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妾の顔を見た男は、みな狂う。ただ一人、婚約者を除いて  作者: 佐藤みさき
第二章 看板娘のアンナ・シュタルク

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花束のひとつも

【Side: レオン・ディートリヒ】


 ……また、アンナに言えなかった。『好きだ』、って。


 月明かりに照らされて、いつもの大通りを通って遠ざかっていく馬車を見送りながら、おれは自分の臆病を嘆いて、歯を噛(か)みしめていた。


 はじめて出会ったときから、すっげーかわいいって思っていた。だからって、すぐ好きだの付き合いたいだのって思ったわけじゃない。

 ただ、知れば知るほど、アンナ・シュタルクという女の子は真面目で誠実で、しかもすごく賢くて、なのに所々妙に抜けているところもあって、すごく良い子で、……それで、どんどん好きになっていった。


 たった2ヶ(か)月(げつ)しか働かない予定なのに、銀(ぎん)狼(ろう)亭(てい)のことを、すごく真剣に考えてくれる。

 出勤日はいつも、母さんよりよっぽど時間を気にして早めに来て、店の中をピカピカに掃除してくれる。そればかりか、テーブルや椅子に木のささくれがあると言って、ひとっ走り行って雑貨屋で紙やすりを買ってきて、お客や店員を傷つけないようにと、やすりがけをして丸めてくれた。

 しかも、過去のどの給仕よりも大量のチップを貰(もら)っているのに、それを全額、店に渡してしまう。母さんが貰(もら)っていいと言っても、「この店に満足してくれたという証(あか)しだから」といって、最初に決めた給料以外は頑として受け取ろうとしなかった。


 あと、なぜかバレないようにしているみたいだけれど、マジで頭が良い。

 注文客が多くて忙しくなると、注(・)文(・)の(・)メ(・)モ(・)を(・)書(・)き(・)終(・)わ(・)る(・)ま(・)え(・)に別の客の注文を聞き始める。しかも、メモはどれも正確だ。たぶん、暗記が得意なのだろう。

 計算も、異常に速くて正確だ。計算器具(アバカス)なしに、どれだけ注文が多くても瞬時に合計金額をそらで言う。


 それでいて、何もかも完璧にできるわけじゃないところが、すごくかわいい。

 最初は本当に世間知らずで、流し台に蛇口がないのにどうやって水を出すのか、なんて言っていた。共同水場から汲(く)んでくるのだ、と母さんが説明すると、なぜかひどく感心したように目を輝かせ、面倒な水(みず)汲(く)みを率先してやってくれるようになった。

 今では掃除熱心なキレイ好きなのに、最初は、雑巾やモップの使い方すら覚(おぼ)束(つか)なかった。はじめに水を含ませることすら知らなかったようで、汚れをから拭きし、一向に落ちそうにない汚れを不思議そうに見ていた。

 ぼろい古着を着ているけれど、たぶん、本当はすごく金持ちの家のお嬢様なのだろう。少なくとも、水道と蛇口が敷(ふ)設(せつ)された家に住める金持ちだ。都市間を転々とできるような商人ともなると、身近にいないから想像しにくいけれど、儲(もう)かっているのだと思う。

 母さんは、「親御さんが庶民向け市場を開拓しようとしていて、その調査のためにアンナちゃんは銀(ぎん)狼(ろう)亭(てい)で働くことにしたんじゃないか」と言っていた。


 アンナは、金持ちなことも優秀なことも、ちっとも鼻にかけることをしなくて、いつも謙虚で、誰に対しても丁寧だ。おれだけじゃなく、母さんもお客たちも、そんなアンナのことを好きになるのに時間はかからなかった。

 最近になって増えた常連客も、明らかにアンナ狙いの下心満載な奴(やつ)らばかり。

 アンナと過ごせる期間は短いが、その間、絶対にアンナを護(まも)ってやらなきゃな、と、母さんともよく話している。


 ……ほんとは多分、アンナに想(おも)いを伝えるべきじゃない。どのみちアンナは帝都を出ていかなきゃだし、何より、アンナにその気がなかったら、銀(ぎん)狼(ろう)亭(てい)に居づらくさせてしまうかもしれない。

 そうなったら、ただでさえ短い勤務期間が、もっと短くなってしまうかも。そうしたら、母さんがカンカンになってゲンコツを落としてくるだろうし、そうじゃなくてもすごく悲しい。

 それでも、……たぶん、言わずに離れてしまったら、後悔する。

 こんな気持ちは、初めてだった。


「……せめて、きれいな花束のひとつも用意するか」


 アンナを乗せた馬車が見えなくなった静かな夜道で、おれはぽつりと呟(つぶや)いた。

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