雪
夜中に目を覚ますと、窓ガラスが白く曇っていた。
霜ではない。ガラスの外側に、誰かが息を吐きかけたような丸い曇りがひとつ浮かんでいる。ユウトが寝ている座席の横の窓の、ずっと上のほうだ。
曇りはゆっくりと薄れていく。消えかけたところで、すう、と音がして、また同じ場所に浮かんだ。
ユウトは毛布の中で体を固くした。
列車が雪に阻まれて止まったのは、日が暮れる少し前のことだった。線路の先に雪の壁が崩れ落ちていて、機関車の鼻先では押しのけられない。金城は朝まで待つと決めて、客車のストーブの火を小さく絞った。石炭は機関車の分を残しておかなければならない。
客車の中は冷えきっている。
網棚の上には、折れ曲がった自撮り棒が載ったままだ。その下の座席には、乾いて白く粉を吹いた堂島の鞄。通路の端には片方だけのイヤホンが落ちていて、誰も拾おうとしない。六人で乗り込んだときは狭く感じた客車が、今はがらんとして見えた。
ストーブにいちばん近い座席では、白石が寝息を立てている。毛布を三枚まとめて体に巻きつけていた。小森の分だった毛布も、いつの間にかその中に混じっている。
すう、はあ。
窓の外で呼吸の音がした。
曇りが、隣の窓へ移る。またその隣へ。客車の後ろから前へ、ゆっくりと移っていく。ストーブのほうへ。
ストーブの真横の窓で、曇りが止まった。
そこだけ、何度も何度も息が吹きかけられる。曇りがどんどん広がって、やがて窓一面が白くなった。
その白の中に、指の跡が五本、すうっと縦に走る。
外側から、ガラスをなぞっているのだ。きゅう、きゅう、と細い音が続く。
白石は気づかずに眠っていた。
ユウトは息を殺したまま、ストーブに目をやった。火は小さいけれど、まだ赤く燃えている。
機関室へ続く扉が、音もなく開いた。
金城だった。窓の白さを一瞥すると、足音を殺してストーブに近づき、スコップで灰をすくって火の上にかぶせる。赤い光がすうっと消えた。
窓の外の呼吸が止まる。
しばらくして、きしり、と雪を踏む音がした。音は客車の横を離れて、前のほうへ移っていく。
機関車のほうへ。
金城が機関室へ駆け戻る。ユウトも毛布を払いのけて後を追った。
機関室の中は、客車よりずっと暖かかった。火室の扉の隙間から赤い光が漏れていて、中ではススが炭の上で丸くなっている。
金城が火室の扉を閉めて掛け金を下ろした。
運転台の窓が、外から曇った。
すう、はあ。
窓のすぐ向こうに何かがいる。曇ったガラス越しに、白くて細長い影がぼんやりと透けて見えた。頭は窓の上端よりずっと上にあって見えない。
ユウトの背中に、ひやりとしたものが触れた。
ススだった。火室の扉の隙間から這い出してきたらしい。いつもは温かい体が、氷のように冷たくなっていた。小さく縮こまって、ユウトの服の中で震えている。自分の熱を必死に抑え込んでいるようだった。
金城は運転台の陰にしゃがみ込んで、じっと窓を見上げていた。
曇りが、少しずつ薄れていく。
雪を踏む音が遠ざかっていく。
どれくらいたっただろうか。金城が長く息を吐いた。
「……あったけえとこに寄ってくんのか」
*
朝になると、列車の周りの雪に足跡が残っている。
人間の裸足の跡だった。指の形まではっきりとわかる。ただ、長さが大人の腕ほどもあった。足跡は列車の周りをぐるりと回っていて、客車のストーブの窓の下と、機関室の窓の下でだけ、何度も踏み固めたように深くなっていた。
「誰ですか、夜中にストーブ消したの」
毛布にくるまったまま、白石が不機嫌そうに言う。
「凍え死ぬところでしたよ。火の番くらいちゃんとしてくれません?」
「消したのは金城さんです。外に何かいて、ストーブの横の窓に張りついてたんですよ」
ユウトが言うと、白石は鼻で笑った。
「夢でも見たんじゃないですか。相良さん、疲れてるんですよ」
金城は何も言わずに、足跡の脇にしゃがみ込んでいる。
線路の先、崩れた雪の壁の向こうに、小さな駅舎の屋根が見えている。屋根のすぐ下まで雪に埋もれていて、駅名標の上半分だけが雪の上に突き出していた。
白峰、と読めた。
*
駅舎の入り口を掘り出すのに、一時間かかった。
中は真っ暗で、しんと冷えている。待合室のベンチにも窓口にも、うっすらと霜が降りている。真ん中に置かれたダルマストーブは、とうに冷えきっていた。
