団地
トンネルを抜けると、外は夜になっていた。
湖を出たのは朝だったはずだ。ユウトは客車の窓に額を押しつけて空を見上げた。月も星も見えない。墨を流したような空の下に、灰色の建物がどこまでも並んでいる。
団地だった。
同じ形の五階建ての棟が、線路の両側に何十棟も続いている。どの棟もベランダに物干し竿が渡してあって、ところどころに洗濯物がぶら下がったままになっていた。窓の明かりはひとつもついていない。それなのに、街灯だけがぽつぽつと白い光を落としている。
列車が急にスピードを落とした。
ブレーキの軋む音が長く響いて、車体が大きく揺れる。白石が座席から転げ落ちそうになって悲鳴を上げた。小森の耳からイヤホンが片方はじけ飛んで、座席の下へ転がっていく。
「ちょっと、何なんですか急に!」
ユウトは窓から身を乗り出して前を見る。
線路の上に人が立っていた。
一人や二人ではない。前照灯の光が届く先まで、線路の上にずらりと人が並んでいる。寝間着姿の男がいる。買い物袋を提げた女がいる。ランドセルを背負った子どもがいる。誰もが線路のほうを向いたまま、ぴくりとも動かない。
前照灯の光が、いちばん手前に立っている男の顔を照らした。
顔がなかった。
目も鼻も口もない。のっぺりとした肌色の面が首の上に載っているだけだ。
その面がゆっくりとこちらを向いた。目などないはずなのに、窓から身を乗り出したユウトをまっすぐ見上げているのがわかる。
ユウトは思わず窓から顔を引っ込めた。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
機関室から金城が降りてきて、線路の上の人影をしばらく眺めていた。それから機関車の運転台を振り返る。
「汽笛でもありゃどかせんだろうがな」
「汽笛ってついてないんですか?」と小森が聞いた。
「ついてたら鳴らしてんだよ」
*
線路脇に駅舎はなかった。かわりに、団地の入り口に小さな管理人室がある。
窓口の小窓に明かりがついていた。中で、作業着を着た初老の男がパイプ椅子に座ってラジオを聞いている。ラジオからは、ざあざあという雑音しか流れていなかった。
「すみません」
ユウトが小窓を叩くと、男はゆっくりと顔を上げた。顔はちゃんとある。痩せていて、目の下に濃い隈ができていた。
「ああ、汽車の人らか。こんな時間に珍しいね」
「線路の上に人がいっぱい立ってて、進めないんです」
「ああ、あれね。あの人らは家の者の帰りを待ってるんだよ。ここは汽車の運転士の家族が住んでた団地でね。仕事を終えた汽車は、ここを通るときに汽笛を鳴らしたもんさ。それが『今帰ったぞ』の合図だったんだよ。あの音が聞こえるまでは、朝になろうがああして線路で待ってるのさ」
「汽笛ってどこかにありませんか」
男は少し考えてから、団地の奥を顎で指した。
「集会所に飾ってあったかな。ここ、昔は国鉄さんの官舎だったからね。蒸気機関車が引退したときに、記念にもらったやつがあるはずだよ」
「あの、すみません。トイレってどこにあります?」
横から小森が口を挟んだ。
男は小森のほうを見なかった。ラジオのつまみをいじりながら、ユウトと金城にだけ目を向けている。
「え、あの、聞こえてます? トイレの場所聞いてるだけなんですけど」
小森が窓口に顔を近づけても、男は目も合わせない。
「……普通に聞いただけなんですけどね。ああいう人、ほんと無理なんで」
小森は舌打ちをすると、片方だけ残ったイヤホンを耳に押し込んで窓口から離れていった。
男はそれを待っていたように口を開いた。
「それとね、三号棟の三〇二号室。あそこにだけは近づかないでおくれよ。あそこはあの人の部屋だから」
「あの人ってのは誰だ」と金城が聞いた。
「この時間になると、窓をのぞいて回る人がいるんだよ。鼻歌が聞こえたら、建物の陰に隠れてじっとしてな。目が合わなきゃ、あの人は何もしやしないから」
男はそこまで言うと、またラジオの雑音に耳を傾けはじめた。
ユウトは霧ヶ原で会った老人のことを思い出しかけて、すぐに頭から追い払った。
*
