霧
霧ヶ原駅は板張りのホームがひとつあるだけの小さな駅だった。
金城が先に降りてホームの端から端までをゆっくりと歩いて回る。時々しゃがんで線路をのぞき込み、霧の向こうに目を凝らしているのが窓越しに見えた。やがて機関室の前まで戻ってくると窓を拳で二度叩く。
「降りていいぞ。あんま離れんなよ」
ホームに降りると湿った土と稲のにおいがした。
駅舎は木造で屋根の瓦がところどころ落ちている。改札には誰もいない。駅の向こうには田んぼが広がっていて、そのあいだを細いあぜ道が縫うように延びていた。田んぼの先には瓦屋根の家が十軒ほど身を寄せ合うように建っている。どの家にも明かりはついていない。
線路は駅の先で山にぶつかり、そのままトンネルに吸い込まれていく。
トンネルの入り口からは霧が煙のようにあふれ出していた。中は真っ白で一メートル先も見えそうにない。
「なあ、あんなとこ走って大丈夫なのかい? 前も見えないじゃないの」
堂島がトンネルを指さすと、金城は黙って機関車の正面に回った。
先頭についている丸いライトのガラスが蜘蛛の巣のように割れている。中の電球もなくなっていた。
「ライトがねえと無理だな」
「えー、また部品探し? だるすぎなんだけど」
ミオがスマホを高く掲げながら文句を言う。画面の隅には相変わらず圏外の文字が出ていた。
*
駅舎の中で電話が鳴ったのはそのときだった。
ジリリリリと耳に刺さるような古いベルの音だ。
待合室の窓口に黒い電話機が一台置いてある。埃をかぶっていて、コードは途中で千切れていた。それでもベルは鳴り続けている。
誰も動かない中で金城が受話器を取った。
「……おう」
受話器の向こうから落ち着いた声がかすかに漏れてくる。聞き覚えのある声だ。
金城はしばらく黙って耳を傾けていたが、やがて何も言わずに受話器を置いた。
「誰からだったんです?」と白石が聞く。
「あのスーツの野郎だ。レンズは村のどっかにあるってよ。決まりごとは村のもんに聞けとさ」
受話器を置いたあとも、千切れたコードの先は窓口の下でぶらぶらと揺れていた。
*
村へ向かうあぜ道の途中で、霧の中から人影が現れた。
野良着姿の老人だった。腰が曲がっていて肩に鍬を担いでいる。日に焼けた顔には深いしわが刻まれ、口をへの字に固く結んでいた。
「えっ待って、第一村人発見ー!」
ミオが真っ先に駆け寄って、老人の顔の前にスマホを突き出す。
「おじいちゃんこんにちはー! 今配信中なんだけど、なんか一言もらえる? この村ってなんでこんなに霧すごいの?」
老人はミオのほうを見もしなかった。スマホをよけるでもなく、そのまま横を素通りしていく。
「え、ちょっと、聞こえてる? おじいちゃーん?」
老人はユウトたちの前まで来ると足を止めた。濁った目で一人ずつ顔を見回し、最後に田んぼの真ん中を顎でしゃくる。
そこに赤いものがぽつんと見えた。小さな祠だ。屋根の色はほとんど剥げているのに、扉の前に掛けられた前掛けだけがやけに鮮やかな赤をしている。
「あの祠にゃあ近寄るでねえぞ」
しゃがれた声でそれだけ言うと、老人は鍬を担ぎ直して歩き出した。そのまま霧の中へ入っていき、すぐに姿が見えなくなる。
「はあ? ちょっと待って、ガン無視なんだけど!」
ミオは頬をぷくっと膨らませて、その場で足をどすどすと踏み鳴らした。
「ミオのこと完全にいないものとして扱ってなかった? ひどくない? ねえコメ欄、今のひどくない? もう激おこなんだけど!」
スマホに向かって唇を尖らせてみせるが、画面は相変わらず圏外のままだ。
祠の少し手前にはかかしが一本立っていた。
ここに着く前に列車の窓から見えたあのかかしだ。近くで見てもやはり大きい。大人の倍ほどの背丈があり、頭にかぶった菅笠の下は霧にかすんで見えなかった。両腕を広げたまま祠のほうを向いて立っている。
「近づくなとか言われたら逆に行きたくなるよね。サムネにしたら絶対伸びるって」
「おい」
金城が低い声を出すと、ミオは大げさに肩をすくめてみせる。
「冗談じゃん。こわ」
*
駅からいちばん近い家は玄関の引き戸が半分開いたままになっていた。
「ごめんくださーい」
