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3/6

水底

トンネルを抜けると、目の前に湖が広がっていた。


 鉛色の水面がどこまでも続いている。山に囲まれた谷をそのまま水で満たしたような湖で、岸辺の木は根元まで水に浸かっていた。ところどころから瓦屋根や電柱の先が突き出している。ダムに沈んだ町らしい。


 線路は湖へ向かってなだらかに下っていき、そのまま水の中へ消えていた。


 はるか向こう岸に、トンネルの黒い口が小さく見える。線路はそこまで水の底を通っているのだろう。


 列車は湖のほとりの小さな駅で止まった。土手の上にコンクリートのホームがあり、錆びた駅名標には「水底」と書いてある。


 ホームの端に茶屋が一軒建っていた。色あせたのれんが下がっていて、軒先の七輪から細い煙が上がっている。


「おっ、店やってるじゃないの。助かったねえ」


 堂島が真っ先にホームへ降りていく。


 ユウトも後に続いた。湖から吹いてくる風が冷たく、かすかに泥のにおいがする。肩の上でススが身を縮める。


 金城は機関車の下にもぐり込んで、しばらく車輪のあたりを見て回っていた。這い出してくると、作業着の膝についた砂を払いながら湖のほうを睨む。


「このまま突っ込んだら軸箱に水が入るな。途中で止まったら終わりだ」


「じゃあどうするんですか?」と白石が聞いた。


「隙間ふさがねえとな。ゴムかなんかでよ」


 金城はそれだけ言うと茶屋のほうへ歩いていく。


    *


 茶屋の中には腰の曲がった老婆が一人いた。


 割烹着を着て、七輪の前で団扇を動かしている。網の上ではなにも焼かれていない。それでも炭だけは赤々と熾っている。


「おやまあ、お客さんかい。珍しいこともあるもんだねえ」


 老婆はユウトたちの顔を見回すと、しわだらけの顔をくしゃりとほころばせた。


「ばあちゃん、ここで何か食えるのかい? もう乾パンばっかりで飽き飽きしてんだよお」


 堂島が身を乗り出して聞く。老婆は堂島のほうを見なかった。団扇を動かす手も止めない。


「まずはお茶でもお飲み。寒かったろう」


 老婆は欠けた湯呑みに番茶を注いで、ユウトと金城と白石と小森の前に置いていく。堂島の前には何も置かれなかった。


「おいおい、俺の分は? ばあちゃん、ボケてんのかい」


 堂島が自分で急須に手を伸ばす。中は空になっていた。


 ユウトは湯呑みを両手で包んだ。番茶は熱くて香ばしく、冷えた指先にじんわりとしみる。


「あの、この辺でゴムとか売ってるところってありますか。列車の修理に使いたくて」


「ゴムねえ。それなら水門の番小屋に行ってごらん。町が沈む前に、男衆があそこで機械の手入れをしてたからね」


 老婆は団扇で湖の右手を指した。水面から古いコンクリートの建物が半分だけ顔を出している。屋根の上に錆びた水門の巻き上げ機が見えた。


「舟なら裏につないであるのを使いな」


 そこで老婆は団扇を止めて、湖の真ん中のほうを向く。


 水面から鳥居が突き出していた。朱色はほとんど剥げ落ちて、黒ずんだ柱が水の中から生えているように見える。笠木のすぐ下まで水に浸かっていた。


「あの鳥居にだけは近寄るでないよ。あそこは主さまの餌場だからね」


「主さまって何ですか?」と小森が聞いた。


 老婆はそれには答えずに、また団扇を動かしはじめる。


「向こう岸まで無事に渡れたら、うまいもんを食わしてやるよ。約束だ」


    *


 舟は三人乗るのがやっとの小さな木舟だった。


 金城が櫓を漕ぎ、ユウトが舳先に座る。白石は「私は荷物を見ておきますので」と茶屋の縁台に腰を下ろし、小森も「僕、船酔いするんで」とその隣に座り込んだ。


「俺も乗せてってくれよ。人手は多いほうがいいだろ?」


 そう言って最後に乗り込んできたのは堂島だった。舟が大きく傾いて、ユウトは慌てて船べりにしがみつく。


 湖の水は濁っていて底が見えない。


 舟が進むにつれて、沈んだ町の様子が少しずつわかってきた。二階の窓まで水に浸かった家がある。屋根だけ出した商店がある。水面から突き出した看板には「おいしい牛乳」と書いてある。