集会所へは、金城とユウトと小森の三人で向かうことになった。
白石は「私は列車で待ってますね。何かあったときに誰かいたほうがいいので」と言って、客車から降りようともしなかった。
小森が最後までついてくるのを渋っていたのを、金城が「機械工学やってんだろ。汽笛の取り付け手伝え」と引っぱってきた。
「あ、いや、僕のは一般教養の授業なんで……。そんな専門的なことは、ちょっと」
「最初に言ってたのと違うじゃねえか」
「言葉のあやっていうか。役に立てるかなって感じで言っただけなんで」
金城はそれ以上何も言わずに歩き出す。
団地の中は静まり返っていた。
棟と棟のあいだに、小さな公園やゴミ捨て場が点々と並んでいる。ブランコの鎖が錆びていて、砂場には誰かが作りかけた山がそのまま崩れずに残っていた。
途中で、ユウトはふと足を止めた。
三階の窓ガラスに手の跡がついている。
外側からだ。大人の手よりひと回り大きな、指の長い手の跡だった。ひとつではない。見上げると、どの棟でも三階の窓にだけ、同じ手の跡がべたべたとついている。二階にも四階にもない。
「金城さん、あれ」
「わかってるよ。いいから足動かせ」
給水塔の下を通りかかったとき、上のほうで何かが動いた。
見上げると、給水塔のてっぺんに大きな影が丸まっている。
猫だった。
ただ、大きさがおかしい。軽トラックくらいある。三毛の毛並みが街灯の光をぼんやりと受けていて、金色の目が二つ、じっとこちらを見下ろしていた。
「ひっ……」
小森がユウトの後ろに隠れた。
猫は鳴きもせず、動きもしない。ただひくひくと鼻を動かしている。その鼻先はユウトの背負ったリュックのほうを向いていた。
肩の上のススがリュックに飛び移り、口の隙間に潜り込んだ。ごそごそと中をかき回したかと思うと、缶詰をひとつ押し出してくる。客車を出るとき、念のために入れてきたものだ。
缶詰はアスファルトの上を転がって、給水塔の足元で止まった。
大猫の金色の目が、缶詰とススとユウトを順に見下ろす。
ユウトはおそるおそる缶詰を拾い上げると、プルタブを開けて給水塔の足元に置き直した。ススがリュックから顔を出して、満足そうに身を震わせる。
「何やってんだ。行くぞ」
金城はそれだけ言って歩き出した。
少し進んでから振り返ると、給水塔の上の影はもう消えている。足元に置いた缶詰も、きれいになくなっていた。
それからすぐ、小森が「すみません、ちょっとトイレ探してきます。もう限界なんで」と言い残して棟のあいだへ走っていった。
「おい、勝手に離れんな!」
金城が呼んでも、小森は振り返りもしない。イヤホンをつけたままの背中が、暗がりの中へ消えていった。
*
集会所は団地の真ん中にある平屋の建物だった。
中には長机とパイプ椅子が並んでいて、壁には自治会の掲示板がかかっている。夏祭りのお知らせ、ゴミ出しのルール、回覧板の当番表。どれも黄ばんで端が丸まっていた。
部屋の奥に、ガラスの陳列棚があった。
盾やトロフィーに混じって、真鍮の汽笛が飾られている。台座のプレートには「蒸気機関車引退記念 国鉄職員一同」と刻まれていた。
金城がガラス戸を開けて汽笛を取り出す。思ったよりも重いらしく、両手で抱えるようにして持ち上げた。
棚のいちばん下の段には、子どもの工作や折り紙が並べてあった。その端に、古い目覚まし時計がひとつ置いてある。
ベルが二つついた丸い時計だった。文字盤に昇る朝日の絵が描かれていて、針は五時の少し前で止まっている。裏返すと、色あせたシールに子どもの字で「よあけどけい」と書いてあった。
その時計に、ススが肩から飛び移った。二つのベルのあいだにすっぽりと収まって、丸い体をしきりにこすりつけている。ユウトがつまみ上げようとしても、時計にしがみついて離れようとしない。
「おい、何遊んでんだ」
「ススが離れなくて……」
「なら時計ごと持ってけ」
ユウトは時計を抱え上げた。ずしりとした重みがあって、背中にはねじを巻く鍵がついている。ススは時計の上に乗ったまま、ご機嫌そうに丸くなった。
集会所の隅には小さな流し台があって、戸棚の中にやかんと湯呑み、それにココアの缶が入っていた。