白石は寒い寒いと言いながら奥の駅長室に入り込み、机の引き出しを片っ端から開けはじめた。暖を取れるものでも探しているらしい。
白石が出ていったあとの駅長室で、ユウトは机の上に帳面が一冊開いたままになっているのを見つけた。
駅の業務日誌だった。表紙には「昭和三十九年 白峰駅」と墨で書いてある。ユウトはかじかむ指でページをめくった。万年筆の几帳面な字が、終わりのほうへ行くにつれて乱れていく。
二月三日(月) 雪後吹雪
夜半、例の白い奴又出でたる由。官舎佐藤方、今朝より煙突の煙上らず。駐在へ連絡済。
二月四日(火) 吹雪
終日運休。白い奴は火の気ある家を覗き廻る模様。各戸へストーブを落とす様申し入れたり。
二月五日(水) 吹雪
除雪板、峠の保線小屋へ上げたまゝにて取りに行けず。米残り二升。
二月六日(木) 吹雪
火を焚くべからず。灯りを点すべからず。温き物より順に持って行かれる。
昨夏詰め置きし夏の瓶、駅長室机の下段に在り。開けば半刻程は夏に戻る。愈々の折は開けられたし。
日誌はそこで終わっていた。二月七日の欄には、日付だけが書かれている。
「峠の保線小屋か」
金城が窓の外の斜面を見上げる。吹雪の切れ間に、山の上のほうへ電柱が点々と続いているのが見えた。
ユウトは机のいちばん下の引き出しに目をやった。半分開いたままになっていて、中は空っぽだった。
待合室に戻ると、白石がベンチに腰かけていた。外套のポケットが丸く膨らんでいる。
「白石さん、駅長室の引き出しに瓶が入ってませんでした?」
「瓶? 知りませんけど」
白石はポケットの上に手を重ねて、窓の外へ目をそらした。
「出せ」
金城が低い声で言う。
「なんのことですか。これは私物です。疑うなら証拠でも出してください」
金城はしばらく白石を睨んでいた。窓の外では、吹雪がまた強くなりはじめている。
「……時間がねえ。勝手にしろ」
金城はそれだけ言って、駅舎を出ていった。
*
保線小屋へは、金城とユウトの二人で行くことになった。
白石は客車に残ると言う。今度は、誰もそれを止めなかった。
「火ぃつけんなよ。ストーブもランプもだ」
出がけに金城が言うと、白石はうんざりしたように顔をしかめる。
「わかってますよ。一回言えばわかりますから」
白石は毛布にくるまって、ストーブの横の座席に深く座り込んでいた。ユウトはふと、白石が少しも震えていないことに気づいた。客車の中は、吐く息が白くなるほど冷えているのに。
金城がつるはしを担いで先を歩く。ユウトはその足跡を一歩ずつ踏んでいった。膝まで雪に沈む。ススはユウトの襟元にもぐり込んで、首筋にぴったりと張りついていた。体はまだ少しひんやりしている。
電柱を目印に、斜面を登っていく。
途中で、金城が足を止めた。
斜面の上から、裸足の足跡が下りてきていた。夜中に列車の周りについていたのと同じ足跡だ。降り積もる雪が、もう縁を丸くしはじめている。
足跡は斜面を下って、ユウトたちが来た方角へ続いていた。
列車のほうへ。
金城はしばらく足跡を見下ろしていた。
「急ぐぞ」
*
保線小屋は、峠の切り通しの脇に建っていた。
トタン屋根に雪がこんもりと積もっていて、戸は凍りついている。金城がつるはしの柄で何度か叩くと、氷が割れてようやく開いた。
中には古い除雪の道具が並んでいた。スコップ、つるはし、大きな木のそり。壁際に、鉄でできた巨大な板が立てかけてある。斜めに反り返った形をしていて、下の縁は刃物のように研がれていた。
「これだな」
金城が板の表面を手のひらで叩く。重たい音がした。
二人がかりで板をそりに載せ、ロープで縛りつける。金城がロープを肩にかけ、ユウトが後ろから押した。
小屋を出ると、吹雪の様子が変わっていた。
さっきまで見えていた電柱が見えない。目の前に手をかざしても、指の先がかすむほどの白さだった。
それでも、斜面を下っていけば線路に出るはずだった。二人は足元の傾きだけを頼りに、雪の中を下っていく。
どれくらい歩いただろう。吹雪が一瞬だけ弱まって、斜面の下に列車の黒い屋根が見えた。
ユウトは息を呑んだ。
客車の横に、白いものが立っていた。
吹雪と同じ色をしているので、輪郭がほとんど見えない。細い。異様に細くて、背が高い。客車の屋根に頭が届きそうなほどある。長い腕が、だらりと膝の下まで垂れていた。