 電柱のあいだを抜けていくとき、ユウトは水面に浮かぶ泡に気づいた。


 ぽこり、と大きな泡がひとつ浮かんで弾ける。少し間を置いて、またひとつ。同じくらいの間隔で、同じ場所から浮かんでくる。


 まるで水の底で何かが息をしているようだった。


「なんだい、あれ」と堂島が言った。


「キョロキョロすんな。舟が揺れんだろ」


 金城は櫓を動かす手を速める。


 途中で、屋根の上に「郵便局」の看板を掲げた建物の前を通りかかった。二階の窓ガラスが割れていて、中に入れそうになっている。


「なあ、ちょっと寄ってかないかい? 郵便局なら金庫とかあるだろ」


「寄らねえよ」


「部品があるかもしれないじゃないの。なあ兄ちゃん、そう思うだろ?」


 堂島に肩を揺さぶられて、ユウトは返事に困った。金城は大きく舌打ちをすると、舟を郵便局の窓に寄せる。


「五分だけだぞ」


    *


 郵便局の二階は窓口の裏の事務室だった。


 床は泥で覆われていて、机の上に古い郵便物が積み重なったまま乾いている。壁には昭和の年号の入った鉄道郵便の路線図が貼られていた。


 堂島は真っ先に机の引き出しを開けて回り、小銭や切手を見つけてはポケットに押し込んでいく。


 部屋の奥に、鉄で補強された木箱がひとつ置いてあった。蓋には赤いペンキで「鉄道郵便 特急便」と書いてある。


 金城がバールで蓋をこじ開けると、中から水筒ほどの大きさの筒が出てきた。


 真鍮でできていて、表面は磨き上げたように光っている。片方の端は花びらのように開いた噴射口になっていて、反対側に引き金のようなレバーがついていた。胴体には郵便マークと、小さな文字で「一回限リ使用ノコト」と刻まれている。


「なんですか、これ」


「さあな」


 金城は筒をひっくり返して噴射口をのぞき込み、それから機関車のある方角を見た。


「……連結器の後ろに付けりゃ、押せるかもな」


「おっ、こりゃいいもんじゃないの」


 横から堂島が筒を取り上げる。


「真鍮だよこれ、真鍮。それにこの細工。好きな人にはたまんないやつだよお。重いだろ、俺が持っててやるよ」


 金城は堂島の顔をしばらく見ていたが、何も言わずに部屋を出ていった。


    *


 水門の番小屋は、思っていたよりも水に深く沈んでいた。


 舟を屋根に横付けして、天窓から中へ降りる。腰まで水に浸かりながら棚を探ると、油紙に包まれたゴムのパッキンとグリースの缶がいくつも見つかった。


「十分だな」


 金城はそれを肩に担いで天窓をよじ登る。ユウトも後に続こうとしたとき、窓の外の水面で何かがばしゃりと跳ねた。


 小屋の裏手は沈んだ小学校の校庭だったらしい。水面からフェンスの上端だけが突き出していて、そこに古い漁網が絡まっていた。


 網の中で大きなものがもがいている。


 亀だった。


 甲羅だけで軽自動車ほどの大きさがある。苔むした甲羅に網が幾重にも食い込んでいて、もがくたびに首が水の上に出ては沈んだ。


「うわ、でかっ。なあ、あれ甲羅売ったらいい値になるんじゃないのかい?」


 舟の上で待っていた堂島が身を乗り出す。


 金城は黙って舟をフェンスのほうへ寄せると、腰の作業ナイフを抜いた。


「ちょ、ちょっと。噛まれたらどうすんのさ」


「押さえとけ、相良」


 ユウトは船べりから身を乗り出して網の端をつかんだ。金城が網を一本ずつ切っていく。亀は暴れるのをやめて、じっと金城の手元を見ていた。


 最後の一本が切れると、亀はゆっくりと首を伸ばす。


 濁った湖の水のような色の目で、ユウトと金城を交互に見る。それから音もなく水の中へ沈んでいった。


 しばらくして、少し離れた水面に一度だけ大きな波紋が広がる。


「なんだいなんだい、礼もなしかい」


 堂島が鼻で笑う。


 帰り道、舟は湖の真ん中のほうを大きく迂回していった。


 鳥居の近くを通りかかったとき、堂島が急に黙り込む。ユウトがその視線の先を追うと、鳥居の柱の根元のあたりで水の中に何かが光っていた。


 金色だ。


 濁った水を通しても、それははっきりと見えた。小判のようなものが何枚も、鳥居の足元に沈んでいる。


「おい、あれ……」


「見んなっつったろ」


 金城は櫓を大きく漕いで、鳥居から舟を遠ざけた。堂島は首だけをねじって、いつまでも後ろを見ている。


    *


 駅に戻ると、金城はすぐに機関車の下へもぐり込んだ。


 パッキンをはめてグリースを詰め、車輪の軸箱をひとつずつ塞いでいく。ユウトは懐中電灯で手元を照らしながら工具を渡す。作業が終わる頃には、湖の上の空が赤く染まりはじめていた。