汽笛を棚から出し終えた頃、集会所の戸が開いて小森が入ってきた。妙にすっきりした顔をしている。
「三号棟の三階に、ドアが開けっぱなしの部屋があったんで、トイレ借りちゃいました。鍵も挿しっぱなしだったんですよ。不用心ですよね」
金城の手が止まった。
「三号棟の三階っつったか」
「はい。階段のすぐ横の部屋ですけど。番号までは見てないんで」
「……二度とそこに近づくんじゃねえぞ」
「はあ。なんでですか」
金城は答えずに汽笛を抱え直した。小森は肩をすくめて、またイヤホンを耳に押し込む。
*
集会所を出たとき、鼻歌が聞こえた。
ふん、ふん、ふふん、と低い声が節をつけている。どこかで聞いたことのある子守唄だった。
声は上のほうから聞こえてくる。
ユウトは金城の袖を引いて、すぐそばの棟の陰に身をひそめた。小森も慌てて後ろについてくる。
鼻歌が近づいてくる。
隣の棟の角から、それが現れた。
最初に見えたのは頭だった。三階の窓の高さに、人の頭が浮かんでいる。白髪まじりの髪を後ろでひとつに束ねた、中年の女の頭だった。
その下に、首が続いていた。
異様に長い。頭から肩まで、建物の二階分ほどもある。首の下には痩せた体がついていて、色あせた花柄のパジャマを着ていた。足元はスリッパだ。体だけなら普通の人間と変わらない大きさなのに、首のせいで頭は三階の窓にちょうど届く高さにあった。
それは、ふんふんと鼻歌を歌いながら、三階の窓を一枚ずつのぞいて回っていた。
窓に顔を近づけて、長い指をべたりとガラスに押しつける。中をしばらくのぞき込んでから、首をくねらせて次の窓へ移る。
ユウトは口を手で押さえた。息の音さえ聞かれてはいけない気がした。
管理人の言葉を思い出す。目が合わなきゃ、何もしやしない。
それは窓をのぞきながら、少しずつこちらの棟へ近づいてきた。
鼻歌が真上から聞こえるようになる。
ユウトは下を向いて、地面の一点だけを見つめていた。肩の上ではススが全身の毛を逆立てて、首筋にぴたりと張りついている。
視界の端に、スリッパを履いた足が入ってきた。すぐ目の前だ。
鼻歌が止まった。
頭の上で、首がゆっくりと曲がっていく気配がした。ぎし、ぎし、と古い木が軋むような音がする。その音が、だんだん下へ降りてくる。
視界の上のほうに、逆さまになった女の顔が下りてくる。
目が合った。
生気のない灰色の目がすぐそこにある。女は口の端を少しだけ持ち上げて笑った。
その瞬間、背中を思いきり突き飛ばされた。
ユウトは前のめりに転がって、女の顔のすぐ下に倒れ込んだ。
「こ、こっちです! この人が勝手に動いたんで! 僕は関係ないですから!」
小森の声だった。
女の長い指がユウトの顔に伸びてくる。冷たい指先が頬をかすめて、焼けるような痛みが走った。
次の瞬間、ユウトは襟首をつかまれて後ろへ引きずられていた。金城だ。女の指が、ユウトの頭があった場所の空気をつかむ。
小森は三号棟の階段のほうへ走っていた。途中で一度だけこちらを振り返る。その目が女の目とまともにぶつかったのが、ユウトにもわかった。
小森は引きつった悲鳴を上げて階段を駆け上がっていく。
「さっきの部屋、鍵かかるんで! 僕そっちに隠れますから!」
三階の廊下を走る足音が響き、ドアの開く音がした。
ばたん、と閉まる。
がちゃり、と内側から鍵のかかる音がした。
女の動きがぴたりと止まった。
ユウトに伸ばしかけていた指を引っ込めて、首をゆっくりと三号棟のほうへ巡らせる。階段にいちばん近い三階の部屋。ドアの横の表札は暗くて読めない。
それでも、その窓の位置は三〇二号室だった。
女はまた鼻歌を歌いはじめた。さっきよりも少し弾んだ節回しで、ふんふんと楽しげに。スリッパをぺたぺたと鳴らしながら、三号棟のほうへ歩いていく。
金城はユウトを棟の陰に押し込むと、自分もその隣に身を沈めた。頬に触れると、指先にぬるりと血がついてきた。
*
三〇二号室の窓に明かりがついた。
カーテンの向こうに、小森の影が映っている。窓に背を向けて座り込んでいるようだった。
「ここなら安全だ……ここなら安全だ……」
