第 壱 話 「 アリと大華 」
澄み切った蒼き空に凍てつくような空気。
かじかむ指先は赤へと染まる。
「はあー。はあー」
大したものを食べていない身体から吐かれた息はとても弱々しい。凍りそうな指先ですら溶かすことは出来ないのだから。
ふと、地面へと目を向ける。そこにいた黒い粒のような生命。潰されても、頭がもがれようとも、動きをやめることはない。例え女王がいなくても、一匹になっても、諦めず餌を求め彷徨うアリ。
私にもそんな方ができるのだろうか?
恋するように、崇めるように、生きる標が。
「───てるの、アリ?」
「あ、ごめんなさい。聞いていませんでした」
「全く、今回の下女は本当に使い物にならない!」
数個上の先輩下女は眉を吊り上げ、毒を吐く。大して、私も仕事ができるわけではないが、この目の前の女よりは色々とできる方だとは思う。
だが、年功序列というのは非常に厄介で、何も出来ないくせに年齢が上、経験年数が上だからと威張るのはお門違いである。
「早くこれ、洗っておきなさいよね!」
下女の先輩はそう言い捨てた。私を見下ろしながらそう言った。ちゃっかり、自分の仕事まで押し付けていくあたりが、卑劣である。
「……あんな人の為に、私は使われたくないな」
ちゃぷん。
桶に張った冷や水の中に、白といえない布を漬け込む。隣には洗濯板と灰。そして、汚れた布の山がふた山。空には太陽が顔を出している。
「早く終わらせなきゃ」
感覚のない指先を桶の中へと入れようとしたその時、嗅いだこともない優雅な香が鼻先を通った。
学のない私でも、その香は高貴なお方が薫き染めるモノだということは分かる。
目の前に影ができ、鼻を通る匂いが一層強く感じられた。
「────済まぬが、ひとつ私の頼みを聞いてくれないか?」
凛とした発音と、どこか妖艶さ兼ね備えたお声が落とされた。私の身体は岩のように固まり、頭を上げることが出来ない。
「………聞こえておらぬのか?」
また、天から落ちる。私はやっと魔が取れたように、ゆっくりと面を上げた。
息が止まる。
その美しく、儚げな姿に誰がまともに息ができようか。
艶やかな長き黒髪。
黒が映える雪よりもさらに白い肌。
全てを呑み込んでしまいそうな瞳。
薄く引かれた上品な唇。
人であるはずがない。
この妖艶の美姫は天女か、はたまた妖狐であろう。
私はそう、本気で思った。
そうでなければ、証明ができない。
この世に存在していることが奇跡なのだから。
私の目は魅入られてしまった。いや、そうなるのは必然だ。
「やっとこちらを向いたか。悪いがこれを……」
抱えていた布に赤黒い染みが幾つもある布を彼女は私へと差し出した。そのひとつの所作でさえ、目を逸らすことが罪に思えてしまう。
この全てを私の目に焼き付けたいと思えるほどに。
魅入られてしまった私は自分自身を動かすのも、ままならない。
「どうした?受け取ってくれぬのか?」
片眉が跳ねた。涼しい顔はそのままにそのお方は、真っ直ぐに私へと視線を注がれる。それだけであるのに私の胸が弾み、高揚感を感じていた。
「……す、すみません。……ご無礼をお許しください」
「よい。そちはこの布を洗い我が宮まで、持ってまいれ」
良いな、とだけ吐かれると、柔らかな衣が翻える。長い御髪が風に流れた。
離れ行ってしまうその背を私は、息をするのを忘れてしまうほどに乱華さまを見つめていた。
この日があの方、この後宮の大華と呼ばれた乱華さまが私に初めてお言葉を掛けてくれた特別な日。思い出はいつになっても色褪せることはない。
この出会いが、皆の運命を狂わせることになるとは。私でさえも思いもしなかった。
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