いた声が室に放たれた。

 切れ長の目が私へと向けられる。それだけで、胸が空く。なのに、私の口がいうことをきかない。恐れからではない。


 この方と同じ位置に立って話すという行為が私には烏滸がましく思えてしまったから。

 唇をもごもごと動かし、指先へと視線を落とす。



「そこまで緊張せずとも、良い。気楽に話しなさい」



 私を気遣うような、お優しい声に包まれたような感覚。なんだか、目の前のお方の表情も和らいだように見えた。


 簪が揺れ、美しい御髪が流れた。


 尊きお方が、私を見ている。

 下女のひとりではなく、私だけを。


 私の心を、動かした。



「……私の名前は、アリ。です」



 紅い唇が弧を描く。

 天女のような乱華さまは妖艶に微笑んだ。



「アリ、か。覚えておく」


 長い睫毛が伏せられ、朱几に乗せられた白磁の茶杯へと指先が伸びた。

 茶杯から一筋の湯気がゆらっと揺らめいた。


「 ……して、字はどう書くのだ?」


 茶杯が紅に当たる寸前に、乱華さまの唇が僅かに動いた。視線は茶杯に注がれたまま、喉を潤される。


「申し訳、ございません……」


「なぜ、謝る?」


「字が、分からないのです。書けませんし、読めません」


 私はまた視線を床へと落とす。こんな使えない私を知って乱華さまは落胆されただろう。下女でも、もっと知識ある方がおられる。私はその中でも底辺の蟻。言われたことだけしか出来ない無能の蟻。


 こんな私が乱華さまのお傍にいてはいけないのだと、頭では理解しているのに、私の足は動こうとはしない。


 コト。


 茶杯が乱華さまの指先から離された。



「なら、私が


 ────教えたらいい」



 そのお声に私は顔を上げる。待っていたかのように、乱華さまの双眸と視線がぶつかった。向けられている瞳に私の心臓が跳ねる。もう、私は呑まれてしまったのだ。眼前の天女に。


 乱華さまは徐ろに円几から立ち上がる。紅い衣が翻り、香が私の鼻を掠めた。


 乱華さまは筆を指先て掴むと、筆先に墨を浸した。墨を吸い上げた筆先を立て、余分な墨を落とす。そのまま、上等な和紙へと筆を滑らせる。


 上品であり、優雅な筆遣いであるのに、したためた文字は荒々しいのに力強い。乱華さまがお書きになったとは誰もが思わないだろう。



 乱華さまは筆を置かれた。ひとつ息を零すと、書かれた和紙を片手で取り上げ、私へと手渡される。乱華さまの目が私を捉えた。


「これを」


 その和紙へと両手を伸ばす。震え出しそうな赤切れが目立つ指先で大事にしっかりと掴む。落とさぬようにと。


「今日からソナタは“阿梨”と名乗るのだ」


 そう乱華さま告げられた。


「阿、梨?」


「ええ。そうだ。ただのアリなんてつまらないじゃないか。だから、阿梨。梨は私が梨が好きだからだ」


 気に入ったか?と乱華さまは目を細められた。持っていた和紙から乱華さまの指先が離れていく。


 私は新たな名を大切に大切に胸に抱いた。これは誰にも見せたくはない。乱華さまが私だけに寄越した宝物。誰にも触れて欲しくない。渡さない渡したくもない。



 今までの私はたくさんいる蟻と一緒。

 後宮殿の下女のひとりのはずだった。


 だけど、私はこの日から乱華さまの阿梨となった。



 蟻が仕える人を見つけた。

 この人を標とした。



 ひとりに仕え、そのお方にだけに命を捧げる。


 私はそう誓った。





 なのに、あの方は死んでしまった。




 艶やかな長い髪を漂わせながら、冷たい池の水の中で。





 ─────無惨に、殺された。

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