中から小森の声が聞こえてくる。自分に言い聞かせるように、何度も繰り返していた。
女の頭が三〇二号室の窓の前で止まった。
長い指が窓枠にかかる。からからと音を立てて、窓が外から開けられた。鍵はかかっていなかった。
女の首が、窓の中へするすると入っていく。
「ただいまあ」
部屋の中から、女の声がした。
小森の悲鳴が上がる。
ユウトは棟の陰から飛び出しかけた。何をしようとしたのかは自分でもわからない。金城の太い腕が、ユウトの胸を後ろから押さえつけた。
「放してください! 小森さんが!」
「行ってどうすんだ!」
「でも、だって」
悲鳴は長く続いた。途中で言葉になりかけて、また崩れる。助けて、と聞こえた気がした。お母さん、とも聞こえた気がした。
それから別の音が混じりはじめる。
ぎし、ぎし、ぎし。
さっき女の首が曲がったときと同じ、古い木が軋むような音だった。その音が、悲鳴に合わせて少しずつ長くなっていく。カーテンに映った小森の影が、上へ、上へと引き伸ばされていくのが見えた。
ユウトは目を閉じることもできなかった。
悲鳴が止んだ。
ぎし、ぎし、という音だけが、しばらく続いていた。
部屋の明かりが消える。
ユウトの膝から力が抜けた。その場に座り込むと、手も足もがたがたと震え出して、自分の体なのにどうやっても止められない。頬の傷がじんじんと脈を打っていた。
ついさっきまで、小森は同じ場所にしゃがんでいたのだ。
金城はユウトの肩をつかんだまま、三〇二号室の窓をじっと睨みつけていた。
*
三〇二号室の窓から、女の首がずるりと出てきた。
女は窓の外で首を一度ぐるりと回すと、またこちらを向く。
鼻歌が聞こえる。
さっきとは違う。声が二つ重なっていた。女の低い声と、もうひとつ、それよりも少し高い、若い男の声。調子の外れた二つの鼻歌が、同じ子守唄をなぞっていた。
女はスリッパを鳴らしながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。
もう窓はのぞいていない。三階の高さから、ユウトと金城の隠れている棟の陰だけを見下ろしていた。
「走るぞ」
金城の声と同時に、ユウトは地面を蹴っていた。
棟と棟のあいだを抜け、公園の脇を駆ける。後ろからスリッパの音がぺたぺたと追ってくる。歩幅が違いすぎた。振り返るたびに、首の先の顔が近くなっている。
公園の角を曲がったところで、行く手がフェンスにふさがれた。
ぎし、ぎし、と音を立てながら、女の首が頭上から下りてくる。
金城がユウトの前に出て、足元のブロック片を拾い上げた。
女の首がしなって、鞭のように横から飛んでくる。金城がとっさにユウトを突き飛ばした。ユウトは背中から地面に叩きつけられ、背負っていたリュックがアスファルトの上で大きく跳ねる。
ジリリリリリリ。
リュックの中から、けたたましいベルの音が鳴り響いた。
口の開いたリュックから、ススが目覚まし時計ごと転がり出てくる。ススは時計の背中の鍵にしがみついたままだった。集会所からずっと、そこにまとわりついていじっていたらしい。落ちた拍子にベルのつまみが外れたのか、よあけどけいは止まる気配もなく鳴り続けていた。
空の端が白んだ。
墨を流したようだった空が、東の端から少しずつ薄くなっていく。街灯の光が色を失っていく。
女が悲鳴を上げた。
人の声とは思えない、金属を擦り合わせたような甲高い声だった。女は光から顔を背けるように、長い首をめちゃくちゃに振り回しはじめる。首が棟の壁を打ち、三階の窓ガラスが何枚もまとめて砕け散った。破片が雨のように降ってくる。
女の顔がこちらを向いた。灰色の目が大きく見開かれている。さっきまでの薄笑いはもうどこにもなかった。
首が大きくしなって、ユウトと金城のほうへまっすぐ振り下ろされる。
そのとき、頭上で何かが風を切った。
給水塔のほうから、大きな影が一直線に飛んでくる。
三毛の大猫だった。
大猫は女の首に横から飛びかかると、そのまま地面に押し倒した。女の体が植え込みに倒れ込み、長い首がアスファルトの上でのたうつ。大猫は背中の毛を逆立てて、喉の奥から地鳴りのような唸り声を上げた。