白いものは客車の窓に顔を寄せていた。
ストーブの横の窓だ。
白いものの頭のあたりには、顔らしいものがなかった。のっぺりとした雪の面に、黒い穴がひとつだけぽっかりと開いている。その穴を窓ガラスに押しつけるようにして、何度も何度も息を吹きかけていた。
窓が、みるみる白く曇っていく。
ストーブの火はついていない。煙突から煙も上がっていない。
それなのに、白いものはその窓から離れなかった。
瓶だ、とユウトは思った。白石は日誌に書かれていたあの瓶を、今も外套のポケットに入れたままなのだ。温き物より順に持って行かれる、という一行が頭に浮かんだ。
「金城さん、あれ……」
「わかってる」
金城がロープを肩から下ろした。
そのとき、客車の中から悲鳴が上がった。
*
客車の反対側の扉が勢いよく開く。
白石が転がるように飛び出してくる。毛布を体に巻きつけたまま、雪の中をもがくように走り出した。向かう先は駅舎だった。
白いものが、ゆっくりと客車の屋根越しに頭をめぐらせる。
長い脚が、客車をまたいだ。
白石は膝まで雪に埋もれながら、必死に駅舎のほうへ進んでいく。白いものの歩幅は白石の五歩分はあった。急ぐ様子もないのに、距離はみるみる縮まっていく。
白石が雪に足を取られて転んだ。
外套のポケットから、何かが転がり出た。
ガラスの瓶だった。梅酒でも漬けるような大きな広口瓶だ。瓶は雪の上をころころと転がって、白石の手の届かないところで止まった。
瓶の周りの雪が、じわりと溶けはじめていた。
「あっ……」
白石は駅舎のほうへ向かいかけていた体をひねる。
「待って、それ私の……!」
白石は四つん這いのまま雪をかき分けて、瓶のほうへ手を伸ばした。指先があと少しで届く。
その背中に、すっと影が差した。
白石が顔を上げる。すぐ頭上で、白いものが覆いかぶさるように身をかがめていた。長い腕が、白石の背中へゆっくりと下りてくる。
白石は悲鳴を上げて瓶から手を引っ込めると、雪を蹴散らすように立ち上がった。そのまま駅舎の入り口へ転がり込み、内側から叩きつけるように戸を閉める。
白いものは瓶には見向きもしなかった。ゆっくりと身を起こして、白石の逃げ込んだ駅舎のほうへ向き直る。
駅舎の戸口は、白いものの胸のあたりまでの高さしかない。白いものは長い腕を地面につくと、体を二つに折り曲げるようにして戸をこじ開け、そのまま戸口の中へ潜り込んでいく。
「白石さん!」
ユウトは叫んでいた。
悲鳴が上がる。吹雪の音を突き抜けて、斜面の上までははっきり届くほどの悲鳴だった。
駅舎の窓の向こうで影がもつれ合う。白石の細い影に、長い腕の影が覆いかぶさっていく。
窓ガラスの内側から、白いものが広がりはじめた。
霜だった。窓の四隅から、みるみるうちに霜の模様が伸びていく。
悲鳴が途切れ途切れになっていく。
最後に、窓ガラスに手のひらが押しつけられた。指を大きく広げて、内側から何度もガラスを叩いている。白石の手だった。叩くたびにその手にも霜が這い上がっていき、音は一回ごとに間遠になって、やがて聞こえなくなった。
ユウトは斜面を駆け下りようとしていた。金城の腕が、後ろから肩をつかんで引き戻す。
ユウトは振りほどこうとして、それ以上動けなくなった。
駅舎の窓は、真っ白に凍りついていた。
*
駅舎の戸口から、白いものが這い出してくる。
体を伸ばすと、さっきよりもひと回り大きくなっているように見える。黒い穴から長い息が吐き出された。満足げな、ゆっくりとした息だった。
それから、白いものはゆっくりと頭をめぐらせる。
黒い穴が、雪の上に転がった瓶のほうを向く。
瓶の周りの雪は、もう丸く溶けていた。小さな円の中だけ、黒い土がのぞいている。
白いものが瓶のほうへ歩き出す。
ユウトの頭を、日誌の最後の一行がよぎった。愈々の折は開けられたし。
ユウトは斜面を駆け下りていた。雪に足を取られて何度も転びかけながら、瓶のほうへまっすぐ走る。背中で金城が何か怒鳴った。
白いものの長い腕が、瓶に向かって伸びていく。
ユウトは雪の上に飛び込むようにして瓶をつかんだ。凍えきった手のひらに人肌のような温もりが伝わってきて、耳元でかすかに蝉の声がする。