ミオがふざけた声で呼びかけながら真っ先に上がり込んでいく。土足のままだった。
土間には長靴が四足きちんと並べてある。上がり框の先は茶の間で、ちゃぶ台の上に茶碗と箸が四人分置かれていた。茶碗の中のご飯はからからに乾いて黄ばんでいる。食べかけのまま家の人だけがどこかへ消えてしまったように見えた。
壁のカレンダーは昭和の年号のまま止まっている。
「うわ、ガチの廃村じゃん。これ絶対なんか出るって」
ミオは茶の間を舐めるようにスマホで撮っていく。奥の仏間に入ったところで、その足がぴたりと止まった。
「あ、さっきのガン無視じじいじゃん」
ユウトも後ろから仏間をのぞき込む。
仏壇に遺影が飾ってあった。白黒の写真の中で老人が口をへの字に固く結んでいる。深いしわも日に焼けた顔の色も、さっきあぜ道で会った老人とそっくりだった。額縁の角には黒いリボンが掛けられている。
「え、ここあのじじいの家? お父さんとかの遺影かな。似すぎてウケるんだけど」
ミオは遺影を手に取ると自分の顔の横に並べた。
「さっきのお返しにツーショット撮っちゃお。心霊写真撮れたらマジで神回なんだけど」
ユウトはあぜ道で見た老人の背中を思い出していた。霧の中へ歩き去るとき、足音はひとつも聞こえなかった気がする。
その横では堂島が仏壇の引き出しを開けていた。中から小銭の入った封筒を見つけると、慣れた手つきでジャンパーのポケットに滑り込ませる。
「堂島さん、それ」
ユウトが思わず声をかけると、堂島はへらへらと笑った。
「どうせ誰も使わないんだからさあ、もったいないだろ? なあ、兄ちゃんも黙っててくれよお」
「私は何も見てませんからね」
白石は茶の間の入り口に立ったまま、そう言って目をそらす。
小森は「じゃあ僕、二階見てきますね」と階段を上がっていったが、しばらくしても足音ひとつ聞こえてこない。のぞいてみると、階段のいちばん上に座り込んでイヤホンをつけている。
金城は何も言わなかった。
ミオが放り出していった遺影を拾い上げると袖で埃を払い、仏壇の元の位置に戻す。それから仏壇の扉を両手でそっと閉める。
家を出るとき、ユウトは茶の間の窓から田んぼのほうを振り返った。
かかしが見える。
さっき見たときよりも少しだけこちらに近い場所に立っている気がした。
*
その家にレンズはなかった。
ほかの家をまとめて回っていては日が暮れてしまうので、ここからは手分けすることになる。組み分けは今日も金城が決めた。
ミオと小森は駅の近くの家を見て回る。金城とユウトは村の外れに見える火の見櫓へ向かうことになった。
「俺は一人で回らせてもらうよ。そのほうが気楽でいいや」
堂島はそう言うと、返事も待たずに村の奥へ歩いていく。
「勝手にしろ」
金城はその背中に一言だけ投げた。
白石は「じゃあ私は駅で皆さんの荷物を見ておきますね」と言い、さっさと待合室のベンチに腰を下ろしている。
あぜ道を歩いていると稲が擦れ合う音がした。
さわさわと、すぐ近くで鳴っている。ユウトは足を止めて田んぼを見回した。稲穂は揺れているのに、頬には風がまったく当たらない。
あぜ道の土の上には藁くずが点々と落ちていた。何かを引きずったような跡が田んぼの中から出てきて、あぜ道を横切り反対側の田んぼへと消えている。
「何突っ立ってんだ。行くぞ」
前を歩く金城が振り返りもせずに言う。
ユウトはもう一度だけ祠のほうを見た。
かかしの位置がまた違う。今は祠から離れて、こちらのあぜ道のほうへ寄っていた。
菅笠がわずかにこちらを向いている。
気のせいだと思うことにして、ユウトは金城の背中を追った。肩の上ではススが毛を逆立てている。
*
火の見櫓の下には消防団の詰所らしいトタンの小屋が建っていた。
戸を開けると、ホースや鳶口といっしょに古い木箱がいくつも積まれている。金城がそのひとつの蓋をこじ開けた。
中には筒状の花火がぎっしりと詰まっている。紙の包みに、かすれた墨の字で「百連発」と書いてあった。
「祭り用か。湿気てなきゃいいけどな」
持って帰るつもりなのか、金城は木箱を詰所の外へ運び出して櫓の足元に下ろす。
