第 拾 話 「 藍き温もり 」
「皇帝陛下のお成りだというのに、この宮の女官どもは礼も尽くさぬのか?」
冷たく突き放すような声。
声を上げたのは私が知らぬ人物だった。
皇帝の二歩後ろに控え、静かに佇むその男は、私たちを見下ろす。
全てを見透かそうとする金の瞳と目が合った。私は咄嗟に目を伏せる。
「良い。時間が惜しい。陽耀よ、お前はそこにいる下女を連れ、ここから出て行け」
その男、陽耀は短く返事をした。衣擦れの音が近付く。
視線の端に靴が映ると、藍き衣が床に触れた。
位の高い匂い。乱華さまとは違う香。
目を伏せたままの私を陽耀は咎めずに、口を開く。
「立てるか」
気遣うようでそうではない声音。
私は小さく首を縦にした。
「なら、行こう」
それだけ告げると、陽耀の靴が視界から消えた。
私は紫に変色した指を一瞥すると、その者の背中を追う。
一瞬だけ見えた女の顔は、天女の皮が剥がれ落ち無様な程に怯えている。その女の視線の先にいる男は、この鳥籠の主である皇帝。
私は首を下げたまま、その脇を過ぎる。懐かしい衣の色がやけに目に刺さった。
「───待て」
身体の芯まで響く覇気。突然の声に私の足が止まる。喉が詰まったような感覚に支配され、思わず息を呑んだ。
「お前、どこかで……」
皇帝の赤い衣が揺れる。
私は何も聞こえなかったかのように、足を前に送り出す。皇帝はそれ以上、何も声を投げようとはしない。
背を刺すような視線を感じながら、私は陽耀の匂いを辿り、その白丹宮から立ち去った。
宮から出ると、外は雨が降っていた。
私は雨は嫌いだった。
あの方の匂いを消してしまおうとするから。
「大丈夫か。その指」
声が降ってきた。
良きもしないその声の主に私はゆっくりと顔を上げると、金色の双眸に捕まってしまう。
金色の瞳はどこか既視感があった。整った顔は尊き龍の面影を感じさせる。
逃げるように目を逸らす。その瞳に私の心を暴かれてしまう気がした。
「痛まないか」
陽耀の睫毛が揺れた。視線の先は変色した私の指。あらぬ方向に曲がっている。だが、痛みなどとうにない。
「……ご心配には及びません」
「いや、そういうわけにはいかぬ」
先程のような冷たい声はしなかった。気遣うような声が耳を過ぎ去る。
「ここで、待って」
陽耀は踵を返すと、降る雨の中を走り出す。流れた黒髪があの方を連想させた。
整えられた高貴な衣に雨が滲む。
私は縫い止められたように、その背中を眺め続ける。微かに動いた唇はあの方の名を口にして。
声にならない音が漏れた。
雨足は強くなる。
そのまま私はただ立ち止まっていた。
消えた者を律儀に待つ。
雨が屋根を伝い、そのまま落ちてくる。
吐き出した息は白く見えた。
雨が音を奪う。
耳には激しい雨粒しか聞こえない。
そこに現れた藍い衣。
雨に濡れ、滲んだ衣は藍さがくすんで見えた。
迷うことなく私の前に立つ。
乱れた呼吸が私の髪にかかる。
「……すまない、待たせてしまった」
謝る、必要などないのに。
私は顔を伏せたままその言葉を浴びた。
「これを」
雨に濡れた傷のない陶器のような手。差し出された掌には不釣り合いなたこがあった。そに乗せられた白い軟膏壺は濡れてなどいない。
私はなんのことだか分からず、ただ黙って見つめていた。
「何を遠慮しているのだ」
「…………」
遠慮も何もない。私が受け取れる代物でないことくらい蟻である私が最も知っている。
「ほら」
垂れ下がっていた手を掬われた。触れられた指先は濡れ冷えている。だが、私の傷だらけの掌にそっと置かれた白い陶器から温もりを感じた。
「陽耀様」
声が投げられる。
いつの間にか陽耀の背後に傘を差した宦官が控えていた。
「ああ。今、参る」
背後に顔を少し傾け、陽耀は短かく返事をした。そして、今一度、私に声を掛ける。
「それを塗るといい」
それだけを言い残すと、陽耀は雨に濡れた衣を返し宦官のもとへ歩いてく。
その姿を私はただ見つめていた。
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