花束のひとつも
【Side: レオン・ディートリヒ】
……また、アンナに言えなかった。『好きだ』、って。
月明かりに照らされて、いつもの大通りを通って遠ざかっていく馬車を見送りながら、おれは自分の臆病を嘆いて、歯を噛みしめていた。
はじめて出会ったときから、すっげーかわいいって思っていた。だからって、すぐ好きだの付き合いたいだのって思ったわけじゃない。
ただ、知れば知るほど、アンナ・シュタルクという女の子は真面目で誠実で、しかもすごく賢くて、なのに所々妙に抜けているところもあって、すごく良い子で、……それで、どんどん好きになっていった。
たった2ヶ月しか働かない予定なのに、銀狼亭のことを、すごく真剣に考えてくれる。
出勤日はいつも、母さんよりよっぽど時間を気にして早めに来て、店の中をピカピカに掃除してくれる。そればかりか、テーブルや椅子に木のささくれがあると言って、ひとっ走り行って雑貨屋で紙やすりを買ってきて、お客や店員を傷つけないようにと、やすりがけをして丸めてくれた。
しかも、過去のどの給仕よりも大量のチップを貰っているのに、それを全額、店に渡してしまう。母さんが貰っていいと言っても、「この店に満足してくれたという証しだから」といって、最初に決めた給料以外は頑として受け取ろうとしなかった。
あと、なぜかバレないようにしているみたいだけれど、マジで頭が良い。
注文客が多くて忙しくなると、注文のメモを書き終わるまえに別の客の注文を聞き始める。しかも、メモはどれも正確だ。たぶん、暗記が得意なのだろう。
計算も、異常に速くて正確だ。計算器具なしに、どれだけ注文が多くても瞬時に合計金額をそらで言う。
それでいて、何もかも完璧にできるわけじゃないところが、すごくかわいい。
最初は本当に世間知らずで、流し台に蛇口がないのにどうやって水を出すのか、なんて言っていた。共同水場から汲んでくるのだ、と母さんが説明すると、なぜかひどく感心したように目を輝かせ、面倒な水汲みを率先してやってくれるようになった。
今では掃除熱心なキレイ好きなのに、最初は、雑巾やモップの使い方すら覚束なかった。はじめに水を含ませることすら知らなかったようで、汚れをから拭きし、一向に落ちそうにない汚れを不思議そうに見ていた。
ぼろい古着を着ているけれど、たぶん、本当はすごく金持ちの家のお嬢様なのだろう。少なくとも、水道と蛇口が敷設された家に住める金持ちだ。都市間を転々とできるような商人ともなると、身近にいないから想像しにくいけれど、儲かっているのだと思う。
母さんは、「親御さんが庶民向け市場を開拓しようとしていて、その調査のためにアンナちゃんは銀狼亭で働くことにしたんじゃないか」と言っていた。
アンナは、金持ちなことも優秀なことも、ちっとも鼻にかけることをしなくて、いつも謙虚で、誰に対しても丁寧だ。おれだけじゃなく、母さんもお客たちも、そんなアンナのことを好きになるのに時間はかからなかった。
最近になって増えた常連客も、明らかにアンナ狙いの下心満載な奴らばかり。
アンナと過ごせる期間は短いが、その間、絶対にアンナを護ってやらなきゃな、と、母さんともよく話している。
……ほんとは多分、アンナに想いを伝えるべきじゃない。どのみちアンナは帝都を出ていかなきゃだし、何より、アンナにその気がなかったら、銀狼亭に居づらくさせてしまうかもしれない。
そうなったら、ただでさえ短い勤務期間が、もっと短くなってしまうかも。そうしたら、母さんがカンカンになってゲンコツを落としてくるだろうし、そうじゃなくてもすごく悲しい。
それでも、……たぶん、言わずに離れてしまったら、後悔する。
こんな気持ちは、初めてだった。
「……せめて、きれいな花束のひとつも用意するか」
アンナを乗せた馬車が見えなくなった静かな夜道で、おれはぽつりと呟いた。