すう、と息を吸う音が、すぐ真上で聞こえた。
見上げると、黒い穴がユウトを見下ろしていた。白いものの指先が肩に触れ、触れられたところから服の上まで一気に凍りついていく。腕も脚も、凍りついたように言うことを聞かなかった。
その瞬間、横から突き飛ばされた。
金城だった。金城はユウトの手から瓶をもぎ取ると、そのまま白いものとユウトのあいだに割り込んだ。
白いものの指が、金城の背中をかすめる。作業着がばりばりと音を立てて凍りついた。
「今開けねえで、いつ開けんだよ」
金城は歯を食いしばったまま、瓶の封を親指でこじ開けた。
ぽん、と栓の抜ける音がする。
次の瞬間、蝉の声があふれ出す。
ジイイイイイ、ミンミンミンミン。耳が痛くなるほどの蝉しぐれが、瓶の口から噴き出すように広がっていく。
熱い風が吹きつけてきた。
吹雪がやんだ。灰色の雲が真ん中から裂けて、真っ青な空がのぞく。焼けつくような日差しが斜面に降り注いだ。
足元の雪が、音を立てて溶けはじめた。積もっていた雪が見る間に痩せていき、その下から青々とした草が顔を出す。湿った土と草いきれのにおいがした。
白いものが、足を止めていた。
日差しを浴びた白い体から、湯気が上がっている。白いものは長い腕で頭を抱えるようにして身をよじった。黒い穴から、ひゅう、と細く高い音が漏れる。
白いものの体が崩れはじめた。
肩から、腕から、雪の塊がぼたぼたと落ちていく。白いものはよろめきながら後ずさり、まだ雪の残っている谷のほうへ逃げていった。足跡の代わりに、溶けた水の筋がその後を追っていく。
やがて、その姿は谷の奥に消えた。
金城の作業着の背中から、霜が溶けて湯気が上がっていた。
「……いつまで続くかわかんねえ。板取ってくるぞ」
*
雪の溶けた斜面は、そりを引いても滑らない。
二人で両側からロープを引き、ぬかるんだ草の上を引きずっていく。汗が噴き出してきた。ついさっきまで凍えていたのが嘘のようだ。
線路脇の斜面に、赤い実が点々となっていた。
木苺だった。雪の下で眠っていたはずの藪が、あっという間に葉を広げて実をつけている。
金城はロープを引きながら片手を伸ばし、ひとつかみ摘み取った。それをユウトの手のひらにばらばらと落とす。
「食っとけ」
ユウトはひと粒口に入れた。
甘酸っぱい汁が、ぷつりと弾けて舌の上に広がる。夏の日差しの味がした。二粒、三粒と続けて口に放り込む。金城も自分の分を口に放り込んで、少しだけ顔をしかめた。
「酸っぱえな」
そう言いながら、金城はもうひとつかみ摘んでいた。
除雪の板を機関車の鼻先に取り付け終えたとき、蝉の声がふつりと途絶える。
空がみるみる灰色に戻っていく。冷たい風が斜面を吹き下ろしてきて、また雪がちらつきはじめた。
ユウトは駅舎のほうを振り返った。
窓の霜は溶けている。
窓辺に、誰かが立っている。真っ白な人影だった。全身が白く凍りついていて、ガラスの内側に片手を押し当てたまま動かない。顔はこちらを向いていた。
ユウトはそれ以上見ていられずに前を向いた。
ススが火室に飛び込み、機関車が唸りを上げる。
「出すぞ」
金城がハンドルを引いた。
除雪の板が線路の雪を押しのけ、左右に高く跳ね上げていく。列車はゆっくりと白峰駅を離れていった。
*
ユウトは客車の扉を開けた。
ストーブには灰がかぶさったままで、火の気はまったくない。客車の中は、外と変わらないくらい冷えきっていた。ストーブの横の座席に、毛布が三枚丸めたまま残っている。食料の段ボールを開けると、中は空っぽだった。乾パンの空き袋が二つ、底に転がっているだけだ。
自撮り棒も、堂島の鞄も、片方のイヤホンも、同じ場所にあった。
誰もいない座席がずらりと並んでいる。列車の揺れに合わせて、網棚の自撮り棒がかたかたと小さく鳴っていた。
「相良」
機関室から金城の声がする。
「そっちは冷えんだろ。こっち来とけ」
ユウトは客車の扉を閉めた。
機関室の木箱に腰を下ろすと、金城が作業着のポケットから木苺をひとつかみ取り出して、ユウトの手に落とした。さっき二度目に摘んでいたのは、この分だったらしい。
二人で黙って木苺をかじる。
膝の上では、ススが空になった瓶にもたれて眠っていた。瓶の底には、まだほんの少しだけ温もりが残っている。
(第5話 了)