女が首を跳ね上げて大猫に巻きつこうとする。大猫が前足でそれを叩き落とす。二匹はもつれ合いながら、公園の砂場の上を転がっていった。
大猫の脇腹に、女の長い指が食い込んでいた。三毛の毛並みに赤いものがにじんでいる。
そのあいだにも、空はどんどん明るくなっていく。
棟の屋根の向こうから朝日の最初の光が差し込むと、女の体から細い煙のようなものが立ちのぼりはじめた。女は大猫を振り払い、身をよじりながら三号棟へ逃げ戻っていく。スリッパが片方脱げて、アスファルトの上に転がった。首を窓に差し入れると、するすると三〇二号室の中へ消えていく。
窓が、内側からぴしゃりと閉まる。
ベルの音が止んだ。拾い上げた時計はガラスにひびが入っていて、針はもう動いていなかった。
大猫は砂場の上に座り込んで、脇腹の傷をざりざりと舐めていた。やがて立ち上がると、ユウトのほうを一度だけ振り返る。金色の目がゆっくりと瞬きをした。
それから大猫は棟の屋根に飛び移り、朝日の向こうへ消えていく。
*
集会所に戻ると、金城は何も言わずに自分の作業着の上着をユウトの肩に放ってよこした。煙草と機械油のにおいがする。上着の重みを感じてはじめて、体が芯まで冷えきっていたことに気づいた。
流し台のほうで、やかんが湯気を立てている。
金城は戸棚からココアの缶を取り出すと、湯呑みに粉をどさどさと入れた。スプーンで量りもしない。砂糖の袋を見つけると、それも山盛り三杯放り込んだ。お湯を注いで、指で軽くかき混ぜる。
「飲め」
差し出された湯呑みを受け取ると、手のひらがじんと熱くなった。
ひと口すすって、ユウトは思わずむせた。甘い。舌が痺れるほど甘い。ココアの粉が溶けきらずに底でざらざらしている。
それでも、甘さが喉を通っていくと、震えが少しずつ収まってきた。
金城は向かいのパイプ椅子に腰を下ろして、自分の分のココアをすすっている。一口飲んで顔をしかめる。
「……甘すぎんな、これ」
ユウトは少しだけ笑った。
*
列車に戻ると、白石が客車のデッキから顔を出した。
「遅かったじゃないですか。あれ、小森さんは?」
「小森は戻らねえ」
金城はそれだけ言った。
白石は一瞬だけ眉をひそめた。けれどすぐに、ふうん、と気のない声を漏らす。
「そうですか。……まあ、どうせ勝手なことしたんですよね、あの人。私はずっとここにいましたから。危ないことには最初から関わってませんし」
白石は客車の中を振り返って、食料の入った段ボールに目をやった。
「じゃあ、配分も見直さないといけませんね。一人減ったわけですし」
ユウトは何も言えずに立っていた。白石はそれ以上何も聞かずに、さっさと客車の中へ戻っていく。
*
朝日の中でも、線路の上の人影は来たときと同じように並んだまま、一人も動いていなかった。
汽笛は機関車の屋根の上の古い取り付け口に、ぴたりとはまった。
金城が運転台から伸びた紐を引く。
ボォォォォォ、と低く長い音が、朝焼けの団地に響き渡った。
線路の上の人影が、一斉にこちらを向いた。
顔のない顔が、ずらりと並んでこちらを見ている。ユウトは息を呑んだ。
けれど次の瞬間、人影はくるりと向きを変えて、ぞろぞろと歩き出した。寝間着の男も、買い物袋の女も、ランドセルの子どもも、それぞれの棟の階段へ吸い込まれるように帰っていく。
線路の上には、誰もいなくなった。
ススが火室に飛び込み、機関車が唸りを上げる。
「出すぞ」
列車がゆっくりと動き出した。
ユウトは客車の窓から三号棟を振り返った。
三〇二号室の窓にカーテンが引かれている。朝日がそこに差して、部屋の中の影を薄く映していた。
影は二つあった。
どちらも、首が異様に長い。片方は窓の上端に頭がつかえるほどの背丈で、ゆっくりと左右に揺れている。もう片方はそれより少し低かった。
低いほうの影の首は、見ているあいだにもじわじわと伸び続けていた。
二つの頭がそろって、同じ拍子で左右に揺れている。
ユウトはカーテンを閉めた。
膝の上で、ひびの入った目覚まし時計がことりと傾いた。
(第4話 了)




