マスター
自転車をこいでしばらくすると、街がある。東京の渋谷とか、大阪の難波とか、そんな大それた町ではもちろんない。どこにでもある、商店街はシャッターが大半閉まっているとか、そんなどこにでもあるレベルの街。僕はそこにある小さなビルの2階にある喫茶店「ワールド」の常連になっていた。この年で行きつけの喫茶店があるとは、なかなかませたガキだな、と思いつつ僕は店に入った。カランカラン。僕の心の中の音のような、そんな鈴の音。
「いらっしゃいませ」この声はマスター。額に傷があり、かなりの肉体美。昔とがっていたとか暴走族の総長だったとか、まあそんなとこらしい。
「どうも、マスター、いつもの」
「またサボりかい悠介君?」
「ははは、まあそんなところです」
「俺が言えたタチじゃあないけど、ちゃんと言ったほうがいいよ」
「明日からは…」
この会話はほぼ定型文化してきている。このやりとりを一通り済ましてから、僕はいつもの席に着く。窓側の、指定席。外の騒音から壁を一枚隔てた、異空間。街を眺めれば、そこには地獄がある。日差しに焼かれ、何かに追われるようにせわしなく働くスーツを来た人。
「これが大人かよ…」
「どうかした?悠介君?」
「あ、いや、別に」
狭い店内に僕の独り言が響いてしまったらしい。
「はい、ホットココア」
「ありがとうございます」
「大人になりたくない気持ちはわかるよ。」
ぼくは独り言を聞かれていた恥ずかしさから、まだ熱いホットココアをグイっと飲んだ。
「熱っ」
「そんなに急いで飲まなくても」
「そ、そうですよね」
最近何も考えていない。いや、考えていないわけではないのだが、なにも頭に入ってこない。そういう意味では今のココアの熱さはいい刺激になったのかもしれない。そんなことを考えながら、僕はまた街を見下ろしていた。
「社会」「惰性」「妥協」「虚無」などの言葉が浮かんできたが、僕はそれらを捕まえるわけでもなく、頭の中でただ泳がしていた。
「マスター、生きるって何なの?外の人はみんな死んでいるようにしか見えないよ。妥協を受け入れるのが大人になるための儀式なら、このままでいい。このまま生きたいよ」
「悠介君、そんな悲観的にものを見るのはよくないよ。だって…」
マスターが会話を止めたのも無理はない。僕の様子が明らかにおかしかったからだ。僕は外を眺めていたのだが、ふと目に入った光景に死んでいた僕の目が、生気を取り戻す。
「マスター、お勘定、ここに置いておきます」
「あ、ああ」マスターは理解もできずにうなずいた。
そういって僕は走り去るように店を出た。その時忘れたものになんか気がつかないまま。