「あとはあの筒だな」


 金城が機関車の下から這い出してくる。


 連結器の後ろには、筒を取り付けるための金具をすでに用意してあった。けれど、肝心の筒が見当たらない。


「堂島はどこだ」


「さっきまでそこにいましたけど」と白石が言う。「何か大事そうに鞄を抱えて、茶屋の裏のほうに行きましたよ」


 小森がおずおずと手を挙げた。


「あの、僕見ちゃったんですけど……堂島さん、あの筒を自分の鞄に入れてましたよ。売ったらいくらになるかなとか、一人でぶつぶつ言いながら。言おうか迷ってたんですけどね、一応」


 金城がホームの端の茶屋へ向かって走り出す。舟をつないである桟橋はその裏手だ。ユウトも後を追った。


 裏手の桟橋に、木舟がつないであったはずの杭だけが残っていた。


 湖の上に舟が浮かんでいる。


 堂島が一人で櫓を漕いでいた。膝の上にはパンパンに膨らんだ鞄が載っている。舟はまっすぐ湖の真ん中へ向かっていた。


「堂島ァ! 戻れ!」


 金城の声が湖面に響く。堂島は振り返って、こちらに向かってへらへらと手を振ってみせる。


「ちょっと拾ってくるだけだよお! すぐ戻るって! あんたらの分もちゃんと分けてやるからさあ!」


 舟は鳥居の真下で止まった。


 堂島は船べりから大きく身を乗り出して、水の中へ腕を突っ込む。夕日を受けて、引き上げた手の中で何かが金色に光った。


「ほら見ろ、本物だよ! 小判だよこれ!」


 堂島はもう一度腕を突っ込んだ。今度はもっと深く、肩まで水に浸かるほどに。


 そのとき、舟の周りの水面がゆっくりと盛り上がった。


 波が立ったのではない。舟の下にある何かが、水を押し上げながら浮かんでくる。濁った水の中に白いものが見えた。舟よりもずっと大きい。


 ユウトは声も出せなかった。


 白いものの縁から、何かが水の上に伸びてくる。


 手だった。


 人間の手をそのまま大きくしたような形をしている。指のあいだに薄い膜が張っていて、魚のひれのようにも見える。それが二本、舟の両側からゆっくりと船べりをつかんだ。


 堂島はまだ水の中を探っている。


「もうちょい……もうちょいなんだよ……」


 ざぶん、と大きな水音がひとつだけ響いた。


 舟がひっくり返る。


 白いものも、手も、堂島も、一瞬で水の中に消えた。


 湖は何事もなかったように静まり返る。転覆した舟の底だけが、夕日の中でゆらゆらと揺れている。


 金城が湖に足を踏み入れた。膝まで、腰まで、ためらいもなく水の中へ進んでいく。


「金城さん!」


「やめてください、巻き込まれますよ!」


 後ろから白石の声が飛んだ。


 金城は腰まで水に浸かったところで立ち止まった。それ以上は進まずに、じっと鳥居のほうを見つめている。


 鳥居の根元のあたりで、ぽこりと泡がひとつ浮かんだ。


 少し間を置いて、またひとつ。


    *


 その夜、茶屋の明かりはいつの間にか消えていた。のれんの奥をのぞいても老婆の姿はどこにもない。


 客車の中で、白石は毛布にくるまりながら小声で言う。


「正直、あの人がいなくなって助かったところもありますよね。食料のこととか」


「まあ、自業自得っていうか……。僕はちゃんと報告しましたし」


 小森がイヤホンを片方だけ外して相槌を打つ。


 ユウトは何も言わずに窓の外を見ていた。


 ホームの端に金城が座っている。膝から下はまだ濡れたままだった。懐中電灯もつけずに、暗い湖のほうを向いて動かない。


 夜が更けてから、ユウトは物音で目を覚ました。


 ずる、ずる、と何か重たいものが濡れた地面を這う音がする。ホームの下の土手のあたりからだ。それから、大きな生き物がゆっくりと息を吐くような、湿った音が聞こえた。


 音はしばらく土手を行ったり来たりしていたが、やがて水の中へ戻っていく。


 ホームの端にはまだ金城の背中が見えていた。


    *


 朝になると、土手の下から水際まで、ぬめった跡が一本続いていた。幅はちょうど大人が両腕を広げたくらいある。跡はホームの階段の一段目まで来て、そこで引き返しているように見えた。