前照灯のレンズは櫓のてっぺんにあるらしい。見張り台に取り付けられた古いサーチライトに、ちょうど同じくらいの丸いガラスがはまっているのが下からでも見えた。
櫓の梯子は錆びついていて、ところどころ横木が抜けている。
「俺が押さえとく。お前が上がれ」
「え、僕がですか」
「俺が上がったら梯子ごと落ちんだろうが」
ユウトは梯子に手をかけた。一段のぼるごとに鉄が嫌な音で軋む。下を見ると、金城が両腕で抱え込むようにして梯子を支えていた。
見張り台に上がると村全体が見下ろせる。
霧はさっきよりも濃くなっていた。田んぼの半分ほどが白く沈んでいて、駅舎の屋根がかろうじて見える程度だ。
サーチライトのガラスを外しにかかったとき、田んぼの中で何かが動いた。
ピンク色が見える。
ミオのマウンテンパーカーだ。あぜ道を一人で歩いている。自撮り棒を高く掲げたまま、祠のほうへまっすぐ向かっていた。
「金城さん、柚木さんが!」
ユウトの声に、下にいた金城が顔を上げる。
ミオの声が霧の向こうからかすかに聞こえてきた。
「やば、ここ電波立つんだけど! みんな見えてる? 今から立入禁止の祠に突撃しまーす」
駅の周りではずっと圏外だったスマホが、田んぼの真ん中でだけ繋がるらしい。ミオは小走りになって祠の前にしゃがみ込む。
かかしの姿はどこにもなかった。
さっきまで祠の近くに立っていたはずなのに見当たらない。ユウトは手すりを握りしめて霧の中に目を凝らした。
稲が鳴っている。
さわさわ、さわさわと田んぼ全体がざわめいていた。その音が少しずつ祠のほうへ寄っていく。
ミオは祠の扉を開けていた。
「うわ、中めっちゃ物入ってる。長靴とか、カメラとか……え、これランドセル? 激レアじゃん。持って帰ったら絶対バズるって」
ミオは祠の中から古いカメラを取り出すと、自分の顔の横に掲げてみせる。
その瞬間、稲の音が止んだ。
田んぼ全体がしんと静まり返る。
ミオの背後の霧に菅笠が浮かんでいた。地面からずっと高いところに、ぽっかりと。
「柚木さん! 後ろ!」
ユウトは叫んだ。ミオは振り返らない。聞こえていないのか聞く気がないのか、画面に向かって笑い続けている。
霧がミオの姿をゆっくりと覆っていく。
最後まで見えていたのはスマホの画面の明かりだった。それもすぐに白く塗りつぶされてしまう。
*
梯子の下で金城が動いた。
「相良、お前はそこにいろ。降りてくんなよ」
それだけ言うと、金城は霧の中へ走り出していく。あぜ道を祠のほうへ。
「柚木! どこだ!」
金城の声が霧の向こうで何度も響いた。ユウトは見張り台の上で、手すりにしがみついていることしかできない。
霧の切れ目から一瞬だけ金城の姿が見えた。
あぜ道の真ん中で立ち止まっている。
その目の前にかかしが立っていた。
見張り台の上からでもその大きさがわかる。金城の倍ほどの背丈だ。藁でできた体は湿って黒ずみ、広げた両腕の先から藁がだらりと垂れている。菅笠の下には顔らしいものが何もない。それなのに、金城を見下ろしているのがはっきりとわかった。
金城は動かない。動けないのかもしれなかった。
かかしの片腕がゆっくりと持ち上がる。
そのとき、ユウトの肩がふっと軽くなった。
ススだ。肩から飛び降りたススが櫓の柱を伝い、転がるように地面へ下りていく。向かう先には金城が運び出しておいた花火の木箱があった。
ススは木箱の中に潜り込んだ。
一拍置いて、箱の中から火花が噴き出す。
ドンと腹に響く音がして、一発目が霧を突き破って空へ上がった。続けて二発目、三発目。そこからはもう数えきれない。百連発の花火が櫓の足元から次々と打ち上がっていく。
白い空が赤や緑に染まっていた。
かかしの腕が持ち上がったところで止まる。
菅笠がゆっくりと空を仰いだ。次の瞬間、かかしは鳥に驚いたように大きく身を引き、霧の奥へ滑るように下がっていく。ざざざと稲をかき分ける音が遠ざかっていった。
花火はそれからしばらく鳴りやまない。
*
最後の一発が消えた頃、金城があぜ道を戻ってきた。
一人だけだ。
右手にミオの自撮り棒を握っている。途中からぐにゃりと折れ曲がっていて、先についていたはずのスマホはなくなっていた。
金城はそれを花火の空き箱の中へ放り込むと、櫓を見上げた。