 金城の姿はもうホームにない。


 桟橋のほうへ行ってみると、金城が水際にしゃがみ込んでいた。


 湖の中から、苔むした甲羅がゆっくりと近づいてくる。


 昨日の大亀だった。鼻先で何かを押しながら泳いでくる。


 膨らんだ鞄だった。


 大亀は鞄を桟橋の杭のあいだに押し込むと、ユウトと金城の顔をもう一度だけ見て、また水の中へ沈んでいく。


 金城が鞄を引き上げる。中から湖の水があふれ出した。


 中身は小銭の封筒が三つ、切手の束、古い腕時計がいくつか、乾パンが四袋、缶詰が二つ。いちばん底に真鍮の筒が入っていた。


 金城は筒だけを取り出すと、残りを鞄に詰め直して肩に担いだ。


「……あいつ、乾パンまで持ってきてやがったのか」


 それだけ言って、金城は鞄を担いだまま列車のほうへ歩いていった。


 茶屋の前を通りかかると、老婆が七輪に炭を足している。


「主さまが寝てるうちにお行き。昼になったら起きるからね」


    *


 堂島の鞄は、客車の堂島が座っていた座席に放り込まれた。


 真鍮の筒は、連結器の後ろの金具にぴたりと収まった。


 レバーには針金が結んであって、機関室の窓から引けるようになっている。金城はその端をユウトに押しつけた。


「俺が合図したら引け。それまで絶対触んなよ」


「は、はい」


 ススが火室に飛び込むと、機関車が低く唸りはじめる。白石と小森は客車の座席にしがみついている。


「出すぞ」


 金城がハンドルを引いた。


 列車がゆっくりと土手を下っていく。車輪が水に入ると、ざぶざぶと音を立てて波が左右に分かれた。水は少しずつ深くなっていき、やがて客車の床すれすれまで迫ってくる。パッキンのおかげか、機関車は止まらずに進んでいた。


 沈んだ町の屋根のあいだを、列車はゆっくりと進んでいく。


 湖の真ん中あたりまで来たとき、前方の水面に泡が浮かんだ。


 ぽこり。


 ぽこり。


 間隔が、だんだん短くなっていく。


「金城さん」


「わかってる」


 線路のすぐ先で水面が盛り上がった。


 白いものが浮かび上がってくる。今度はその姿がはっきりと見えた。


 ナマズだった。


 路線バスほどの大きさがある。ぬめった白い体に、黒い斑点がまだらに散っていた。顔の両側から長いひげが垂れていて、小さな目は濁った湖の水と同じ色をしている。胸びれのあったはずの場所から、昨日見たあの大きな手が二本生えていた。


 ナマズは線路の上に横たわるようにして、こちらを向く。


 大きな口がゆっくりと開く。


 口の奥で、何かが金色に光っていた。


 機関車のスピードでは止まれない。避けようもない。ユウトは窓枠を握りしめたまま、近づいてくる白い口を見ていることしかできなかった。


 そのとき、ナマズの横腹の水面が大きく割れる。


 苔むした甲羅が水しぶきとともに飛び出してきて、ナマズの体に横からぶつかる。


 大亀だ。


 大亀はナマズの首のあたりに食らいつくと、そのまま体をひねって線路の外へと押しやっていく。ナマズが身をよじって暴れた。白い手が大亀の甲羅をつかみ、二匹はもつれ合いながら水の中へ沈んでいく。


 線路の上が空いた。


 けれど、湖の底のほうからまた泡が浮かんでくる。大亀がどれだけ持ちこたえられるのかはわからない。


「相良! 引け!」


 ユウトは針金を力いっぱい引く。


 背中を蹴り飛ばされたような衝撃が来た。


 連結器の後ろで真鍮の筒が青白い炎を噴き上げる。列車が一気に加速した。車輪が水を切り裂き、両側に白い水しぶきが壁のように立ち上がる。客車のほうから白石の悲鳴が聞こえた。


 列車は水面を跳ねるようにして湖を突っ切っていく。


 ユウトは後ろを振り返った。


 水しぶきの向こうで、湖の真ん中の水面が大きく渦を巻いている。白いものと苔むした甲羅が一瞬だけ浮かび上がり、また沈む。


 それきり、何も浮かんでこなかった。


 筒の炎がふっと消える。


 勢いのまま、列車は向こう岸の土手を駆け上がっていく。ブレーキの軋む音が長く響いて、ようやく止まった。


    *


 向こう岸にも小さな駅があった。


 ホームの端に茶屋が一軒建っている。色あせたのれんも軒先で煙を上げる七輪も、出発した駅にあったものとまったく同じだった。


 のれんをくぐったところで、ユウトは思わず足を止めた。


 割烹着の老婆が七輪の前で団扇を動かしている。湖の向こう側で別れた、あの老婆だ。


「おや、ちゃんと渡ってきたじゃないか。ちょうど焼けたところだよ」


 列車より先に、どうやってここまで来たのだろう。老婆の割烹着の袖はぐっしょりと濡れていて、細い腕には何かに強くつかまれたような赤いあざが残っていた。


 七輪の網の上で、鰻が焼かれていた。


 甘いタレの焦げるにおいが、茶屋の中いっぱいに広がっている。脂が炭に落ちるたびに、じゅっと音を立てて白い煙が上がる。


 ユウトの腹が大きく鳴った。考えてみれば、まともな食事をしたのは家を出る前が最後だ。


「さあお座り。向こう岸まで渡れたら食わしてやるって、約束したろう」


 老婆は焼けた鰻をまな板の上で手早く切り分けると、炊きたての飯の上に載せて、上からタレをたっぷりと回しかけた。大きな握り飯を海苔で包み、皿に並べていく。湯気の立つ椀には、しじみの味噌汁が注がれる。


 縁台の上には、皿がはじめから四つだけ並べてあった。


 老婆はそこに握り飯を載せると、ユウトと金城と白石と小森の前へ順に置いていく。


「いただきます……」


 ユウトは握り飯にかぶりついた。


 香ばしく焼けた皮の下から、ふっくらとした身がほどける。甘辛いタレが熱い飯にしみ込んでいて、噛むほどに口の中に広がった。夢中で二口、三口と頬張る。しじみの味噌汁をすすると、冷えきっていた体の芯が内側からほどけていくようだった。


「え、普通においしいんですけど」


 白石がぽつりと言う。最初は「朝から鰻なんて重たいですよ」と渋っていたのに、気づけば皿はもう空になっている。


 小森は一つ目を食べ終える前に、老婆に向かって「あの、おかわりってあります?」と聞いていた。


 ススがユウトの肩から七輪の縁へ飛び移る。真っ赤に熾った炭をひとかけら抱え込むと、両手でかじりはじめる。かりかりと小気味いい音がした。


「おやまあ、炭が好きなのかい。いくらでもお食べ」


 老婆が笑って炭を一本足してやる。ススはそれも抱え込んで、うれしそうに身を震わせる。


 ユウトは隣の金城を見た。


 金城は黙々と握り飯を食べている。大きな口で、ひと口ずつ確かめるように噛んでいる。この仕事が始まってから、金城がちゃんと食事をしているところを見るのは初めてだった。


 味噌汁を最後まで飲み干すと、金城は椀を置いて、小さく息を吐く。


「……うめえな」


「そりゃよかった。網を切ってもらった礼にしちゃ、安いもんだけどね」


 金城は老婆の濡れた袖にちらりと目をやったが、何も聞かなかった。


 老婆は団扇を動かしながら、金城の椀に味噌汁をもう一杯注いでやった。


    *


 出発のとき、老婆はのれんの前に立って手を振っている。


「気をつけてお行き。次は夜の長いところだからね」


 列車が動き出す。


 ユウトは窓から湖を振り返った。


 朝の光の中で、湖面は鏡のように静まっている。遠くに、水面から突き出した鳥居が小さく見えた。


 その根元のあたりで、ぽこりと泡がひとつ浮かんだ。


 風に乗って、かすかな音が聞こえた気がした。小銭を手のひらの中で擦り合わせるような、ちゃりちゃりという音だった。


 また泡がひとつ浮かんで、弾ける。


 ちゃり、と音がした。


 列車がトンネルに入ると、その音はもう聞こえなくなった。


 (第3話 了)

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