「レンズは取れたのか」
「あ、はい……」
「なら降りてこい。戻るぞ」
ユウトは梯子を降りると、金城が背を向けたすきに箱の中の自撮り棒を拾い上げた。
木箱の中からススが這い出してくる。ひと回り縮んで、毛並みがところどころ焦げていた。ユウトが手のひらを差し出すと、ススはよろよろとそこへ乗ってくる。
駅に戻ると白石と小森が待合室から顔を出した。
「さっきの音、何だったんです? すごい音でしたけど」と白石が言う。
「あれ、柚木さんは? 一緒じゃないんですか」
小森が首をかしげる。
「お前と一緒に家を回ってたはずだろ」
金城の言葉に、小森はすっと目をそらす。
「いや、なんか電波探してくるって言って、一人で行っちゃったんで……。一応、僕は止めたんですけどね」
少し遅れて堂島も村の奥から戻ってきた。ジャンパーのポケットは出ていったときよりも明らかに膨らんでいる。
「おいおい、なんの騒ぎだい今の。祭りでも始まったのかと思ったよお」
誰も答えなかった。
*
霧がまた濃くなってきたので、出発は明日の朝にすることになった。
日が暮れかけた頃、金城は詰所から持ってきた懐中電灯を手に一人で駅を出ていこうとする。
「どこ行くんですか」
「便所だよ」
そう言って出ていったきり、金城はなかなか戻ってこなかった。
ホームの端に立つと、暗くなった田んぼのどこかで懐中電灯の明かりが揺れているのが見える。明かりはあぜ道を行ったり来たりしながら、時々止まってはまた動き出していた。風に乗ってかすかに声が聞こえてくる。何と言っているのかは聞き取れない。
客車の中では白石が自分の毛布を広げていた。
「正直、自業自得じゃないですか? あれだけ近づくなって言われてたのに」
「まあねえ。人の言うこと聞かないやつは、ああなるってことだよ」
堂島は相槌を打ちながら段ボールの中を漁っている。缶詰をひとつ取り出すと、ためらいもなく蓋を開ける。
「それ、柚木さんの分じゃ……」
「もう要らないだろ? 腐らせるほうがもったいないってもんだよ」
小森は聞こえないふりをしてイヤホンを耳に押し込んだ。
ユウトは何も言えずに、窓の外の小さな明かりを見つめている。
金城が戻ってきたのはすっかり夜になってからだった。作業着の膝から下が泥で真っ黒に汚れている。
金城は段ボールの前にしゃがみ込むと中身を数えはじめた。それから乾パンをひと袋だけ取り分けて、段ボールの隅に置き直す。誰の分なのかは言わなかった。
空になった缶詰を見ても、金城は堂島に何も言わない。黙って自分の乾パンを半分に割ると、片方をポケットにしまって扉の前に座り込んだ。
その夜はストーブの火がなかなか強くならなかった。ススが火室のほうでずっと丸まって眠っていたからかもしれない。
*
翌朝、霧はだいぶ薄くなっていた。
金城は機関車の正面に回ると、割れたガラスを外してサーチライトのレンズをはめ込んだ。
電球は詰所に残っていた予備のものを使う。配線をつなぐと前照灯がぼんやりと黄色い光をともした。
その光がトンネルの霧を照らし出す。
白い壁のようだった霧の中に一本の道が通った。レールが光を跳ね返して、奥のほうまでまっすぐに延びている。
ススが火室に戻ると、機関車は息を吹き返したように低く唸りはじめた。
「出すぞ」
金城がハンドルを引く。
列車がゆっくりとホームを離れていった。
ユウトは客車の窓から遠ざかっていく田んぼを見ている。
稲穂の海の向こうに祠の赤い屋根がぽつんと見えた。
その手前にかかしが立っている。
ここに着いたときと同じ場所で、同じように両腕を広げて祠のほうを向いていた。
ひとつだけ違うところがある。
かかしの肩にピンク色のマウンテンパーカーが掛けられていた。
湿った藁の腕に袖を通すようにして、きちんと着せてある。フードが菅笠の後ろでだらりと垂れ下がっていた。
ユウトは窓から目を離せずにいる。
「寒いので、窓閉めてもらえます?」
隣の席から白石の声がした。
列車がトンネルに入る。前照灯の光の中で霧が渦を巻きながら後ろへ流れていく。
ユウトの膝の上には、折れ曲がった自撮り棒が載ったままだった。
(第2話 了)




